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墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里」

三千里

絵/dskさん

墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里

◎墓参リスト

・我が墓巡礼ライフの原点、すべてはこの人から始まった 〜心優しき文豪ドストエフスキー

・忘れられない一期一会 〜ヘミングウェイに会いたくて

・小林多喜二巡礼 〜“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ

・鼠小僧次郎吉巡礼 〜お寺と墓参者の、約180年という長きにわたる攻防戦

・爆走!闇タクシーで珍道中 〜キューバの英雄チェ・ゲバラ

・織田信長 〜戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上

・スヌーピーの生みの親チャールズ・シュルツ 〜 パトカーで墓巡礼

・ジャマイカ大疾走! “レゲエの神様”ボブ・マーリィ巡礼

・農民として生まれ武士として散る 〜新選組局長・近藤勇

・世阿弥元清〜能を究めた舞の名手を訪ね、非公開寺へ

・オードリー・ヘプバーン 〜世界を魅了した銀幕の猴点梱

・ベートーヴェン巡礼 〜巨匠の側に有名作曲家が大集合!

・平 清盛 〜貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長

・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 〜墓が語る兄弟愛

・坂本龍馬〜「日本を今一度、洗濯いたし申し候」

・チャップリン 〜ヒトラーと戦った喜劇役者

・岡本太郎 〜前衛美術運動の旗手は、お墓もインパクト絶大

・“ピアノの詩人”ショパン 〜ハートは祖国に戻った

・民衆を救うため命がけの蜂起! 〜日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

・オーギュスト・ロダン 〜“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

・黒澤明 〜銀幕を通して世界との架け橋に

・絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 〜ジャン=フランソワ・ミレー

・夏目漱石 〜文豪は“安楽椅子”でくつろでいた

・ドイツの古都に並ぶ友情の墓 〜ゲーテ

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ドイツの古都に並ぶ友情の墓 〜ゲーテ

ゲーテ
向かって左側がゲーテ、右隣がシラー。霊廟では石棺に入っていることが多く、木棺そのままというのは珍しい

「科学と芸術は全世界に属する。それらの前には国境など消え失せてしまう」。

愛をもって自然や人間を深く観察し、人生のどんな悲しみや苦痛も、美しい作品へ転化させたゲーテ。彼は23歳の時、舞踏会で出会った16歳の少女ロッテを熱烈に愛した。だが、彼女は友人の婚約者であることを知り、ゲーテは苦悩の果てにその土地を去る。その後も想いを断ち切れず、ロッテの結婚式が迫るとベッドで短剣を胸に当てるようなことをしていた。

そんな折、親友が人妻への片想いに悲嘆してピストル自殺してしまう。多感なゲーテは打ちのめされ、精神的危機を乗り越えるために自らが体験した悲恋を小説に昇華させ、2年後に『若きウェルテルの悩み』を出版した。

ウェルテルは善良で明るい青年だったが、婚約者のいる女性を愛したことから精神が崩壊し、銃口を自らに向ける。悲劇的な結末であったが当時の若者から熱狂的に支持され、国境を越えてヨーロッパ最大のベストセラーとなった。青い燕尾服と黄色のチョッキというウェルテルの服装でピストル自殺する若者が続出し、各地で発禁処分になったほどだ。

ゲーテいわく「この小説を若いときに読んで、これは自分のために書かれたのだと感じたことがないような人は不幸だ」。

20代後半からゲーテの興味は文学から科学へ移り、長らく創作活動から遠ざかっていたが、45歳の時に10歳年下の劇作家シラーから「あなたの本領は詩の世界にある」と説得され、創作意欲が再び燃え上がった。両者は互いに励まし合い名作を世に送ったが、シラーは肺病に冒され40代半ばで他界する。訃報を聞いたゲーテは「自分の存在の半分を失った」と倒れ込んだ。

それから四半世紀後、死の前年に『ファウスト』が完成し、「シラーと出会っていなかったら完成していなかった」と亡き友に感謝した。享年82。

僕が初めてワイマール(旧東独領)で墓を訪れたのは1989年の夏。ベルリンの壁が崩壊する直前で、国営旅行社で行き先の宿を手配しないと鉄道の切符も買えないという不自由さだった。霊廟の地下へ降りると、ゲーテとシラーの墓が並んでいた。

“墓”といっても木棺そのままの状態。驚くと共に故人の存在を強く感じ、エールを送り合った2人が並ぶ光景に胸が熱くなった。ゲーテの言葉「空気と光と、そして友達。これだけが残っていれば、気を落とすことはない」を思い出した。

この時の巡礼は南仏で荷物をすべて盗まれ写真が残っていない。まだネットのない時代、墓写真は僕にとって憧れのヒーローの生ブロマイドだ。どうしても写真が欲しくて1994年に再び墓所を訪れ愕然とした。霊廟保存工事の為、まさかの臨時閉館! 日本からどんなに遠いか分かっているのかドイツ政府よ…。

2005年、墓前にて彼らに感謝の言葉を伝えた後、3度目の正直でついに夢に見たブロマイドをこの手に…感無量!


ゲーテ
ワイマール国民劇場の前に建つ、ゲーテとシラーの像。ゲーテは友の肩にそっと手を置いている

※『月刊石材』2012年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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夏目漱石 〜文豪は“安楽椅子”でくつろでいた

夏目漱石
漱石の墓は安楽椅子の形。雑司ヶ谷霊園でも一際目立つ、唯一無二の造型だ

大阪在住の僕が上京の際によく訪れる墓地は、都心で交通の便が良い雑司ヶ谷霊園、青山霊園、谷中霊園だ。中でも雑司ヶ谷は夏目漱石の他、小泉八雲、永井荷風、泉鏡花など文人が多く眠っており好んで墓参している。

漱石の本名は夏目金之助。1867年、幕末生まれ。高校の英語教師をしていた33歳の時に、国の命令で英国へ留学生として派遣される。ロンドンでは孤独感から神経衰弱が悪化し部屋に閉じこもった。やがて、文部省に「夏目金之助発狂す」と報が入り、留学は2年強で終了。

「この世に生れた以上、何かしなければならん。といって何をしてよいか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ちすくんでしまった」(漱石)。

帰国後、教壇に立ちながら悩む漱石に、友人の高浜虚子が「沈うつな思いをありのまま吐き出せば気晴らしになる」と小説の執筆を薦めた。

1905年、漱石は教師の日常を猫の目を通して書いた『吾輩は猫である』を発表し、好評を博す。

翌々年、人生の転機が訪れた。新聞社から専属作家の契約依頼がきたのだ。5人の子どもを抱えていた40歳の漱石は即答できなかった。既に東大に教授のポストが用意されていたからだ。名誉ある東大教授の職は、高収入で安定している。一方、作家は明日の保証すらない仕事。漱石は1ヵ月悩んだあげく、東大総長宛に辞職願いを提出した。この時の心境を彼は日記に残している。

「大学では4年間講義をした。食えなければ、いつまでも(職に)かじり付き、しがみ付き、死んでも離れないつもりであった。しかし近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである」。

作家業に専念した漱石は、『三四郎』『それから』『門』と立て続けに名作を生み出したが、43歳の時に胃潰瘍が原因で修善寺温泉にて大吐血、生死の境をさ迷う。一命を取り留めた後、より精神世界に深く切り込んだ『行人』『こころ』を書き、最後の長編『明暗』のクライマックス直前に病没した。「胸に水をぶっかけてくれ!死ぬと困るんだ!」と死の床で訴えたという。

漱石に墓参する際は管理事務所で地図をもらおう。漱石の弟子・芥川龍之介が墓参にきて自力で辿り着けなかったほど霊園は広い。特徴的な墓石は、一周忌の折に「西洋の墓でも日本の墓でもない、安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへよう」(鏡子夫人)という話になり、建築士の妹婿が設計したという。

現在、漱石が晩年を過ごした漱石山房は漱石公園(新宿区早稲田南町)として整備されている。公園内の『猫塚』は夏目家のペット(犬、猫、小鳥)の合同供養塔だ。

人間のドロドロのエゴをあぶり出しつつ、根底はヒューマニズムを貫いた漱石。あの世があるならば、僕は他界後すぐに漱石先生に会いに行き『明暗』の結末を聞くつもりだ。

夏目漱石
漱石公園の猫塚は“吾輩”の猫の13回忌に建立。戦災で倒壊し漱石37回目の命日に再建された

※『月刊石材』2012年11月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 〜ジャン=フランソワ・ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー
白い十字架が立つミレーの墓(右側)。左の“岩墓”は盟友ルソーのものだ

「人間には分からないが、森の樹木たちは互いに何かを会話している」(ミレー)。

日本は科学技術立国である一方、同時に農業国でもあり、農民画家ミレーが大人気だ。岩波書店は戦前から『種蒔く人』をシンボルマークに選んでいる。だが、その人生が貧困との戦いだったことはあまり知られていない。

ミレーは1814年、ノルマンディーの寒村に農家の長男として生まれた。父に画才を認められて19歳から画塾に通う。父の死後、農家を継ごうとしたが、祖母が画家の道を歩むよう説得し、パリに出て修業を続けた。

26歳で作品が初めてサロン(官展)に入選。この成功は故郷でも評判になり、妻を迎えて未来に期待を膨らませたが、その後は3年連続で落選し、妻も肺結核で先立つ。翌年再婚し、パン代を稼ぐため自らが軽蔑していた裸婦画を何枚も描き続ける。新しいカンバスを買うお金さえ底をつき、前年の落選作品の上に描いた宗教画が7年ぶりにサロンに入選した。

1848年、2月革命が勃発したこの年、ミレーに転機が訪れる。街頭に飾られていた自分の絵を、パリ市民が「ミレーは女の裸を描くしか能の無いくだらない画家だ」と噂していたのだ。

衝撃を受けたミレーは、妻に「もう裸体画はやめだ。もっと貧しくなるだろうが、僕は農民たちと生活しながら自分自身の芸術を生み出す」と宣言。妻もミレーの画業を支えた。移住したバルビゾン村はフォンテーヌブローの森に接しており、村民の3割瓩画家という芸術家村。ミレーは午前中に畑を耕し、その後に絵筆を握った。

そして1850年(36歳)、農民を主役にした記念すべき作品『種蒔く人』が誕生する。当時は働く農民を中心にした絵を誰も描いていなかった。『種蒔く人』の表情がぼやけているのは、特定の人を描くのではなく、大地で働くすべての人に当てはまるように描いたからだ。農家の息子にとって畑仕事は聖なる労働だ。

だが、農民画は売れなかった。都会の人々は「美しい風景」が描かれた田舎の絵を求めており、農作業の辛さを描いたリアルな農民画は狄謬そい瓩鳩姫鵑気譴拭M眷、祖母が死去したが交通費がなく葬儀に立ち会えなかった。

40代後半になってようやく『落穂拾い』『晩鐘』などが評価され始め、やがて政府から装飾画の注文を受けたが、その頃は病魔に犯されており、1875年、家族に見守られながら生涯を閉じた。享年60。

ミレーの墓があるバルビゾンは路線バスがないためタクシーを使うことになる。狠かと割り勘で行けないか瓩塙佑┘優奪箸埜討咾けたところ、パリ留学中の学生さんが応えてくれ、2人で墓参を敢行した。

ミレーの墓は親友の画家T・ルソーと並んでいて感動的だ。ミレーの貧困時代、2歳年上のルソーは名前を変えてミレーの絵をこっそり買うことで、ミレーのプライドを傷つけぬよう援助していた。一方、ルソーは猴鄙王瓩琉枳召鮖つほどサロンで落ち続け、ルソー没後はミレーがルソー家の面倒をみてあげていた。

友人同士の墓が並んでいるのを見るのは墓巡礼で胸が熱くなる瞬間だ。

ジャン=フランソワ・ミレー
大切に保存されているバルビゾン村のミレーの家。愛用のパレットが絵の具を乗せたまま展示されている

※『月刊石材』2012年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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黒澤明 〜銀幕を通して世界との架け橋に

黒澤明
黒澤家の墓。鎌倉は小津安二郎、木下恵介、田中絹代、笠智衆など映画人の墓が多い

かつて、井上ひさし氏が「オーストラリアに滞在していた時に、現地で黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」と語っていた。外交問題で感情的な言葉が飛び交う昨今、芸術は国境を越えて心の共有という素晴らしい体験をもたらす人類の宝であり、本当に大切にしたいもの。

“世界のクロサワ”は明治末期の1910年に東京で生まれた。当初は画家を志し、美術学校を受験するが不合格。アルバイトをしながら絵筆を握り続け、無名の画家として悶々としていた。

26歳の時、新聞の「助監督募集」という広告が人生を変える。競争率百倍の狭き門を突破して現東宝に入社し、7年後に『姿三四郎』で監督デビューを果たす。映画は大ヒットし、以降、55歳で発表した『赤ひげ』まで毎年のように作品を撮り続けた。

黒澤は他の映画のオーディションに落ちたデビュー1年目の三船敏郎を大抜擢し、観客はその圧倒的な存在感に度肝を抜かれた。「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」。

ヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)に輝いた『羅生門』(1950)では、雨の土砂降り感を出すために、墨汁入りの雨を消防車数台で降らせた。同作はアカデミー賞特別賞(現・外国語映画賞)も獲得し、戦争の爪痕がまだ各地に残る中、日本映画が世界から評価されたことが、日本人の沈んだ気持ちを明るくさせた。

そして1954年、世界映画史に燦然と輝く『七人の侍』が完成!

「ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カレーをぶち込んだような、もう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」

集団を映しながらも一人ひとりの生命の重さを描きあげた同作は、世界の映画人の心を鷲掴みにし、海外では『荒野の七人』など犲型佑發劉瓩数多く制作された。スピルバーグいわく「映画の撮影前や制作に行き詰まった時には、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見る」。

だが、黒澤は50代後半から映画会社に干されてしまう

“完全主義”の結果、制作費が毎回のように予算オーバーするためだ。追いつめられ浴槽でカミソリ自殺をはかり、傷は首筋5ヵ所をはじめ21ヵ所に達した。そんな黒澤を助けてくれたのはフランス政府やハリウッドの映画人たち。海外の援助で『影武者』『乱』が完成した。1997年に三船が世を去り、後を追うように翌年脳卒中のため永眠。享年88。

墓所は鎌倉市の安養院。他界の1年後に墓参したところ、監督の左隣が空いていたので、大ファンの僕は「檀家になれば監督の横に眠れますか」とご住職に思い切って尋ねてみた。返事は「あまりに希望者が多いので、皆が平等になるよう隣りはお墓にしません」。

10年後に再訪すると隣りはブロック塀で囲まれ、本当に物置(卒塔婆置き)になっており、ご住職の英断に感嘆した。


黒澤明
三船敏郎の墓(川崎市、春秋苑)。黒澤とのタッグは計16本にも及んだ

※『月刊石材』2012年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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オーギュスト・ロダン 〜“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

オーギュスト・ロダン
ロダンの墓。『考える人』の原型は足下が地獄。あえてそこに眠るのは彼の意思なのか

「芸術家である前に人間であれ」(ロダン)。豊かな生命力と、力強い精神性を秘めた人物彫刻を多数生み出したロダン。ミケランジェロ以降の最大の彫刻家で、単に外見をモデルに似せるだけでなく、内面世界まで形にしようとした。

1840年、パリ生まれ。子どもの頃から絵を描くのが好きで、14歳より工芸学校に通い始める。粘土を握る楽しさに開眼したロダンは、専門教育を受けるべく国立美術学校の入学を目指したが3度にわたって失敗。入学を断念し、建築装飾の職人となり独学で彫刻を学んだ。24歳で生涯の伴侶となるローズと出会い長男が誕生。同年、サロン(美術展)に出品するが落選し、以降13年間は世に出ることもなく黙々と作品を造り続けた。

生活を切り詰め貯金し、35歳で念願のイタリア旅行を敢行。現地でルネサンス時代の作品が持つ強い存在感に衝撃を受ける。いわく「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」。

ロダンは興奮を胸に等身大の男性像『青銅時代』を発表し、美術界の注目を集めるが、生き写しと感じるほどリアリティがあったために「生身の人間から直接石膏の型をとったのでは」とあらぬ中傷を受け、サロンでも落選した。怒ったロダンは、人間よりずっと大きな彫刻を制作して疑う者をねじ伏せ、誤解が解けたことでフランス全土に名声が広まった。

40歳からライフワークとなる『地獄の門』の制作をスタート。この門はダンテの「神曲・地獄編」をモチーフにしており、高さ5.4メートル、幅3.9メートル、重さ7トンの超大作となる。何度も構想を練り直し、生みの苦しみの中でロダンの心を捉えたのが、十九歳の美貌の女弟子カミーユ・クローデルだった。彼女は彫刻家として素晴らしい才能を持っており、ロダンは愛弟子との情愛にのめり込む。だが、ローズと別れることは出来ず、ドロドロの三角関係が15年も続く。

最終的にロダンはローズを選び、カミーユは精神のバランスを崩し発狂してしまう。1889年、『地獄の門』で扉の上部から地獄の情景を見下ろしている男を単独作品『詩人』として発表。地獄の門にはカミーユや私生児の姿もあることから、“詩人”はロダン本人とも言われている。この像は後に鋳造した人物に『考える人』と名付けられた。

1917年、長く内縁の妻だったローズに死期が迫り、ロダンは正式に彼女と結婚。その16日後にローズは世を去った。そして9ヵ月後にロダンも後を追うように他界する。享年77歳。

ロダンの墓は没地ムードンのロダン邸(現ロダン美術館)にある。パリからは約40分。電車を乗り継ぎ、住宅街の中を迷いながらたどり着くと「休館日」の看板。ノーッ! 僕はインタホン越しにひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」「トンブ!トンブ!(墓)」と守衛さんに連呼し、10分後、涙声に折れた守衛さんが門を開けてくれた。

無事に『考える人』の足下に眠るロダンに巡礼でき、ロダンにも守衛さんにも「メルシー!」と大感謝。

オーギュスト・ロダン
東京の国立西洋美術館にある『地獄の門』。186もの人体で埋め尽くされた驚愕の力作!

※『月刊石材』2012年8月号より転載


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カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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民衆を救うため命がけの蜂起! 〜日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

大塩平八郎
左が平八郎で“中斎”は号。右は養子格之助。明治まで“大罪人”大塩の墓を造ることは禁じられていた

震災の復興よりも政治闘争に明け暮れ、マニフェストとは正反対のことに血道をあげる政治家たち。国民の怒りは灼熱のマグマとなり噴火寸前だ。社会を変えたいと思うとき、現代は選挙という形で意思表示が出来るけど、江戸時代は幕府があまりに強大で、庶民は世を変えたくても為す術がなかった…大塩平八郎が蜂起するまでは!

江戸後期(1793年)に大阪で生まれた大塩は、先祖が家康から直々に愛用の弓を賜った旗本。十代前半で奉行所に出仕、25歳で正式に大阪町奉行所与力となった。“与力”は今で言う警察機構の中堅。大塩は裏社会のシンジケートを壊滅させ、没収した三千両(約2億円)を貧民への施し金とした。さらに複数の幕府高官による汚職事件の証拠を掴むが、圧力が加わり捜査は打ち切られてしまう。大塩は職を養子・格之助に譲って奉行所を去り、学問(陽明学)の道を究めていく。

1833年から始まった“天保の大飢饉”は餓死者が30万人に達し、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となった。

大塩は奉行所を訪れ「米問屋にはたっぷり米があるのに、豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えた。だが、町奉行は豪商から賄賂を貰い聞く耳を持たない。大阪の米価は六倍まで急騰し、民衆の窮状を見かねた大塩は、大切にしてきた5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた約六百万両を1万人の貧民に配った。

ときに大塩44歳。力ずくで豪商の米蔵を開けさせることを決心し、堺で鉄砲を買い付け、高槻藩からは大砲数門を借りた。蜂起日を1837年2月19日夕刻と定め、私塾『洗心洞』門下生(与力時代の仲間が中心)ら約30名の同志が連判状に名を連ねる。

大塩の最終目標は有り余るほど大量の米を備蓄している「大阪城の米蔵」だ。ところが、決行日の未明に仲間2人が裏切り奉行所に計画を密告。大塩は予定を早め、午前八時に「救民」の旗を掲げて蜂起した。大塩一党は豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していく。町衆も混じり300人の勢力になったが、午後になると大阪城から約2,000人の幕府軍が出陣、大塩らは二度の総攻撃を受けて鎮圧された。

大塩父子は約40日間逃走したが、潜伏先を包囲され火薬を撒いて爆死した。この乱で処罰された者は実に750人。幕府は黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人の遺骸と共に磔に処した。

彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。

墓の側に建つ『大塩の乱に殉じた人々の碑』は、大塩の墓の五倍ほどあり、後世の建立とはいえ墓からも“民衆第一”という思想が伝わってくる。

大塩平八郎
大阪市北区成正寺の境内に建つ『大塩の乱に殉じた人々の碑』。写真右奥に墓

※『月刊石材』2012年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

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1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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“ピアノの詩人”ショパン 〜ハートは祖国に戻った

ショパン
最初に造られたパリの墓。台座にはショパンの横顔が刻まれている。赤と白のリボンはポーランド国旗

詩情豊かなピアノの名曲を次々と生み出したショパンは、1810年にポーランド・ワルシャワ近郊に生まれた。7歳で『ポロネーズ』を作曲し、翌年に最初のリサイタルを開く。ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、20歳の時にウィーンで本格的に活動を開始するべく故郷を離れた。

ところが、その直後に祖国で支配者ロシアに対する民衆蜂起が起きる。この反乱は失敗に終わり死傷者は4万人にのぼった。ショパンは家族や友人の身を案じ、「絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」と書き記し、動揺の中で『革命エチュード』を作曲した。

パリに移り住んだショパンは演奏会が評判となり、ハイネ、リスト、バルザックらと親しく交流。画家ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入しアトリエに置いた。やがて貴族の令嬢と恋に落ち婚約までするが、彼が病弱であることを理由に婚約破棄される。

深く傷ついたショパンを大きな愛で包んでくれたのが6歳年上の女流作家ジョルジュ・サンドだ。彼女はズボン姿で葉巻を手に持つ男装の麗人として社交界の注目を集めていた。2人の同棲生活は7年間続き、数々の名曲がこの間に書かれた。

サンドとの破局から2年後、ショパンは肺結核により39歳の短い生涯を閉じる。彼の日記にはサンドの髪の束が挟まれていた。亡骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、帰国を夢見ていたショパンの想いをくみ、心臓だけはワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。

第二次世界大戦ではナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。

2005年のワルシャワ巡礼では、路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが聖十字架教会へ案内して下さった。僕が停留所で彼女に最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と、方向を指差してもらおうと尋ねたのがきっかけ。

ヴィロンスカさんは英語をまったく話せないんだけど、僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“ついて来い”というジェスチャーがあったので、教会に向かうと思いきや、なぜか彼女のアパートでお昼ご飯を食べることになり、サンドウィッチや炒り卵、サラダを作って下さった(お弁当まで持たせてくれた!)。

教会への道すがら、ゴミが落ちていたら拾いあげ、道端でお腹を空かせている人には買い物袋からパンや果物を分けていた。ヴィロンスカさんにとってはすべてが自然な行為。僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手を振って立ち去った。なんて気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう!

教会内のショパンの墓に彼女のことを話し、「ポーランドには素晴らしい人がいますね」と語りかけると、ショパンが「そうとも!」と言ってる気がした。これもまた忘れられない巡礼となった。

ショパン
心臓が納められた教会の柱には聖書の「あなたの宝の場所にあなたの心がある」が刻まれている(ワルシャワ)

※『月刊石材』2012年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

岡本太郎 〜前衛美術運動の旗手は、お墓もインパクト絶大

岡本太郎
岡本太郎のお墓。養女・敏子さんが2005年に他界し、2人の名が墓誌に並ぶ

メディアの方から「個性的なお墓を紹介したいのですが、オススメの偉人はどなたですか」と質問を頂いた時に迷わず即答しているのが、日本最大の公営霊園、東京・多磨霊園に眠る前衛芸術家・岡本太郎のお墓だ。子どもが頬杖をついてニコニコと笑っているような太郎の彫刻『午後の日』を墓石に使っており、墓前で手を合わせていると何とも和やかな気持ちになる。

太郎は18歳の時に両親の渡欧に同行して、パリに10年以上も滞在。ピカソらと交流を深めるが、ドイツ軍のフランス侵攻を受け帰国する。その後、陸軍二等兵として中国に四年間出征。戦後、東京国立博物館で縄文土器との衝撃的出会いをする。

「驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃えあがっている。異様なぶつかりあい。これだ! まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」

太郎は芸術作品を誰かが所有することを否定し、自分の作品を個人に売ることはなかった。そこに行けば誰でもタダで楽しめる作品を目指し、壁画やストリートのオブジェを制作し続けた。

一方、自身の従軍体験を背景にした反戦思想を持っており、ベトナム戦争時、米政府へ向けてワシントン・ポストに載せた意見広告(1967年4月3日付)に、戦争そのものへの呪いを込めた書体で、大きく「殺すな」と墨で書き綴った。

渋谷駅の壁画『明日の神話』に描かれているのは原爆が炸裂した瞬間だ。太郎いわく「キノコ雲を見ていなくても、ヤケドをしなくても、我々全てが被爆者なのだ」。

大阪万博で『太陽の塔』を発表し、10年後、70歳の太郎がCMで叫んだ「芸術は爆発だ!」が流行語となった。晩年はパーキンソン病を患い84歳で永眠する。

父は漫画と小説を一体化させた漫画小説でストーリー漫画の源流を作った岡本一平。母は小説家の岡本かの子。両親は太郎のお墓と向き合う形で建っている。一平のお墓にも笑顔の彫像があり、こちらは太郎が制作した母『かの子像』が原型だ。かの子のお墓には彼女が信仰していた観音菩薩像が置かれている。

かの子が生前に「死体を焼くのはおかしい」と火葬を嫌がっていたので、一平は多磨霊園と必死に交渉して土葬の許可を得た。 

墓域中央には川端康成が岡本家を紹介した碑文が建つ。

「この3人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、3人がそれぞれ成長した。古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう」

岡本家の墓所はいわば一家団欒の場であり、中央に立つと陽だまりの中にいるような温もりを感じる。癒やしの墓域だ。

岡本太郎
太郎と向き合う父・一平と、母・かの子のお墓。親子が笑顔を交わしている素晴らしい墓所!

※『月刊石材』2012年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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チャップリン 〜ヒトラーと戦った喜劇役者

チャップリン
右がチャップリン、左が8人の子をもうけたウーナ夫人

“喜劇王”チャップリンの墓は故郷の英国でも、成功を収めた米国でもなく、スイスの片田舎ヴヴェイにある。それは彼の生きる姿勢、信念の結果だ。

パントマイムの劇団員を経て25歳で銀幕デビューを飾り、トレードマークとなる山高帽&ステッキ、だぶだぶのズボンにドタ靴という姿を確立。監督、主演、製作、脚本をこなし、映画音楽まで作曲した。完全主義者で、『街の灯』の撮影では花売り娘との約3分間の出会いのシーンに342回もNGを出した。

作風は初期のドタバタ喜劇から、次第に人間愛をうたったヒューマニズム路線に変化していく。社会問題にも斬り込み、『モダン・タイムス』では羊の群れと労働者を重ね合わせ、資本主義の世で家畜化した民衆を鋭く描いた。

欧州で台頭していたファシズムにいち早く危機感を抱き、第二次世界大戦開戦直後に『独裁者』の撮影を開始。同作でヒトラーとユダヤ人の床屋という、抑圧者と被抑圧者の一人二役をこなした。

チャップリンはヒトラーと同年同月生まれで、黒髪、小柄、チョビ髭という共通点があった。劇中ではユダヤ人差別の深刻さが克明に描写され、後のアウシュビッツ強制収容所の建設を予見。撮影当時、多くの米国人は戦争を遠くの出来事としてとらえ(真珠湾攻撃は2年後)、ナチスが反共・白人優位主義であったことから、KKKやドイツ系移民を中心にヒトラー支持者も少なくなかった。製作中止を求める様々な妨害が加えられ、「何度も脅迫を受けている。撮影を続けると殺されるかもしれない」と当時語っている。

ヒロインの名前は10年前に他界した母と同じハンナ。天国の母親に向かって、命を賭して完成を誓う決意表明にも思える。そのような状況で反ファシズム映画を作った彼の勇気、時代を見通す力に圧倒される。大戦後は『殺人狂時代』の中で、死刑台に向かう主人公に「一人を殺せば犯罪者に、100万人を殺せば英雄になる」と戦争の矛盾を語らせた。

東西冷戦が激化するとハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れ、法務長官から事実上の国外追放命令を受け、彼は自分の意思を訴えるように“中立国”スイスに移住した。

それから20年後、ハリウッドは謝罪の意味を込めてアカデミー賞特別賞を授与し、授賞式で彼に送られたスタンディングオベーションはオスカー史上最長の約五分間にわたった。翌々年のクリスマスの朝、彼は88年間の波乱に富んだ人生を終えた。

僕が初めてチャップリンを墓参した際、バスの運転手の勘違いで違う墓地で降ろされ、地元の人に尋ねながら墓地を探し大変だった。ある民家で庭いじりをしている女性に訊いたところ、彼女は「ここだ」と地面を差した。何のことかと思いきや、彼女はチャップリンの孫で僕は知らずに敷地に入っていたのだ!

その後、墓地では時が経つのも忘れて、映画の感想や感謝の言葉をチャップリンに伝えた。

チャップリン
ハリウッドに眠る母ハンナ。『独裁者』のヒロインの名の由来だ

※『月刊石材』2012年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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坂本龍馬〜「日本を今一度、洗濯いたし申し候」

坂本龍馬
墓石の字は木戸孝允のもの(左が龍馬、右が中岡)。同墓地には明治維新に尽くした1,413名が眠っている

これまで四半世紀にわたって国内の偉人1,000人以上を巡礼してきた。その中で、もっとも多くの墓参者で溢れかえっていたのは京都・霊山護国神社の坂本龍馬だ。ひっきりなしに巡礼者が訪れ、人の波が途切れることがない。

大河『龍馬伝』がオンエアされた時は、ゴールデンウィークに墓参者の列が墓地の外まで続いていたという。こうも日本社会に閉塞感が漂い、政治家が民衆の期待に応えられないでいると、龍馬のように突破力のある人物に人々は心惹かれるのだろう。

龍馬は1835年に土佐藩の下級藩士の家に生まれた。18歳の時に江戸へ出て剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。帰郷後に武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟し、外国人排斥の攘夷運動に係わっていくが、脱藩して勝海舟など様々な人物と交流する中で、無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外に対抗しようと考えるようになる。

幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、反幕府の先陣を切り優れた人材(吉田松陰、高杉晋作等)を輩出する長州藩の連合が不可欠と龍馬は考えていたが、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲。龍馬は経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなるべく、日本で最初の会社組織、貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立し海運業に励む。

長州藩は幕府との対決を前に最新鋭の武器を欲していたが、他藩には長州への武器売却禁止令が出ており購入は不可能。そこで龍馬は西郷に働きかけ、 長州が武器を購入する際に薩摩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した。

作戦は大成功。薩摩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、長州側のわだかまりが消えていった。そして1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。「薩長の和解はこの日本国を救うためであり、一藩の私情を挟んではいけない」との龍馬の一喝もあり、ついに薩長同盟が締結された。その後、龍馬は幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考え、土佐藩の建白を受けて将軍慶喜は大政奉還を受け入れた。

幕府側には薩長を結んだ龍馬を恨む者も多く、寺田屋で治安組織に襲撃され間一髪で脱出するなどしたが、隠れ家の近江屋を踏み込まれ(犯人は見廻組説が有力)、同志の中岡慎太郎と共に暗殺された。

過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば遠い片田舎の土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。これにロマンを感じないわけがない!

龍馬の墓前には、ファンのメッセージが書かれた石板がズラリと並んでいる。※2019年現在、石板はありません。


坂本龍馬
愛妻おりょうの墓は横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にある。墓前には龍馬が薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった

※『月刊石材』2012年3月号より転載

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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 〜墓が語る兄弟愛

ゴッホ
絵は彼にとって「愛を訴える方法」だった。その想いに応え、世界各国のゴッホ・ファンがこの地を訪れている

墓巡礼を続けていると、予想もしなかった衝撃を受けることがある。ゴッホの墓参が、まさにそうだった。

僕が初めてゴッホを巡礼したのは1989年。この巡礼には並々ならぬ気合いが入っていた。ゴッホは生前に作品がたった一枚しか売れず(しかも買ってくれたのは友人の姉)、世の中に悲嘆して37歳で自死。どうしても墓前に行って「あなたの人生は無駄ではなかった、現にこうやって感謝を伝える為に、遠い日本の大阪から、飛行機に乗って、鉄道を乗り継いで、歩いてこの丘を登ってきたファンがいる」と身体を見せつけたかった。

彼は絵筆を握る理由を、「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを生み出したい」「私は絵画を通じて、人々を救い、救われたかった」と語っていた。

作品自体が素晴らしいのはもちろん、僕は彼の芸術家としての志に深く感動していた。

オーヴェール駅から村人に道を尋ねながら共同墓地にたどり着くと、壁沿いに彼は眠っていた。ひとしきり熱い想いを伝えた後、隣りの墓を見た。弟テオのものだった!

80年代はインターネット普及前で、事前に墓の写真を見る機会がなく、テオの墓があることを知らなかった。画商の彼が兄の生活費をずっと援助していた話は有名だ。テオに手を合わせかけて、没年を見て電気が走った。彼は兄が他界した翌年に亡くなっていた。まだ33歳の若さだ。

ゴッホの画家としての活動期間はわずか10年。その中で1,600点の水彩・素描と八百点以上の油彩画という膨大な作品を残した。テオがいなければ兄は絵の具も買えなかったわけで、いま僕らがゴッホ芸術に触れることができるのは、200%テオのおかげだ。

当時の絵の具は高いのに、ゴッホはカンバスに直接塗りつけて地図模型並に盛り上げた。貧乏画家の描き方ではない。それでもテオはひたすら兄の才能を信じて仕送りを続け、自身の子に爛凜ンセント瓩般症佞韻襪曚彪桧Δ靴討い拭

ゴッホは自分の腹を撃ったが即死できず2日間苦しみ抜いた。駆けつけた弟に、「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ポケットの中には弟宛の最後の手紙が入っていた。「君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあっても、絵の制作そのものに加わってきたのだ」。

兄の死はテオを激しく打ちのめし、3ヵ月で精神が崩壊、弟の生命は6ヵ月しかもたなかった。

その後、2006年、2009年と彼らの墓前に立ってきたが、僕はテオと語り合った時間の方が長かったかも知れない。兄弟の死後、テオの妻ヨハンナは2人の墓を隣接させて聖書の次の言葉を捧げた―。

「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」

ゴッホ
ツタで結ばれ、ひとつになったゴッホ兄弟の墓。ツタの花言葉は「死んでも離れない」

※『月刊石材』2012年2月号より転載


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平 清盛 〜貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長

平 清盛
再興された清盛の菩提寺は1945年の神戸大空襲で焼失したが墓碑(十三重石塔)は残った!(2005年)

2012年のNHK大河は平清盛が主人公。これまで源氏視点の物語が多かっただけに、どのように新たな清盛像が描かれるのか楽しみでならない。社会の授業で「横暴」「非情」「傲慢」など悪役のレッテルを何枚も貼られている清盛。しかし、先入観なしに歴史を紐解くと、武勇に優れているだけでなく、敏腕政治家、愛情豊かな家父長、そんな横顔が見えてくる。

清盛の大きな功績は3つ。

(1)身分差別で成り立っていた貴族社会を吹き飛ばし、日本初の武家政権を築き上げた。明治維新まで約七百年も続く武家社会の礎となった事が非凡さを語っている。

(2)6年がかりで神戸港を整備し、外国の大型船が入港できるようにした。書籍・織物・香料・銅銭等を輸入し、漆器・金・硫黄・刀剣等を輸出するなど対外貿易で経済を活性化させ、清盛によって銅銭が大量に輸入されたことで日本の貨幣経済が大幅に進展した。

(3)平安貴族が行なわなかった大規模な公共事業を施行。迷信を信じる貴族たちが工事の無事を祈願して人柱(生け贄)を立てよと主張するのを、“そんな馬鹿な理由で人の命を犠牲に出来ない”と拒否した。

清盛は2歳で母を亡くしたことの反動か、あり得ないほど一族へ愛情を注いだ。平氏ファミリーの全員を京都六波羅の一角に集めて皆で暮らし、一門からは誰一人として不幸な人間を出さないよう、惜しみなく愛を捧げた。また、夜中に邸宅を見廻り、平家に仕えている郎党(従者)に布団をかけてやるなど、ファミリーとそれを取り巻く世界を心底から大切にしていた。

では、ファミリー以外には冷たかったのか。後に平家を滅亡させることになる、幼少期の頼朝、義経を捕らえた際、若い生命ゆえに助けてやったり、鹿々谷事件の反逆者にも恩赦を与えるなど、決して血に狂った冷血漢などではない。

蘇我氏、明智光秀、石田三成など、歴史における敗者は、勝者の歴史観の中でことさら長所を過小に短所を過大に伝えられている。天下を獲る為に清盛も人を斬ったが、後に続く秀吉や信長ら戦国武将に比べれば、それははるかに穏やかなものだった。

清盛は晩年に能福寺で剃髪して出家し、死後は遺言に従い遺骨が同寺の寺領に埋葬され平相国廟が建立された。平家滅亡の際に能福寺は灰燼と化したが、約100年後に執権・北条貞時が平家一門の運命に悲哀を感じ、「十三重石塔」(現存)を建て清盛の霊を弔ったという。

清盛墓の伝承は他に四ヵ所。平家一門の館があった京都六波羅の平清盛塚、京都大覚寺の塔頭・祇王寺の供養塔、下関市の清盛塚、神戸市切戸町の清盛塚など。

「清盛公は、悪行人なれども、幾多の善根も施したからこそ、20年の間、穏やかなる世を保たれたのではないか。悪行ばかりにては、この世が治まるはずもなし」

同時代の関白・藤原基房の言葉。

平 清盛
壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮には、下関に散った14名の平家有名武将の墓がズラリと並んでいる(2006年)

※『月刊石材』2012年1月号より転載

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ベートーヴェン巡礼 〜巨匠の側に有名作曲家が大集合!

ベートーベン
広大なウィーン中央墓地の楽聖地区に眠る。路面電車の駅が3つもある巨大墓地だ!

12月といえば、第九!

多くの人から愛されているこの曲は、19世紀初頭の理不尽な封建時代にあって、身分制度を飛び越えて人類平等の兄弟愛を歌い上げた傑作だ。

第九初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。

平民出身のベートーヴェンは差別のない社会を求めており、危険思想の持ち主として当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で、“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にはレストランでの友人との次の会話が残っている。

「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。

ベートーヴェンは自由・平等・博愛の精神を込めてシラーの詩にメロディーを付け、第九初演に挑んだ。演奏会当日、危険人物のレッテルを貼られた作曲家のコンサートにもかかわらず、大勢のウィーン市民が足を運んだ。舞台ではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、耳が聞こえないため代理の指揮者が後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。

演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こったが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手が歩み寄り、巨匠の手をとって振り向かせ会場の興奮を伝えた。演奏後にアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

音楽家の命である聴覚を失いながらも、「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と前進を続けた彼。素晴らしい音楽だけでなく、生きる姿勢にどれほど勇気づけられてきたか。僕はかつて人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。

1827年3月、肺炎を患ったうえ、黄疸も発症し、肝硬変を起こして56年の生涯を終えた。最期の言葉は「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。集会の自由が制限されるなか、葬儀には2万人もの市民が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めたという。宮廷からは一輪の花も、1人の弔問もなかった。

いまベートーヴェンの墓の隣りにはシューベルトが眠り、その横にヨハン・シュトラウス、ブラームスの墓が並んでいる。近隣にはシェーンベルク、スッペらもいる。後世の作曲家はみんなベートーヴェンの側に眠りたいのだろう。彼の墓前からは巡礼者の波が絶えることがない。

ベートーベン
シューベルト(右手前)は遺言で「墓はベートーヴェンの隣りに」と希望

※『月刊石材』2011年12月号より転載


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オードリー・ヘプバーン 〜世界を魅了した銀幕の“妖精”

オードリー・ヘプバーン
他界の翌年に墓巡礼。オードリーの墓はポートレートや可愛い花で溢れていた

24歳の時に出演した『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞に輝いたオードリー。『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディ』と主演作が次々とヒットし、チャーミングな笑顔と優れたファッション・センスで人々を虜にした。

青春期に戦争で苦しんだことから、晩年はユニセフ(国連児童基金)の特別大使となって貧困に苦しむ子ども達のために尽力。いま、彼女はスイスの片田舎トロシュナ村に眠っている。

墓参したのは1994年。ローカル鉄道で村に一番近い駅に降り立った僕は、駅員に墓地の方角を尋ねようと思った。だが、なんと無人駅! 周辺地図なんてシャレたものはない。しかもこの日は列車のつなぎが悪くて、着いた時点で日没直前。途方に暮れて辺りを見回すと、遠くの方に人影がひとつ。同じ列車で降りたとみられる地元のおばさんが、買物袋を下げてテクテク帰って行くのが見えた。

「逃さんッ!」とダッシュで追いつき、突然背後から東洋人に話しかけられてドギマギしてるおばさんに、カタコトの仏語で「スミマセン、ワタシ、ミチ、マヨッタ、オードリー、ハカ、ドッチ?」と方角を聞いた。おばさんは“付いて来なさい”というジェスチャー。どうやら家が同じ方向らしい。

名前はマヌエラさん。一緒に歩いてる間、「アナタ、シンセツ」とか「コノムラ、トテモキレイ」「ワタシ、シアワセ」などと、伝家の宝刀“誉め言葉手帳”(自作)を片手に畳み掛けていたら、マヌエラさんが家の前で爐舛腓辰搬圓辰討覆気き疆な所作。3分後、ガレージから車が出てきた! 墓まで少し距離があるので送ってくれるらしく、その優しさに感動した。

墓地の門前に着いた時、彼女が“しばらく待ちましょうか?”的なジェスチャーをするので、そこまで甘えるわけにいかず、これで充分と、何度もメルシィを連発しながら、固い握手をして車を降りた。

墓地はこじんまりとしていて、真新しい彼女の墓はよく目立っていた。夢にまで見たオードリーとのツーショットを撮るべく、タイマー撮影を何度も繰り返し、「わが人生に一片の悔いなし!」と涙にむせんでミーハー魂を爆発させていたら、無人と思っていたのに、バケツを片手に立ちすくんでいるお婆さんと目が合った。

恥ずかしくなってペコッとお辞儀したら、背中を向けてあたふた逃げていった。“まずい!変人と思われたかも!”と慌てて「違うんです!誤解なんです〜!」(日本語)と叫びながら追いかけると、その行為がお婆さんをさらにビビらせたのか、カモシカの様な俊敏さで遠ざかっていった…。

帰り道、とっぷりと日が暮れた村道を無人駅までテクテク歩きながら、“マヌエラさんと出会わなかったら日没前に墓参できなかった”と、改めて旅先の親切に胸が熱くなった。素敵な出会いを有難う、オードリー!

オードリー・ヘプバーン
こちらは『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペック。ロサンゼルス大聖堂の地下に永眠している

※『月刊石材』2011年11月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

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世阿弥元清〜能を究めた舞の名手を訪ね、非公開寺へ

世阿弥元清
世阿弥の墓は父・観阿弥と並んでいる(小さな五輪塔)。風化が進みどちらが世阿弥か寺も分からないという

「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」

数々の言葉を後世に遺した天才能楽師・世阿弥元清。50作以上の演目を作った劇作家でもある。

幽玄な舞で3代将軍足利義満を虜にしたが、後年芸術上の信念を貫くが故に六代将軍義教と対立し、71歳という高齢で佐渡に流された。七年後、義教が暗殺されると、京都大徳寺の一休和尚の尽力で配流が解かれた。

こうした縁で、世阿弥の墓は大徳寺真珠庵にある。しかし、同庵は建物が重要文化財に指定されており、内部は非公開! それゆえ、1999年の特別公開に合わせて訪問した。でも、「公開は寺内のみで、一般の方は墓地に入れません」とガードが固く玉砕。

僕は“特別公開中に行った為に、かえって普通の観光客と思われ逆効果だったのかも”と考え、4年後に再訪した。玄関先で随分食い下がったけど、丁重に断られた。

そして翌年8月8日! 世阿弥の命日! 墓参に最もふさわしい日だ。はっきり言ってこの日がダメなら、他の日に行っても絶対に無理だろう。同年は561回忌。区切りのいい600回忌は約40年後。その頃僕はもう80歳近くで、存命かどうかさえ分からない。会わせてもらえるまで、とにかく毎年この日に訪問し続けるしかないと腹をくくった。

服装を整え、線香とお花を携え、夕方の一息ついた時間帯に訪問。ガラガラガラと引き戸を開ける。真珠庵の玄関は薄暗い。奥の方から話し声が聞こえ、意を決して「ご免くださ〜い!」と震える声を張り上げた。「はーい」と出てきたのは年配の女性。以前に僕が断られた人だ。“また門前払いになるのか…”不安が胸をよぎった。

「世阿弥さんの命日なのでお花と線香を持ってきました。是非、手を合わせさせて…」と言ったところで「ごめんなさいね、お断りしてますの」。僕は諦めなかった。「せめてお花だけでも墓前に…」。そして奈良の世阿弥生誕の地“面塚”を訪ねた時の写真を取り出した。この瞬間、空気が変わった!

「あらまぁ、面塚まで。ちょっと待っときやす。和尚さぁ〜ん!」

しばらくして貫禄充分のご住職が出て来られた。「世阿弥さんのお墓参りに来られたとか」。僕は汗が噴出し、緊張で声が上ずった。

「す、すみません、ご無理を言って!」

世阿弥へのほとばしる想いを話すと、「そうですか。それでは墓前で手を合わせてあげて下さい。墓地は寺の裏側なので私の後について来るように」。なんかもう、興奮し過ぎて真っ直ぐ歩けない。

「こちらです。私は先に戻っていますので、どうぞごゆっくり」

墓前にて、この世のものとは思えぬ美しい芸術を残してくれたことへの感謝の言葉を捧げた。

※能楽は650年を超える長き伝統から、2001年にユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に指定されている。

世阿弥元清
生誕地の面塚(奈良県川西町)。観阿弥がこの地で観世流を生み出し、右後方に“観世発祥之地”の碑も建つ

※『月刊石材』2011年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

農民として生まれ武士として散る 〜新選組局長・近藤勇

近藤勇
竜源寺(三鷹市)の墓。約200メートル西方に生家跡や産湯の井戸、天然理心流の道場がある

2011年春、NHKで司馬遼太郎の『新選組血風録』がドラマ化され、幕末ファンの間で大きな話題になった。昨年の大河ドラマ『龍馬伝』といい、維新という激変する時代のうねりの中で、命の炎を燃やした若者たちを描いた作品は、時を超えて見る者の心を熱くする。

近藤勇は現・調布市の農家の三男坊に生まれた。成長して剣術に才能を発揮し、天然理心流宗家・近藤周助の養子になる。将軍上洛の警護をきっかけに幕府の治安部隊・新選組を率いることになり、倒幕を目指す志士たちを次々と捕縛し、抵抗する者は斬り捨てた。池田屋事件では20余名の志士にわずか四名で立ち向かい、9名を討ち取る大手柄をあげる。

近藤は幕臣の地位を与えられ、農民出身でありながら旗本まで登り詰めた。志士の恨みを一身に集めた近藤は、新政府軍に捕縛された後、切腹を許されず罪人として斬首となる。首は京都に運ばれ三条河原に晒された。

伝えられる墓所は全国に6ヵ所。

(1)竜源寺(東京都三鷹市)
養子の勇五郎が刑場から亡骸(胴体)をもらいうけ、生家に近い近藤家の菩提寺・竜源寺に葬ったという。墓前にはたくさんの千羽鶴がある。歴史上の人物では、近藤、龍馬、沖田総司の墓所でしか千羽鶴を見たことがない。近藤の墓前には約25冊ものメッセージ・ノートがあった。

(2)新選組墓所(東京都板橋区)
処刑場跡に新選組二番隊・永倉新八が建立。胴塚。

(3)天寧寺(福島県会津若松市)
寺の裏山に会津藩が建てた墓がある。土方らが会津に来た時にこの墓に参詣しており、土方が遺体の一部を葬ったとも。今は近藤と土方の供養塔が並んでいる。後世の優しい人が“2人を並べてあげよう”と提案したのだろう。

(4)壬生塚(京都市中京区)
新選組の最初の屯所、八木邸のそば。遺髪が納められている。

(5)法蔵寺(愛知県岡崎市)
なぜ近藤の墓が愛知県に? 寺伝には次のように伝えられている。 

『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた者が、夜中に体を掘り出し竜源寺に埋葬した。首は塩漬けとなり京に送られ、三条大橋の西側に晒された。三晩目に同志が密かに持ち出し、近藤が生前敬慕していた裏寺町の空義天大和尚に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした』。 

具体的で説得力がある。

(6)高国寺(山形県米沢市)
米沢で織物業を営む従兄弟の近藤金太郎が勇の首を盗み出し、赤羽近くの河原で焼いた後、紙に包んで米沢に持ち帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したという。 

これらの墓は、各所に分骨されたものかも知れない。信念を貫き散った男の墓前には今もなお多くの人が訪れている。

※2019年追記。現在、研究者の間で(3)の会津若松市・天寧寺が最有力候補になっています。


近藤勇
板橋の墓。近藤と土方、両者の名が刻まれた3.6メートルもの巨大な供養塔だ。駅前にあり墓参しやすい

※『月刊石材』2011年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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ジャマイカ大疾走! “レゲエの神様”ボブ・マーリィ巡礼

ボブ・マーリィ
ボブが眠っている霊廟。残念ながら内部は撮影禁止。画像の窓の背後に石棺がある

夏は明るい太陽の下、各地で野外音楽フェスティバルが開催される。人気を集めているのはカリブ海・ジャマイカで生まれたレゲエ音楽。「レゲエ」の語源はジャマイカ語の“レゲレゲ”(抗議する)で、元々は貧困や飢えに対する民衆の抵抗音楽だ。

それを世界に広めたのが36歳で早逝したボブ・マーリィ。

2001年夏、僕は墓参のためにジャマイカへ向かった。同国は政情不安定で、直前にも首都で暴動や銃撃戦が起きていたけれど、ボブに対する敬慕の念が年々つのり、これ以上墓参を先延ばしには出来なかった。

大阪→成田→アトランタ→マイアミ→ジャマイカと乗り継ぎ、夜半に入国。宿の送迎車で、ボブの出生地であり彼が眠っているナイン・マイルズ村のことを尋ねた。運転手の話では、村の博物館に墓があり、車で片道3時間、タクシー代は200ドルが相場とのこと。そして「バスなら安く行けるけど、強盗が多いし行き先は天国かも。途中の山は今でも山賊が出る」とも。うおお…。

翌朝6時半に行動開始。悪党は11時頃まで爆睡しているので、治安の悪い土地では正午までに主な活動を終え、夕方以降は出歩かないことが生存の鉄則だ。僕が交渉したタクシーの運転手はスキンヘッドのマッチョな黒人で、とにかく押しが強かった。まだ値段交渉中なのにトランクを開けて荷物を入れ、「200ドルでいいな」。僕は「宿屋の主人が150ドルで行けると言っていた」とハッタリをかました。「村へ続く山道はデコボコで危険。190ドル」。負けてられない。「帰りは僕が運転する。あなたは後部座席で寝てればいい」。

彼は大笑いした後、真顔になって「180ドル以下は無理だ。俺は元ボクサー。山賊襲撃のボディガード代込みの180ドルと思ってくれ」。握手。僕らは出発した。 

彼の名前はウィリアムズ(43歳)。子供は5人、愛人は2人。空は快晴。気温は32℃。窓から心地良い風が入る。ときおり道を阻むのは牛やマングース。ウィリアムズはムキムキだけど、つぶらな瞳で笑顔が人懐っこく、温かいオーラに包まれていた…。他の車に追い越されぬ限りは!

世界最速のタクシー・ドライバーを目指す彼は、他車に追い抜かれると奇声をあげて抜き返す。客を乗せているのに! カーブの向こうが断崖絶壁でも関係なし。パリ・ダカール・ラリーに出場すれば間違いなくチャンピオンだ。

悪路を突っ走ること2時間半、何とか墓前に到着。僕は両手を広げ、高さ2メートル、奥行き5メートルの巨大な石棺に抱きついた。そして素晴らしい音楽を残してくれたことに感謝した。

墓所を出ると“葉っぱ”の売人が数人待ち構えていた。「吸うか?」とウィリアムズが聞くので、僕が手錠をかけられる真似をすると「ガハハ、その通り」。彼は笑いながら追い払ってくれた。最後にちょっぴりボディガード。これも忘れ得ぬ巡礼となった。

ボブ・マーリィ
僕が生命を預けたウィリアムズ

※『月刊石材』2011年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

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スヌーピーの生みの親チャールズ・シュルツ 〜 パトカーで墓巡礼

チャールズ・シュルツ
初巡礼時の写真。お花がいっぱい。再訪時は周囲にチャーリー・ブラウンなどイラスト入りのベンチがあった

ネットが普及する前、海外の墓巡礼は“聞き込み調査”が基本だった。母国の観光局で情報を収集し、故人ゆかりの記念館(大抵は生家)に足を運び館長に聞いたり、終焉の地で警察署を訪れ手がかりを得ることも。

スヌーピーが活躍する『ピーナッツ』の作者、チャールズ・シュルツさんが2000年2月に他界した際、新聞記事に「サンタローザの自宅で死去」とあった。訃報の5ヵ月後、僕はその情報だけを頼りに渡米し、サンフランシスコからローカル・バスに乗り、約70卷未離汽鵐織蹇璽兇謀着した。

さっそく警察で質問すると、幸運にも担当警官は埋葬された墓地を知っており、コピーした地図に赤丸を入れ渡してくれた。バックパックを署に預け、20分ほど歩いて墓地に到着。約300メートル四方あり、自力で探すのは困難と判断し管理人事務所へ。

扉には「本日不在。用のある方は電話を」の張り紙。周囲に公衆電話なんてない。腹をくくってローラー作戦を開始するも、2時間かかっても一向に見つからない。グッタリしていると、墓地の広場で子ども達がキャッチボールを始めた。彼らいわく「シュルツさんのお墓はこの町だけど違う墓地だよ」。

ドッカーン!

フラフラになって警察署に戻ると、先ほどの警官がいた。名前はケイン。僕が「ユー! ミステーク!」と涙目で訴えると、ケインは調べ直して「悪かった。確かに違う墓地だった」。そして「ちょっと待っとけ」と、署の前にパトカーを横付けし、「送ってやるから乗れ!」。

嬉しかったけど、サンフランシスコに帰るバスの時間まで1時間を切っていた。事情を話すと「問題ない」。回転灯が点滅しサイレンが鳴った!速攻で墓地に着くと、管理人のおじさんが正門で待っていた(署から連絡したようだ)。

パトカーに管理人さんも乗り込み誘導してくれたおかげで、アッという間にシュルツさんの墓前へ。スヌーピーの人形が供えてあった。

「うおお、お会いしたかったです!」

シュルツさんは作品を通して、気楽に生きるための人生哲学、肩をすくめて不運をやり過ごす生き方を教えてくれた。『ピーナッツ』は21ヵ国語に翻訳され、掲載紙は75ヵ国2,600以上、読者数3億5,000万人にのぼる。

帰りもパトカーに乗ったので時間に余裕ができ、車内で「留置場ってどんな場所?」と聞いていたら、署に戻ったケインがニヤリと笑い「スペシャル・ツアーだ」と僕の手を引っ張った。他の警官が驚くなか、留置場を開け「記念写真を撮ってやる」と僕を中に入れ、撮影後に「写真を日本にいるお前の親に送る。保釈金100万ドルを口座に入れるように言え」とジョーク。2人で大笑い。

2009年、僕はレンタカーで約10年ぶりにその警察署を訪れた。ケインはまだそこにいた!「覚えている?」「オフコース! クレイジー・ボーイ!」。“クレイジーはお互いさま”と思いながら握手!

チャールズ・シュルツ
巡礼後のケインとパトカー。まさかこの後、留置場ツアーが待っていたとは(汗)

※『月刊石材』2011年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

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織田信長 〜戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上

織田信長
阿弥陀寺にある信長の墓(右側)。長男・信忠の墓と並んでいる

一昔前、戦国武将の墓参りをして出会うのは、定年後に趣味で戦国史を研究されているご年配の歴史ファンが大半だった。

ところが、4、5年ほど前から、美形化された伊達政宗や真田幸村が活躍するゲームやアニメの影響で、「歴女」と呼ばれる歴史好きの若い女性がどっと増え、東北地方の山中に眠る武将の墓前など、“どうしてこんなところで”というような場所で女性の一団を見かけて仰天することがしばしばある。

中でも特に墓参者が絶えないのが、京都市の中心街に位置する本能寺の織田信長(1534‐1582)の墓だ。

信長は尾張・那古野城の城主、織田信秀の子。26歳の時に、わずか2,000の兵で今川義元の大軍2万5,000を桶狭間で撃破し武名をあげる。その後、浅井、朝倉を姉川で破って上洛。15代将軍足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅亡させた。続いて、長篠で武田勢を壊滅させ、七重の大天守閣を持つ安土城を築き全国支配に乗り出す。

経済面では課税を免除した楽市・楽座を設け、関所を廃止し商業を発展させた。外国文化への好奇心が強く、ビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介と名付けた黒人もいたという。

北陸方面を柴田勝家に、中国方面を羽柴秀吉に、関東方面を滝川一益に攻略させたが、天下統一を目前にして明智光秀の裏切りに合い自刃。享年47歳。

信長の墓と伝えられるものは、京都だけでも本能寺(三男・信孝が集めた遺骨を納める)、大徳寺総見院(法要のため秀吉が建立)、阿弥陀寺、大雲院、妙心寺玉鳳院と5ヵ所あり、和歌山・高野山(1970年に供養塔が見つかる)、滋賀・安土城跡(一周忌の後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、近江八幡の西光寺(信長の遺歯を納める)、大阪・堺の南宋寺本源院、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(信長と懇意の囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚)など、全国に15ヵ所以上ある。

その中で、僕が“本墓”と考えているのが、京都市上京区の阿弥陀寺だ。寺伝や当時の公卿の日記によると、住職・清玉上人は信長と深く親交があり、炎上する本能寺から信長の骨を密かに運び出して阿弥陀寺に埋葬したという。

秀吉は同寺に三度も使者を出して、高額の法事料や広大な寺領授与を条件に主君の遺骨を求めたが、寺側は政治利用を嫌って断固拒否。怒った秀吉は寺領を8分の1まで削り報復した。

阿弥陀寺には本能寺の戦死者112名が葬られ、森蘭丸ら側近の墓もある。宮内庁は大正期の調査で同寺の信長公墓が廟所であると結論。通説では「信長の骨は見つからず」とあるだけに、多数の伝承墓に歴史のロマンを感じる。

織田信長
本能寺・本堂背後の墓。複数ある信長の墓では最も知名度が高い

※『月刊石材』2011年6月号より転載


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1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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爆走!闇タクシーで珍道中 〜キューバの英雄チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ
霊廟だけで高さが約15メートルある。6メートルほどのゲバラ像が立っているので、全体で20メートルを超える巨大さだ

「1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった」(ジョン・レノン)。

アルゼンチン人の医者でありながら、キューバ革命を成功させたゲバラの墓参のため、僕は2000年にキューバの首都ハバナを訪れた。

彼は国民的英雄であり、墓は首都にあると頭から信じ込んでいた。ところが観光局の職員に墓所を尋ねてみると、ハバナから約300キロも離れたサンタクララに眠っているとのこと! ほぼ東京〜名古屋間に匹敵する距離だ。

キューバは米国の経済封鎖で石油不足に陥っており、公共の長距離バスがない。国営タクシーは300ドル以上もするため途方に暮れていると、職員がそっと耳打ちしてくれた。「違法だけど、闇タクシーがあるよ」。

闇タクシーは国に登録料(営業料)を払わず、こっそりタクシー業をしている悪党だ。旧市街のタクシー銀座でさっそく値段交渉を開始。ところが誰もそんな遠い所まで行ってくれない。僕はノートに大きく“サンタクララ”とマジックで書き「ポルファボール、サンタクラーラ!(サンタクララへ連れてって)」と絶叫した。

すると、初対面のくせに「ハロー、マイフレンド」と満面の笑みで近づいてきた人物がいた。この男、天使か悪魔か。交渉の結果は135ドル。相場の半額以下、有難い。陽気な男はカルロス(31歳)と名乗った。

「さあ、さっそく出発だ!」と思いきや、カルロスは車を持っておらず、友人のホセ(35歳)が車を出してくれた。ホセは小柄で、はにかむように笑う物静かな男。彼となら往復600キロも平気と胸を撫で下ろしていたら、カルロスが助手席に乗り込んだ。ちょっと待て、アンタも行くんかい!? 

「俺も英雄ゲバラの墓には行きたかったんだ」。

ガソリンは高価ゆえ、2人ともサンタクララに行けるので大喜び。

車内でカルロスは警官対策を切り出した。「後部座席の足元にタオルケットがあるから、俺が“ポリース!”と叫んだら素早く身を伏せ、それを被ってくれ」。

おかげで彼が叫ぶ度に体を右へ左へ倒れさせ、大忙しだった。

ホセは闇ガソリン屋へ寄ると、怪しげな液体を買ってオイルタンクに流し込み始めた。

「あれはな、薄め液でガソリンを増やしてるんだぜ」。そう言ってカルロスは僕に目配せしたが、そんなことして途中で止まったらどうすんだよとハラハラした。

ホセの超絶マシンテクニックはカリブの大気を切り裂き、平均時速110キロでサンタクララに乗り付けた。片道4時間ちょい。無事に到着したことを天に感謝した。

街で一番高い建造物がゲバラの霊廟。革命後は権力の座に固執せず新たな土地へ向かい、自らの理想に殉じた漢。39歳の若さで散った彼は今も市民から最大級の敬意を払われていた。お喋りなカルロスが黙り込み、感極まって墓の上のゲバラ像に見入っている。霊廟と向き合う僕らの間を、夕暮れの心地よい風が通り抜けていった。

「ゲバラさん、あなたの理想主義に希望をもらいました。ムーチャス・グラシアス(ほんとありがとう)!」

チェ・ゲバラ
静かなる男ホセ(左)とマシンガン・トークのカルロス

※『月刊石材』2011年5月号より転載

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鼠小僧次郎吉巡礼 〜お寺と墓参者の、約180年という長きにわたる攻防戦

鼠小僧次郎吉
両国回向院の墓。手前の白い墓石が“お前立ち”。次から次へと墓参者がやってきた

かつてジェームス・ディーンの墓を訪れたとき、そのゴツゴツした墓石を指差して、地元の人から「ファンが記念に削っていくんだよ」と説明され、“墓を削る文化があるのか”と驚いたもの。

その後、国内の墓を本格的に巡り始め、日本でも秀吉、坂田三吉、石川五右衛門、森の石松の墓のように、“お守り”にするため削られる墓が少なくないことを知った。中でも最も有名なのが義賊と言われる鼠小僧次郎吉。鼠小僧は長く逮捕されなかったので、その強運にあやかろうと昔から博打好きが削って帰るのだとか。どこにでも「スルリと入る」ことから、近年は受験生が削ることも多いという。

鼠小僧の本名は町田次郎吉。鼠のように天井裏から侵入するため“鼠小僧”の異名がついた。彼が他のコソ泥と違ったのは、庶民の長屋には入らず、大名・旗本など権力者の武家屋敷のみを狙う大胆さだった。武家の場合、金があるのはもちろん、奉行所に被害届けを出せば「盗賊に入られた情けない武士」として面子が潰れるので、泣き寝入りせざるを得ないと言う算段もあった。

32回の盗みを行なった時点で一度捕まり“入れ墨刑”を受ける。しかし改心することなく、1832年に37歳で二度目のお縄。自白によると、保釈後の10年間でさらに71ヵ所、90回に及ぶ盗みを重ねていた。

次郎吉が生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額は約3,120両(約3億円)。最期は市中引き回しのうえ小塚原刑場で磔にされ、首が晒された。その後、頭部は墨田区両国の回向院に、胴体は荒川区南千住の回向院(同名)に埋葬された。

前述したように墓石を削る墓参者が絶えないため、両寺とも江戸時代から対抗策がとられてきた。

両国の方は、本墓の手前にニセモノの墓「お前立ち」を置く“囮作戦”を実施。墓前で立札が「こちらの“お前立ち”をお削り下さい」と促しており、丁寧に削り用の石まで用意されている。どんどん小さくなるので、3〜5年で建て替えるそうだ。

一方、南千住の墓は2000年の初巡礼時、金網で囲って防御するという古典的な手法を講じていた。ところが2004年に再訪すると網が消えていた!

不思議に思ってお寺に問い合わせると、一般市民から「罪人でも死ねば魂は浄化され仏になっているはず。網がかかっていては、死んでも牢屋に入っているようで可哀想だ」と声があがり、住職が取り払ったとのこと。

後に墓所は大きく変化し、2011年現在は「安政の大獄」で散った吉田松陰らと一緒に、特別区画・史跡コーナーに改葬されている。次郎吉は若い志士たちや儒学者と眠っている不思議を感じているだろう。

戒名は『教覚速善居士』。“教覚”は侠客の洒落かな? 「教えを善く速く覚える」とも読めるので、これも受験生が来る理由。戒名を付けたお坊さんは、ユーモアがありますね。

鼠小僧次郎吉
かつての南千住回向院の墓(手前が鼠小僧))。2000年頃まで金網で防御されていた。背後に寄りかかる墓石は先代のもの

※『月刊石材』2011年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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小林多喜二巡礼 〜“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ

小林多喜二
表現の自由がなかった時代に、正義を訴えペンに殉じた多喜二の墓。その勇気に敬服せずにいられない

国内で訪れた最北端の墓は小樽に眠る作家、小林多喜二。今から10年ほど前、どうしても会いたくて短い夏期休暇を利用し墓参に向かった。

遠方への巡礼で重宝するのがJRの“青春18きっぷ”。普通&快速列車が1日乗り放題になるこの切符は五枚綴りで1万1,500円。1枚当たり2,300円という値段で始発から全国に移動できる。しかも日付をまたぐ快速列車は終点まで乗ってもOKという特例があるため、うまく乗り継げば東北・福島駅から九州・博多駅まで1枚で行くことも可能だ。復路は小樽と舞鶴を結ぶフェリー(所用20時間8,200円)を使えば、船賃&18きっぷ3枚分、実質約1万5,000円で大阪〜小樽を往復できる。

2000年8月、早朝に大阪を出た僕は、仙台駅のロビーで一泊した後、平泉(岩手)で武蔵坊弁慶、青森で棟方志功や沢田教一に墓参し、午後11時に函館へ到着した。

30分後に札幌行きの夜行快速ミッドナイト号が出るので、その間に軽くうどんでも食べようと考えていたら、函館駅で扉が開くやいなや、大勢の人が弾けるようにドアから飛び出した。その瞬間、長年の巡礼で培った危険予知レーダーが反応。

“こりゃ、何かヤバいぞ”

ミッドナイト号は別ホームから出るらしく、約100人が韋駄天の如く階段を駆け上った。当時、僕は33歳。周囲はほぼ全員が20歳前後の若者。彼らは体力こそ勝っていたが、旅に不慣れなのか背後の荷物がやたらデカい。こちらは着替え用のTシャツが一枚、寝るための新聞紙、文庫本、カメラ、地図だけ。シュッと追い抜き、かろうじて先頭集団に入れた。

だが、乗り換え列車を見て僕は絶句。たったの3両編成! しかも2両が指定席で、自由席は何と1両のみ! そして自由席はすでに全部埋まっていた!

驚いてる間に通路を若人たちにとられ、僕はトイレの前に立つ5人目の人間となった。札幌まで七時間。人生で最も長い夜だった。午前6時半に札幌に着き、8時に南小樽駅着。ようやく北海道の西岸にたどり着く。

小樽港を出るフェリーは2時間後の午前10時。これに乗らねば仕事に間に合わない。急いで多喜二が眠る奥沢共同墓地へ。

山の斜面に沿った大きな墓地で、“小林”という名の墓が複数あるため焦りに焦った。管理人事務所がなく、付近の民家を片っ端から尋ね回る。略図を書いてもらい、ついに墓前にたどり着いた。念のために墓石の裏側を確認して胸を打たれた。

建立者は多喜二自身、日付は『蟹工船』発表の翌年。労働問題を通して社会の矛盾を告発した『蟹工船』は発禁処分になっている。彼は爛撻鵑濃爐未も知れない瓩罰亳腓魴茲瓩討い燭里。

墓の建立から3週間後に思想犯として逮捕、起訴され、3年後に特高警察の手で命を絶たれる。まだ29歳の若さだった。

その勇気を前に、合掌する手に力がこもった。

小林
深夜の道内をひた走るミッドナイト号。連結部で寝ている人はカーブの度に体が“への字”になっていた

※『月刊石材』2011年3月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

忘れられない一期一会 〜ヘミングウェイに会いたくて

ヘミングウェイ
木々の間に眠るヘミングウェイ。フレミングさんが先に見つけた

墓地は基本的に郊外が多く、観光ルートから離れているために、地元のローカルバスや徒歩で向かうことが多い。たどり着くまで大変だけど、その分たくさんの出会いがある。

2000年夏、僕は初めて全米一周の墓巡礼を敢行した。期間は1ヵ月。

グレイハウンドという長距離バスが全土を結んでおり、一ヵ月乗り放題チケットが当時37,000円だった。めちゃくちゃ安い。夜行バスにも乗車できるため、交通費と宿代の問題が一気に解決。墓地は無料だから、昼に墓参、夜に移動というサイクルで周っていけば、理論上は食費を入れても10万円以下で全米一周が可能だ。

旅の終盤に予定していたのが、アイダホ州ケッチャム村に眠るノーベル賞作家ヘミングウェイの墓参だ。作家として名声を得た後も、独裁者フランコと戦うためにスペイン内戦に身を投じた行動する男。こちらも行動力で応えたい。

ケッチャムはバスの路線から大きく離れていた。停車中に地元の人に交通手段を尋ねたところ、隣町からタクシーを呼んで往復すると10万円以上かかると言われ卒倒寸前に。ケッチャムに向かって涙目で合掌し、バスに戻った。

しばらく走行すると後ろから右肩をトントン。振り向くと初老の紳士。

「君、さっきは泣いてたね」。

事情を話すと“フム”と少し考え、「明日、私はレンタカーでケッチャム方面に行くので乗せてあげよう」と提案。願ってもない幸運に耳を疑った。

問題は行程だ。紳士は美しい国立公園を眺めつつ進む4、5日の日程を予定していた。しかし、僕は帰国便が迫っており日帰りせねばならず、理由を話して断念した。 その数分後、再び肩を叩かれた。

「OK! レッツ・ゴー」。

男性の名はフレミングさん。デンマーク人の旅人で51歳とのことだった。翌朝7時に出発。ケッチャムは予想以上に遠く、ほぼノンストップで走行したにもかかわらず、片道5時間もかかった。

雄大なロッキー山脈を横目に車は疾走し正午に到着。食堂でサンドイッチを食べて腹ごしらえし、村の墓地へ。

ヘミングウェイの墓は木立の間にあり、フレミングさんいわく「彼は自然を愛していたからこの場所を気に入っているだろうね」。

1時間滞在した後、再び五時間をかけて出発地に戻った。実に往復11時間! 

いくら金欠とはいえ、ガソリン代だけでも払おうと財布を取り出すと、フレミングさんは片手で制止して首を振った。

「私はヘミングウェイが大好きなんだよ。しかし墓がケッチャムにあることは知らなかった。墓参りができて良かった」。

そして別れの握手。遠ざかる車を見送りながら、初対面の相手にこんなにも親切になれる人がいるのかと感激し、“この人に会えただけで、生まれてきたモトをとった”と思った。

そしてヘミングウェイに感謝した。“あなたが作品を残してくれたおかげで、フレミングさんと会えました”と。

ヘミングウェイ
大恩人フレミングさんと、アイダホ州を疾走したレンタカー

※『月刊石材』2011年2月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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我が墓巡礼ライフの原点、すべてはこの人から始まった 〜心優しき文豪ドストエフスキー

ドストエフスキー
次から次へと巡礼者が絶えないドストエフスキーの墓(2005年、再巡礼時)

僕が“墓マイラー”になるきっかけとなった、生まれて初めて訪れた恩人の墓、ロシアの文豪ドストエフスキーです。

『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』、これらの作品から伝わってくるのは、作者の圧倒的な優しさ。人間の残酷さや弱さを全面に出しながら、それでもなお人類を信じていたいという切実な叫び。常に弱者の立場になって世界を見つめ続ける彼の存在に、いったい何度救われたことか。

20歳の誕生日を迎える前に、なんとしてもドストエフスキーの墓前で「スパシーバ(ありがとう)」と一言伝えたくなり、しまいには、爐気發覆い反誉犬一歩も前に進まない瓩隼廚Δ茲Δ砲覆蠅泙靴拭

ところが1987年当時は、まだ社会主義体制のソビエトであり、冷戦下ゆえ気軽に自由旅行できる状態ではありませんでした(現在でも事前に宿泊先を申告しないとビザが下りません)。そこで僕が考えたのは、墓地に近いホテルを使うソ連ツアーを選び、隙を見て巡礼に行くというものでした。

すると、なんと墓地の真正面に建つ“ホテル・モスクワ”を利用するツアーがあるではありませんか! レニングラード(現ペテルブルク)に着いた僕は、夕刻にチェック・インした後、夕食までの30分間の小休止の間にホテルを抜け出し、墓地へ駆け込みました。

カタコトのロシア語で門番に墓の場所を尋ね、ようやく墓前に立てた時のあの感動。土の上に手を置いた時、雷に打たれたように全身に電気が流れました。それは「彼は実在したんだ」という歓喜の電流でした。

教科書で見る彼はどこか架空の人物のようでリアリティがなかったのですが、墓に手を置くと、生きて死んだからここに墓があると、“あの、底なしに深い思いやりを持った人物は本当にいたんだ”と体感し、涙腺が決壊しました。その後、深呼吸して周囲を見渡すと、チャイコフスキーやムソルグスキーといった大作曲家たちも同じ墓地に眠っていました。

“白鳥の湖”など、美の極みともいえる音楽を生み出した人物も実在していた…、人間万歳!

墓地から出る時に僕の心をよぎったのは、「待てよ。じゃあ、シェイクスピアにはお礼を言いに行かなくていいのか? 夏目漱石は?手塚先生は? 他にもたくさん恩人がいるじゃないか!」。

それから僕の果てしない巡礼行脚が始まりました。

ドストエフスキー
「僕、あなたに会って人生が変わったんですよ〜ッ!」(2005年)

※『月刊石材』2011年1月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

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