カートをみる マイページへログイン ご利用案内 お問い合せ お客様の声 サイトマップ
RSS

墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里」

三千里

絵/dskさん

墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里

◎墓巡礼リスト

・我が墓巡礼ライフの原点、すべてはこの人から始まった 〜心優しき文豪ドストエフスキー

・忘れられない一期一会 〜ヘミングウェイに会いたくて

・小林多喜二巡礼 〜“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ

・鼠小僧次郎吉巡礼 〜お寺と墓参者の、約180年という長きにわたる攻防戦

・爆走!闇タクシーで珍道中 〜キューバの英雄チェ・ゲバラ

・織田信長 〜戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上

・スヌーピーの生みの親チャールズ・シュルツ 〜 パトカーで墓巡礼

・ジャマイカ大疾走! “レゲエの神様”ボブ・マーリィ巡礼

・農民として生まれ武士として散る 〜新選組局長・近藤勇

・世阿弥元清〜能を究めた舞の名手を訪ね、非公開寺へ

・オードリー・ヘプバーン 〜世界を魅了した銀幕の猴点梱

・ベートーヴェン巡礼 〜巨匠の側に有名作曲家が大集合!

・平 清盛 〜貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長

・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 〜墓が語る兄弟愛

・坂本龍馬〜「日本を今一度、洗濯いたし申し候」

・チャップリン 〜ヒトラーと戦った喜劇役者

・岡本太郎 〜前衛美術運動の旗手は、お墓もインパクト絶大

・“ピアノの詩人”ショパン 〜ハートは祖国に戻った

・民衆を救うため命がけの蜂起! 〜日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

・オーギュスト・ロダン 〜“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

・黒澤明 〜銀幕を通して世界との架け橋に

・絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 〜ジャン=フランソワ・ミレー

・夏目漱石 〜文豪は“安楽椅子”でくつろでいた

・ドイツの古都に並ぶ友情の墓 〜ゲーテ

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

悲しみを明るいメロディーに変えて〜神童モーツァルト、35年を駆け抜ける

モーツァルト
悲しむ天使が寄り添うサンクト・マルクス墓地のモーツァルトの墓。このエリアはモーツァルトの為だけにある

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年に、オーストリアのザルツブルクに生まれた。ひょうきんな性格で姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記している。

3歳からピアノを弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。5歳のときに作曲を開始し、8歳で交響曲を、そして11歳で最初のオペラを作曲した。

音楽家の父は各国の宮廷で息子の神童ぶりを披露し、文豪ゲーテは7歳のモーツァルトの演奏を聴き、「その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する」と感嘆した。

一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に1人で作曲しているのか確認するため1週間監視して書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて天才であることを証明した。

14歳のときにヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で楽譜持ち出し禁止の秘曲『ミゼレーレ』を聴いた際は、この9つのパートが10分以上も重なりあう複雑な合唱曲をすべて記憶して書き起こし、人々を驚嘆させた。ローマ教皇はモーツァルトを呼び出すと、叱責せずにその才能を讃え、『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。

25歳でウィーンに移住し、オペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』、17曲にのぼるピアノ協奏曲、弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など傑作群を生み出し、3大交響曲の第39番、40番、41番『ジュピター』をわずか1ヵ月半で仕上げた。

モーツァルトはまず頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。

30代になるとモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれ、人気は下火になっていった。求められたのは、心地よい音楽、聞きやすい音楽だったが、モーツァルトは芸術性を高めようと試みた結果、「難しい」「疲れる」と敬遠されたのだ。

次第に演奏会は不入りになり、経済状態は極度に悪化した。

「今時は、何事につけても、本物は決して評価されません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)

1791年、病に倒れたモーツァルトは死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「涙の日」を8小節書いたところで力尽きた。享年35歳。

一家は貧困から墓を建てる余裕がなく、亡骸は郊外のサンクト・マルクス墓地の貧民用共同墓地(ただの穴)に投げ込まれた。現在、この墓地のどこかにモーツァルトは眠っているという認識の上で墓が建てられている。

「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)


モーツァルト
ベートーヴェンやシューベルトが眠るウィーン中央墓地に立つモーツァルトの記念碑。没後100年目に当初の墓地から移設された

※『月刊石材』2014年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

手まり遊びで仏を語る〜歌と書を愛した良寛さま

良寛
隆泉寺の良寛禅師墓。付近には自筆で「南無阿弥陀仏」と書かれた碑も立つ。
墓前の樹にズズメバチの巣があり、手に汗握る墓参だった

「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」
(里で手まりをつきながら子どもらと遊ぶ春の一日が楽しく、このまま暮れずともかまわない)

心優しい歌人、書家として知られる江戸後期の禅僧・良寛は、1758年に新潟・出雲崎の名家に生まれた。父は地元の名主であったが、良寛は人の上に立つことを嫌い、家を継がずに17歳で出家する。

20代は岡山の高僧の元で修行に明け暮れ、32歳で悟りの証明書となる印可状を授けられた。翌年から諸国を托鉢行脚で巡り始め、40代になって故郷に戻る。

「草枕 夜ごとに変はる 宿りにも 結ぶは同じ ふるさとの夢」

出雲崎付近を無一文で転々と移り住んだ後、国上寺の五合庵で10数年を過ごす。54歳で代表作となる自選歌集・『布留散東』をまとめ、この頃から多くの名筆を残した。

ある日、長岡藩主・牧野忠精が直々に草庵を訪れ、「城下に招きたい」と説得したが、無欲な良寛は「焚くほどは 風がもて来る 落葉かな」(煮炊きに必要な落ち葉は風が運んでくれ、山里の暮らしに何の不足もない)の一句を無言で指し示し、要請を断ったという。

70歳を前に老いを感じた良寛は、30年過ごした国上山から下り、島崎村(長岡市)の知人宅に身を寄せて最後の5年間を送る。この地で28歳の若い尼僧・貞心尼が弟子入りし、40歳も年下の彼女に恋した。

1831年、貞心尼に看取られ他界。享年72。死後に貞心尼は良寛の和歌を集めた『蓮の露』を編集した。

良寛は出世欲と無縁で、生涯自分の寺を持たなかった。全ての人に愛情深く接し、庶民でも分かる平易な言葉を選んで仏教を広めた。そして、「子供の純真な心こそが仏の心」と悟り、懐には常に手毬を入れ、好んで子供たちとよく遊んだ。かくれんぼで隠れたまま朝になったという逸話も残る。

「つきてみよ 一二三四五六七八 九の十 十をおさめて またはじまるを」
(一緒にまりをついてご覧。一二三四五六七八九十と、十が終わるとまた一から始まるね、これが仏の教えだよ)

生命を尊び、庵の下に生えてきた竹の子のために床に穴を開けたという。禅僧でありながら酒を好んだと伝えられ、親しみやすい良寛の姿が思い描かれる。

良寛の書は生前から奪い合いになるほど人気があり、人々が大切に保管したため約1,200首が残る。川端康成、水上勉など研究者は多い。

墓は晩年に世話になった木村家の菩提寺である隆泉寺(長岡市)に立ち、表面に次の歌が刻まれる。

「やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿立てり かみなづき 時雨の雨に濡れつつ立てり」
(向かいの丘に雄鹿が立っている。10月の冷たい時雨に濡れながら凜と立っている)

建立時、孤独な鹿と良寛を重ねたのだろう。

辞世は「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」
(形見に何を残そうか。春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉の葉っぱかな)

自然の恵みを感じる心を大切にして歌い続けて欲しいという、後世の私たちに向けたメッセージだ。


良寛
新潟県出雲崎の生家跡に建つ良寛像は、母の故郷・佐渡島を見つめている。
背後の良寛堂には良寛が昼寝で枕にした「枕地蔵」が収められている

※『月刊石材』2014年11月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

“サッチモ”の愛称で慕われたジャズ創世記の巨星ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロング
「Louis Armstrong」の上に愛称の“Satchmo”(サッチモ)が金文字で彫られている。
1.5メートルほど手前に夫婦のプレート型墓標もあり

ルイ・アームストロングは「キング・オブ・ジャズ」と讃えられたジャズ史上最初の天才であり、トランペットの即興演奏を得意とし、高い音色を長時間キープするなど優れた演奏技術で知られた。

ヴォーカリストとしても有名で、「ズビズビ・ダバダバ」と言葉を即興的につなげ、声を楽器代わりに使う歌唱法“スキャット”の発明者として知られる。

愛称は“サッチモ(大口)”。由来はエラ・フィッツジェラルドが彼の大きな口を「Such a mouth ! 」と呼んだことによる。

サッチモは1901年にルイジアナ州ニューオーリンズの裏町で生まれた。少年時代は非行を繰り返し、新年を祝うために道端で発砲したところ、警官に見つかり少年院へ送られる。少年院でブラスバンドに入ったことでコルネットと出会い、楽器演奏の楽しさに目覚めた。出所後は町のパレードなどで演奏して人気者となり、16歳でプロ・デビューを飾る。

1925年(24歳)、当時のジャズの中心地シカゴにて、念願だった自身のバンド“ホットファイブ”を結成。サッチモが活躍し始めた1920年代は、それまでバンド全員が揃って演奏するスタイルが一般的だった。彼は演奏スタイルを革新し、曲の途中に独自の「ソロ即興パート」を入れ変化をつけた。たちまち人気に火が付き、翌年にはジャズ史上初のスキャット曲「ヒービー・ジービーズ」を録音。この曲を聴いたシカゴ中のジャズ・ファンが、サッチモのしゃがれ声に憧れて風邪を引こうとしたという。スキャットのおかげで、人々は同じ歌を様々な歌い方で楽しめるようになったのだ。

1957年、南部アーカンソー州のリトルロックで高校入学を希望した黒人学生九名が、人種差別により入学を阻止される事件が起きた。差別主義者のフォーバス知事は、登校初日に州兵を高校に派遣し、黒人学生の登校を実力で阻止する。アイゼンハワー大統領はリトルロックの出来事を知りながら何も行動しないため、怒ったサッチモはメディアのインタビューで「フォーバス知事は無学で、アイゼンハワー大統領は意気地なしだ」と感情を爆発させた。

彼自身、これまで公演先で白人と同じホテルへ泊まれなかったり、劇場で黒人専用の出入口を強制されるなど、何度も差別を体験していた。サッチモの怒りは新聞で大きく取り扱われ、すぐさま世界中に伝わった。マネージャーは大統領に対する非難発言の撤回を勧めたが、サッチモは逆に批判を強め、予定していたソビエト公演を「黒人をこのように酷く扱うアメリカを代表してソビエトに行くことは出来ない」とキャンセルした。

アイゼンハワーは世界から注目を浴び、かつてノルマンディーで戦った米軍きっての先鋭部隊・第101空挺師団をリトルロックへ派兵した。黒人学生らは軍に護衛されながら、ついに入学を果たすことが出来た。

63歳で録音した『ハロー・ドーリー』は当時人気絶頂だったビートルズを抜き全米No.1ヒットに輝き、3ヵ月続いていたビートルズの連続1位記録をストップさせ音楽関係者を仰天させた。

1971年、ジャズ界の巨人は69年の人生を終える。生涯のレコーディングは約1,500曲。どんなに軽いポピュラー曲でもサッチモが歌うと深みや哀愁が生まれ、人々は歌から人生を感じ取った。

墓はニューヨーク州のマンハッタン島の東側、クイーンズ地区のフラッシング墓地。墓石の上部にはトランペットの彫刻が置かれている。「ジャズとは自分が何者であるか、でしかない」(ルイ・アームストロング)。


ルイ・アームストロング
上部のトランペット型オブジェには溢れんばかりのペニー銅貨が。
出演映画『五つの銅貨(ファイブ・ペニーズ)』を意識してファンが置いていくのだろう

※『月刊石材』2014年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

連合艦隊司令長官・山本五十六〜英雄と讃えられた非戦派の苦悩

山本五十六
多磨霊園の墓。墓石の文字は米内光政が揮毫。右に東郷平八郎元帥、左に古賀大将の墓が並ぶ

「アメリカと戦争することになれば、この日本は二度三度も焦土と化すだろう」(山本五十六)。

連合艦隊司令長官、山本五十六は軍人でありながら戦争回避に尽力したことで知られる。新潟県出身。父が56歳の時に生まれたことから“五十六”と名付けられた。

超難関の海軍兵学校に次席で入校し、20歳のときに日露戦争に出征。日本海海戦では巡洋艦でバルチック艦隊と対決し、その際に砲弾の炸裂で左手の人さし指と中指を失った。30代半ばからハーバードに留学し、さらに欧州各国を視察。米国ではケタ違いの国力に圧倒された。当時、原油産出量は日本が741万バレル、米国は4億4293万バレルと約60倍の差があり、日本では珍しかった自動車が、年間200万台も生産されていた。

1939年、陸軍を中心に独伊との軍事同盟を求める声があがる。両国はファシズム国家であり、同盟を結べば米英との対立は避けられない。山本は祖国を危険にさらす軍事同盟を阻止するため、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美と共に抵抗した(米内も井上も海外駐在経験があった)。

山本ら“知米・非戦派三人衆”は「腰抜け」と批判され、右翼は山本を国賊と呼び、暗殺計画が噂された。あくまでも同盟反対を貫く山本は遺書を記す。「死んで君国に報いるのは武人の本懐だが、それが戦場であろうがなかろうが変わりはないのだ。いや、戦場で死ぬことよりも俗論に抵抗し、正義を貫いて死ぬ方が本当は難しく大変なことなのだ」。

翌年、新しい海軍大臣・及川古志郎が東条英機に押し切られ、日独伊三国同盟の締結が決定する。この報を聞いた山本は及川に詰め寄った。「政府の物資計画は八割まで英米圏の資材でまかなっているが、この先は英米から資材は入らぬ。その不足を補うため、どういう計画変更をやられたのか聞かせていただきたい」「もう勘弁してくれ」「勘弁ですむか!」。

山本は近衛首相から「対米戦争をすればどんな結果になると思うか」と問われ、次のように返答した。

「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」。

その後、山本が恐れていた通り、米国は対日石油禁輸に踏みきった。 日本は追い詰められ対米開戦へと突き進み、皮肉なことに非戦派の山本が攻撃作戦を立案する立場になってしまう。「個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。

山本は開戦と同時に先制攻撃で大打撃を与え、相手の戦意をくじいて一気に戦争終結へと導こうとした。1941年12月8日、350機の航空機で真珠湾の米艦隊を奇襲し「アリゾナ」など戦艦五隻を沈没、9隻を大破させ、188機の飛行機を破壊した。国民は山本を英雄視したが敵空母を取り逃がしており、これが翌年のミッドウェー海戦における大敗に繋がる。

1943年4月18日、山本は南方最前線のブーゲンビル島バラレ基地へ将兵を見舞うため飛行中、暗号電報を解読した米戦闘機18機の待ち伏せを受けた。山本機は撃墜され、右手に軍刀を握ったまま絶命する。享年59。平民が国葬にされたのは、戦前では山本ただ1人である。

墓は東京の多磨霊園・特別区に建てられ、後に遺骨が新潟県長岡市に改葬されたが、墓石は多磨霊園に残された。「俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃぁ、それでもいいよ」(友への手紙)。


山本五十六
故郷長岡の長興寺の墓。戒名「大義院殿誠忠長陵大居士」が彫られている。
近所の記念館では遺品を展示

※『月刊石材』2014年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

「神のごとき」と讃えられた男〜ルネサンスの巨人ミケランジェロ

ミケランジェロ
サンタ・クローチェ教会のミケランジェロの墓。遺言に従い、故人が心から愛していたフィレンツェに葬られた

「最大の危険は目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎてその低い目標を達成してしまうことだ」(ミケランジェロ)。

美術史上、最も偉大な芸術家の1人であるミケランジェロは、彫刻家、画家、建築家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろい。

1475年にフィレンツェ近郊で生まれ、10代前半から絵画や彫刻で頭角を現した。24歳のときに、十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱える若きマリアの彫像『ピエタ』が完成すると、そのあまりの美しさに人々は「神のごときミケランジェロ」と感嘆し、名声は瞬く間に広がった。

26歳から4年の歳月をかけて彫り上げた『ダビデ』像は高さ4.3メートルにもなり、旧約聖書の英雄を内面の炎まで表現したこの作品を、人々は「古代ギリシャ・ローマ彫刻を超越した」と絶賛、フィレンツェのシンボルとして市庁舎の前に設置した。この大作に挑む際、彼が習作を作らず、いきなりノミで刻み始めたことから、驚いた周囲の者が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。

33歳からローマ教皇の依頼でシスティナ礼拝堂の天井画(旧約聖書「創世記」の物語)に挑む。最初は5人の助手を使って制作していたが、完全主義者で短気な彼は助手を追い出し、ひとりで土を練り、壁を塗り、絵筆を握り続けた。高さ20メートルの足場で立ったままエビ反りになり、4年がかりで奥行き約40メートル、幅約14メートルの超大作を描ききった。登場人物は400人に達し、そのすべての人間に個性があった。

四半世紀後、61歳になった彼は同じ礼拝堂の壁に、今度は『最後の審判』(14メートル×12メートル)を描き始め、五年を費やして完成させた。中央に右手を掲げて審判を行うキリストを配置し、その左側には祝福され天国に昇る人々を、右側には罰せられ地獄に墜ちる人々を描いた。彼はこの作品に自画像として異形の“人間の皮”を「地獄側」に描き込んでいる。

晩年は建築家としてサン・ピエトロ大聖堂などの建築現場に立った。詩人としても多くの詩を残し、メディチ家の墓にそえた像と故人に次の四行詩を書いた。

「われ、石に眠るこそ、楽しみなり/破壊、恥辱の多き世に/見ず聞かざるは、幸せなり/されば目覚ますな、ひそかに語れ」
 
1564年、88歳のミケランジェロが死を前に呟いた言葉は、「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになってきたと感じるときに、死なねばならぬことだ」。現在、ガリレイやマキャベリの墓があるサンタ・クローチェ教会に眠っている。

僕らは日々の生活の中で、「人間の一生なんて短い、出来ることなどしれている」、そんな言葉を聞くことがある。でも、システィナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』の前に初めて立ったとき、“人間はたった1人でこんなことが出来るのか! 4年や5年でここまで描けるものなのか!”と、人間の可能性の極限を見た思いがした。

そしてサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』の美しさに、キリスト教徒ではなくとも泣きそうに。無実で処刑されたキリストと、死んだ子を抱く親の気持ち。文化や言葉を超えて伝わる悲しみ。

石の彫刻は500年前の姿のまま今に残り、ルネサンス時代の人々と時間の壁を超えて感動を共有する心持ちがして胸が熱くなった。


ミケランジェロ
サン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』。これほど精神的な深みを持った作品を24歳の青年が彫り上げたことに驚愕

※『月刊石材』2014年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

明智光秀〜あえて謀反者となり「天魔」を討つ

明智光秀
大津市西教寺の墓。比叡山の麓に建つ明智の菩提寺に一族の墓が並ぶ

2014年6月、“本能寺の変”直前に四国の覇者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三に送った手紙が岡山で見つかったと報道された。元親の正室は利三の妹。その内容から、信長と元親の板挟みになった光秀の苦悩が浮き彫りに。手紙には、元親が信長に屈服する意志が書かれていた。だが信長は四国征討軍の派遣を決定。光秀の胸には「元親は恭順の意を示したのになぜ派兵するのか」という思いがあっただろう。

光秀が本能寺を襲ったのは、四国征討軍の出発予定日。襲撃部隊を斉藤利三が指揮しており、信長の死によって四国派兵は中止となった。この件は、間違いなく謀反の理由のひとつ。

光秀は荒くれ者が多い織田家臣団にあって、和歌や茶の湯を愛した風流人。斎藤道三や越前朝倉氏に仕えた後、39歳で信長の家臣となり、朝廷との交渉役となって織田家を支えた。武人としては鉄砲の名手であり、通常の倍ほど遠い的に百発連続で命中させ、うち68発が中心を撃ち抜いた。

信長は光秀を高く評価し、滋賀郡と築城資金を与え、光秀は家臣団で最初に一国一城の主となった。秀吉や柴田勝家など古参の家臣がいるなか、織田に来て僅か4年で出世頭。この評価は10年後も変わらず、信長は手紙に「丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し」と手放しで称賛している。

だが、信玄が「天魔信長」と糾弾した比叡山の焼討ち以降、残虐度を増していく主君に光秀は戸惑っていた。伊勢長島で、信長は一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。土地に子孫を残さぬこの作戦は、「根切り」と呼ばれた。

北陸では、住民全員を一揆衆と見なし4万人を殺害。武田を滅ぼした後、信長は武田の菩提寺が信玄の子・勝頼を供養したことに激高して放火し、同寺の国師もろとも僧侶150余人を焼き殺した。“国師”は天皇が認定した、天皇の師。国師を殺すことは、天皇の権威を全く認めていないということ。

1582年、信長は『神格化宣言』を発布。安土城内に巨大な石を安置し、「この石を私と思って拝め」と諸大名や領民に強制した。信長が命じればただの石が神になるのだ。また、信長を本尊とする寺を建立して信長像を置き、「神仏を拝まず信長を拝め」と朝廷に命じた。これは目に見える形で、自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。信長が官位を返上したことも朝廷のメンツを潰した。

公家は光秀に信長抹殺を期待するようになる。天皇の側近クラスが集まった秘密の連歌会で、光秀は発句をこう詠んだ。『時は今 雨が下しる 五月哉』=“時”は明智の本家、土岐氏。“雨”は天。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る5月なり」。

これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐『水上まさる、庭の松山』=“皆の神(朝廷)”が活躍を待つ。連歌界の第一人者・里村紹巴『花落つる、流れの末をせきとめて』=“花”は栄華を誇る信長、花が落ちるよう勢いを止めて。旧知の大善院宥源『風に霞を、吹きおくる暮』=信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払ってくれ。

この5日後、光秀は「敵は本能寺にあり」と謀反を起こし主君を討つ。朝廷は喜び、光秀に祝儀を贈った。その後、光秀は秀吉に敗れ、土民の竹槍が致命傷となる。

享年54歳。33年後、斎藤利三の娘・春日局が支えた徳川が豊臣を滅亡させ、明智方の恨みは晴らされた。善政により領民に慕われた光秀の墓は六ヵ所。いずれも人々が大切に守っている。


明智光秀
京都市東山区の首塚。遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたもの。胴塚は伏見区にある

※『月刊石材』2014年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

アンネ・フランク〜悲しみの中でも希望を捨てなかった15歳の少女

アンネ・フランク
ベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ)の跡地に建てられたアンネと姉マルゴットの墓。
墓参者のメッセージが小石や手紙に書かれている

「約束しましょう。どんなことがあっても、前向きに生きてみせると。涙をのんで、困難のなかに道を見いだしてみせると」。

2014年2月に『アンネの日記』破損事件が報道された際、人種差別の犠牲になった少女の生命が生かされていないことに衝撃を受けると同時に、筆跡鑑定で真筆が証明された原本が公開されているのに、犯人が同書を偽物と供述していることが残念でならなかった。

アンネの家族は、彼女が4歳の時にドイツからオランダに脱出した。しかし11歳の時にオランダはドイツに占領され、反ユダヤの嵐が吹き荒れる。アンネは13歳の誕生日に父から贈られたサイン帳に日記をつけ始め、冒頭にこう記した。

「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです」。

やがて強制労働を目的にしたユダヤ人狩りが行われるようになり、危機感を抱いた父オットーは、4階建ての会社の建物を改築して秘密の部屋を作り、一家で身を隠した。後に別の3人家族と歯科医の男性が加わり、8人で潜伏生活を送った。

隠れ家の生活が2年目に入り、息苦しい日々の中で、アンネは共に潜伏している3歳年上のペーターと恋仲になった。アンネはファーストキスのときめきを日記に綴る。だがペーターとの永遠の別れは4ヵ月後に近づいていた。

1944年8月、密告を受けたゲシュタポ(秘密警察)が隠れ家に乗り込み、全員が逮捕された。8人はアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、到着と同時に男女が分けられた。アンネと父は今生の別れとなった。

すぐに労働能力による「選別」が実施され、一緒に送られたユダヤ人1,019人のうち549人がガス室送りとなった。アンネは丸刈りにされ、腕に囚人ナンバーを刺青された。11月、アンネ姉妹は伝染病が蔓延するベルゲン・ベルゼンの収容所へ送られ、新たな選別でアウシュヴィッツに残された母は餓死した。

アンネ姉妹は4ヵ月ほど生存していたが、1945年3月にチフスで絶命した。翌月に同収容所を英軍が解放しており、救助直前の死であった。一方、オーストリアの収容所に送られたペーターは、米軍に解放されたその当日に18歳で生涯を終えた。

唯一の生存者となったオットーがオランダに戻ったとき、知人が隠れ家跡から発見したアンネの日記を手渡した。アンネの他界から2年後、みずみずしい感受性で記された日記は出版され大ベストセラーとなる。2009年、『アンネの日記』はユネスコによって「世界の記憶」に登録された。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は人里から離れた森の中にある。バス停から40分ほど歩いて敷地に入ると、墓標が点在していた。個人の墓石がある一方で、大きめの墓石には「ここに2,500人が眠る」「ここに5,000人が眠る」と記されており息を呑んだ。以前アウシュヴィッツを訪れた際は、徹底して火葬されこのような多数の埋葬地を見かけなかった。

アンネの墓前には様々な言語の手紙があった。正確なアンネの埋葬場所は誰にもわからない。だが、この石の墓標がアンネを慕う世界中の人々を結びつけていた。

「いろんなことがあるけれど、私はまだ人間は心の底では善良なのだと信じています」(逮捕直前の日記)。


アンネ・フランク
収容所跡の資料館には世界中の言語で書かれたアンネへの手紙が。
これまで墓前に置かれたものがここで保管されているのであろう

※『月刊石材』2014年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

木戸孝允〜急進倒幕派の長州をまとめ明治の世を切り開く

木戸孝允
386柱もの墓碑が立ち並ぶ霊山墓地の中で、夫婦で並ぶのは木戸と川瀬太宰の2組だけ。
その意味では幸せな2人といえる

「木戸について最も感心なことは、長州出身にも拘らず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられたことだ」(大隈重信)。

幕末を描いた大河ドラマでは、坂本龍馬が『竜馬がゆく』『龍馬伝』で2度主役になり、維新三傑の西郷隆盛と大久保利通が『翔ぶが如く』で取り上げられる一方、木戸孝允(桂小五郎)だけが一度もスポットを浴びていない。ここは木戸ファンとしてその魅力を語ることで盛り上げていきたい。

木戸は藩医の家に生まれ、16歳で思想家・吉田松陰の松下村塾に入門。松陰からは「事をなすの才あり」と高く評価された。剣術修行のため十九歳で江戸へ出て、当時の江戸三大道場のひとつ、神道無念流・練兵館に入った。すぐに頭角を現し、1年で免許皆伝を得て塾頭となる。これにより木戸は剣豪として人々に知られ、後年、敵対する近藤勇ですら「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と評した。江戸でペリーの黒船艦隊を目撃した木戸は、事なかれ主義の幕府では時局に対応できないと、25歳で帰藩した後、倒幕運動に身を投じていく。とはいえ、過激な武力闘争を支持せず、開国派とも交流しながら現実路線を主張した。

新選組が志士9人を斬り捨てた池田屋事件では、すんでのところで難を逃れた。1864年(31歳)、「禁門の変」で長州が薩摩に敗北して都から追われると、木戸は物乞いの姿に変装して都に残り、幕府側の動向を探った。この時、木戸に握り飯を差し入れてくれた京都の芸妓“幾松”こそが、後に夫人となった松子。松子は13歳で舞妓となり、すぐに祇園の人気芸妓となった。利発で美しく、笛や踊りが上手な松子に木戸は惚れ込み、松子も理想肌の木戸を愛し、危険を顧みず木戸をよく助けた。

1866年、大局を見て行動していた木戸は、龍馬を仲介として、倒幕のために当時最強の薩摩と薩長同盟を結ぶ。藩内は「禁門の変」の敗北で薩摩への憎悪が渦巻いており、木戸は同盟反対派に暗殺される恐れがあった。そうならなかったのは、木戸自身が「禁門の変」で子の勝三郎を失っているからだろう(享年17歳)。勝三郎は三歳から育ててきた養子。木戸の悲しみを知っているからこそ周囲も耳を傾けたと推察。

木戸は真に倒すべきは幕府であると藩論をまとめ、薩摩と協力して幕府に圧力をかけ、同盟翌年に大政奉還を実現させた。血の気の多い長州藩武闘派に「逃げの小五郎」と揶揄されながらも、言葉や人脈を大切にして明治維新に漕ぎ着けた。

維新後は新政府で手腕を振るい、国内の近代化を進めていった。維新六年後に台湾出兵を決定した政府に対しては「今は内政に集中すべき」と強く抗議し参議を辞任。高い人望から政権へ復帰するよう説得を受けたため、三権分立や二院制議会確立など立憲制への移行を条件に復職した。だが、大久保の強権を嫌って翌年再び辞任する。

木戸は以前から原因不明の脳発作に苦しんでいたが、政府内の権力闘争に心を痛めて病気が悪化。そこへもって1877年に西南戦争が勃発した。かつての盟友・西郷との戦いに苦悩し、木戸は京都で倒れる。見舞いに来た大久保の手を握り、もうろうとしながら「西郷もいいかげんにしないか」とつぶやき他界した。享年43歳。

松子は出家し、毎日墓前を訪れて墓を護った。現在、龍馬や中岡慎太郎も眠る京都の霊山墓地の最上部に夫妻の墓は仲良く並ぶ。


木戸孝允
手前が松子、奥が孝允の墓。松子は新選組に連行されても木戸の居場所を言わなかった。
木戸他界の9年後に44歳で病没。葬儀には1000余人が参列した

※『月刊石材』2014年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

永遠の青春スターとしてハリウッドの伝説となったジェームス・ディーン

ジェームス・ディーン
裏表に名前がある「両A面シングル墓」。
僕が確認した同タイプの墓は、アウトローのデリンジャー、幕末の土佐藩家老・後藤象二郎のみ

「まだまだ自分のことを何分の一も知っちゃいない。…だから生きることにせっかちなのさ」(ジェームス・ディーン、死の1週間前に)。

主演俳優になって半年足らず、24歳の若さで他界したジェームス・バイロン・ディーンは1931年にインディアナ州で生まれた。文学好きの母は詩人バイロンの名をミドルネームにした。九歳の時に母がガンで病没すると、父は仕事の多忙を理由に、農家の姉夫婦にディーンを預けた。10代で演劇の魅力に目覚めたディーンは、ロスのカリフォルニア大学(UCLA)演劇科に進む。

演技力が評価され19歳でペプシのCMに出演したが、ディーンの悲願は映画出演。20歳で『折れた銃剣』のエキストラとして銀幕デビューを果たす。しかし、4本続けて出演するもすべて端役で名前さえ出ない。ディーンは演技を磨くためニューヨークに移り、名門演劇学校アクターズ・スタジオに応募する。そして150倍という天文学的な倍率を突破して、歴代最年少の21歳で入学した(同校はロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジャック・ニコルソン、マリリン・モンローらを輩出)。

数本のテレビドラマに出た後、ブロードウェーの舞台が高く評価され様々な新人賞に輝いた。複数の映画関係者がディーンの才能に惚れ込み、映画『エデンの東』の主役キャルに大抜擢される。劇中では父親の愛に飢えた繊細な息子を鮮烈に演じきり、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン監督)。

同年、『理由なき反抗』でも等身大の悩めるティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちの象徴となった。続けて大作『ジャイアンツ』では、準主役で成り上がりのひねくれ者を演じ、演技派俳優としてさらなる成長を見せた。

時代の寵児となったディーンだが、悲劇は突然訪れた。1955年9月30日、銀色のポルシェ550スパイダー(ポルシェ初の市販レーシングカー)でカリフォルニア州のレース会場に向かっていた彼は、夕刻、州道の分岐点で横から出てきた車と時速135キロで衝突した。同乗者も相手の運転手も生命に別状はなかったが、ディーンは即死状態だった。故人にもかかわらず『エデンの東』『ジャイアンツ』と2年連続でオスカーにノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。

ディーンが眠る農村フェアマウントは田舎で公共交通がなく、墓参は大変だった。まず米国中部インディアナポリスから北上する長距離バスに乗り、途中下車して停留所の売店から乗合タクシーを呼んでもらい、ディーンの故郷の町マリオンまで移動。そこからフェアマウントへ行くと村の中心部で降ろされるため、徒歩で村外れの墓地へ向かった。

大豆畑を抜けてたどり着いた彼の墓はピンク色でキスマークがいっぱい。珍しいことに墓の両面に名前が彫ってあった。レコードの両A面という印象。これなら命日にファンが大勢訪れても、両サイドから追悼できて故人と墓トークする時間が長くとれる。永遠に24歳の天才俳優に合掌。


ジェームス・ディーン
タクシーの運転手さんいわく「ファンが墓を削るから周囲がガタガタなんだぜ」。キスマークもいっぱい

※『月刊石材』2014年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

詩に昇華された愛〜高村光太郎と智恵子

高村光太郎
東京・染井霊園の墓。
側面右から11番目に智恵子(遍照院念誉智光大姉)、12番目に光太(光珠院殿顕誉智照居士)の名しい

墓石は単なる石ではなく人――墓巡礼の度にそのように感じる。 

東京の染井霊園で高村家の墓前を訪れた際は、光太郎と智恵子の戒名が仲良く並ぶのを見て、両者の再会に立ち会った思いがした。

光太郎は1883年東京生まれ。父は著名な仏師・高村光雲。22歳のときにロダンの『考える人』の写真を見て衝撃を受け、翌年に欧米へ留学。約3年間の渡航生活で近代の自由精神を身につけて帰国した光太郎は、日本社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義に強く反発した。

28歳のときに3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会い、愛を育む。光太郎の詩は怒りと苦悩に満ちたものから、穏やかな理想主義とヒューマニズムが貫かれるようになった。31歳で最初の詩集『道程』を刊行し結婚。

「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」

幸福な日々を送る2人だったが、結婚15年目に、酒造業を営む智恵子の実家が破産し、一家は離散。彼女は心労から精神を病み始め、睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わったものの症状は進行していった。

「2つに裂けて傾く磐梯山の裏山は 険しく8月の頭上の空に目をみはり 裾野とほく靡いて波うち 芒ぼうぼうと人をうづめる 半ば狂へる妻は草をしいて坐し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する――わたしもうぢき駄目になる」(『山麓の二人』から)

1938年、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立った。最期にレモンをかじったところ意識が正常になり、そのまま息を引き取ったという。3年後、光太郎は三十年に及ぶ二人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。

終戦を迎えると、戦時中に戦意高揚の詩を書いたことを恥じ、反省の念から岩手・花巻郊外の山間に身を引いた。ひとけのない土地に粗末な小屋を建て、三畳ほどの小さな土間と自ら開拓した畑で自炊した。この謹慎生活は六十二歳から六十九歳まで七年間も続いた。

1956年、光太郎は智恵子と同じ肺結核でこの世を去る。享年73歳。友人・梅原龍三郎の弔辞「たとえ1点の作品がなくても君は君の人格と生活態度によって高邁なる芸術家であった」。

光太郎が岩手で暮らした小屋は「高村山荘」の名で保存・公開されている。山荘から高村光太郎記念館に続く道に詩碑があり、地下には遺髪や遺品が埋葬されている。詩碑の裏山の山頂には「智恵子展望台」があり、光太郎はそこから「智恵子、智恵子」と何度も叫んだという。

巣鴨の染井霊園には2人を慕うファンが数多く墓参するため、霊園の管理事務所で無料の案内マップを配布している。広い墓地ゆえ地図を見ながら墓に向かおう。

「愛する心のはちきれた時 あなたは私に会ひに来る すべてを棄て すべてを乗り越え すべてを踏みにじり 又嬉々として」(『人に』から)


高村光太郎
遺髪墓でもある「雪白く積めり」の詩碑。自筆原稿の銅板がはめ込まれている(岩手・花巻)

※『月刊石材』2014年3月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

日本美術を守った日本人の大恩人〜アーネスト・フェノロサ

フェノロサ
フェノロサの墓。三井寺本堂からしばらく山林の中を歩いた法明院の庭園奥に眠る。付近からは琵琶湖が見える

「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、労働者も山水を愛で花を摘む」

米国生まれのフェノロサは日本美術を物珍しさで好んだのではなく、本気で愛していた。能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなり、墓石は梵字が刻まれた五輪塔だ。日本美術界の未来まで考え、現・東京芸大創立のために奔走した。フェノロサはハーバード大の哲学科を首席で卒業した後、東大の求人情報に興味を持ち、1878年に25歳で日本の土を踏んだ。

明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の作品に日本人は芸術的価値を見出さず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の流派は世間から忘れ去られていた。

特に悲惨な境遇に置かれていたのが仏教美術だ。廃仏毀釈の嵐を経て、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われていた。役人は出世のために廃寺の数を競い、奈良の名刹・興福寺でさえ無住の荒れ寺となり、薩摩では一時期“全ての寺”が潰された。

フェノロサは日本人が自国の文化を大切にしないことに衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。作品がいかに素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。

フェノロサは文部省に掛け合って27歳で美術取調委員となり、まだ学生だった岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始する。2人は数度にわたって60ヵ所以上の社寺、約450品目の美術品を調査し、法隆寺・夢殿では数世紀も“絶対秘仏”とされていた等身大の聖徳太子像『救世観音像』の厨子の開扉をおこなった。その美しさに驚嘆したフェノロサは、翌年にキリスト教を捨て仏教徒となる(現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ)。

この当時、かつて天才絵師と讃えられた狩野芳崖は貧困のどん底で、陶器の下絵塗りで生計を立てていた。日本画の復興を決意したフェノロサは芳崖の自宅を訪ね「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい」、「あなたはもう一度筆をとるべきです。あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です」と力説した。

感動した芳崖は、死の4日前に『悲母観音』を完成させ、同作は後に国宝となった。フェノロサは長男を“カノー”と名付ける。
 
1897年、約20年にわたり日本美術保護に注いだ熱意が実を結ぶ。政府がこれまでのフェノロサの調査を元にして、文化財を「国宝」に指定し保護しようと“古社寺保存法”を制定したのだ。

1908年、ロンドンの国際美術会議に出席し、滞在中に心臓発作で急死する。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。

生前に「墓は法明院に」と願っており、翌年、遺骨が滋賀の三井寺・法明院に埋葬された。同院は彼を仏門に導いた和尚が住職を務め、今もフェノロサ愛用の地球儀、望遠鏡、蓄音機を大切に保存している。


フェノロサ
岡倉天心の墓。フェノロサの右腕となり、現・東京芸大の初代校長に就任。墓は豊島区の染井霊園。
墓の上は建立時から草で覆われている

※『月刊石材』2014年2月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

“俳聖”松尾芭蕉〜自然や人生の洞察を深く歌い込み俳句を文学に昇華

松尾芭蕉
生涯に詠んだ句は約900句。義仲寺はJR膳所(ぜぜ)の徒歩圏内。
境内には義仲を愛した最強女性武将・巴御前の墓も

創刊400号の記念回ということもあり、墓マイラーの大先輩かつ日本を代表する文化人である俳人・松尾芭蕉を取り上げたい。

芭蕉は1644年に伊賀国(三重県)で生まれ、18歳のときに文芸肌の藤堂藩士に料理人として仕え、俳諧の手ほどきを受ける。28歳で初の撰集を伊賀天満宮に奉納し、伊賀俳壇で実力を認められた。その後、江戸へ出て修業を積み、33歳で俳諧師の免許皆伝=宗匠となった。

当時の俳壇はユーモアの機知や華やかさを競う句ばかりが持てはやされていたが、芭蕉は静寂の中の自然の美や、魂の救済などを詠み込むことを目指した。街中の喧騒を離れて隅田川岸に草庵を結び、庭にバショウを一株植えたところ、見事な葉がつき評判になったため、号を“芭蕉”とする。

40歳、郷里に眠る母の墓参りをするため、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡り、紀行文『野ざらし紀行』をまとめた。母の遺髪が白髪だったことに胸を打たれこう詠んだ「手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜」(手に取れば秋の霜のように熱い涙で消えてしまいそうだ)。有名な「古池や蛙飛込む水の音」を詠んだのは42歳。

信州、神戸、高野山と旅に明け暮れ、風雅に興じる日々を重ねるも、旅がラクすぎることに疑問を持ち始める。訪問先では土地の弟子が待ち構え最大限のもてなしをしてくれた。

過去の偉大な詩人達は、こんなぬくぬくとした旅で詩心を育んだのではない。もっと自然と向き合い魂を晒す本当の旅をする必要があった。そして“ちぎれ雲が風に吹かれて漂う光景に惹かれて旅心を抑えきれず”“東北を旅したいという思いが心をかき乱し、何も手がつかない状態”となり、古典に詠まれた歌枕(名所)を訪れるため、弟子の曾良を供に江戸を発った。ときに1689年3月(45歳)。

福島、宮城、岩手、山形、北陸地方を巡って岐阜に至るという、行程約2,400キロ、7ヵ月間の大旅行となった。「道路に死なん、これ天の命なり」(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)と覚悟を誓っての旅立ちだった。この旅から俳諧紀行文『おくのほそ道』が生まれるが、芭蕉は練りに練って3年がかりで原稿をまとめ、2年をかけて清書を行ない、完成に5年を費やした。脱稿の約半年後に大阪で病没。享年50。

芭蕉は百人一首に名を遺す歌人・藤原実方の墓を探して笠島(宮城県名取市)に向かった。かつて西行法師が実方の墓前で歌を詠んでおり、何としても行きたかったが、大雨で道がぬかるみ体力の限界に達し、ついに墓参を断念。「笠島はいづこ五月のぬかり道」(嗚呼、笠島は一体どこなのだ……五月雨の泥んこ道でどうにもならず無念だ)。

墓マイラーとしてこの悔しさがよく分かる。金沢では現地で訃報を知った30代の愛弟子の墓に悲嘆を詠んでいる。「塚も動けわが泣く声は秋の風」(墓よ動いてくれ、この寂しき秋風は私の泣く声だ)。

芭蕉の亡骸は遺言に従って、弟子たちが滋賀大津・義仲寺に眠る源平時代の武将・木曽義仲の側に埋葬した。源義経でも頼朝でもなく、悪役として伝わる義仲。不器用にしか生きられなかった義仲を慕うところに芭蕉の優しさを感じた。


松尾芭蕉
墓は全国に8ヵ所以上あり、こちらは東大阪市の吉田墓地。
わが子も墓マイラーの道をまっしぐら(当時1歳11ヵ月)

※『月刊石材』2014年1月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

国民に夢を語った最年少の大統領〜ジョン・F・ケネディ

ジョン・F・ケネディ
左がケネディ、右がジャクリーン夫人。
後方の円形の石に炎が灯され、埋葬日から今日まで半世紀も燃え続けている

今年はケネディ大統領の没後50年。娘のキャロラインさんが新たな駐日大使として訪日したこともあり、ケネディ家が何度かニュースで紹介された。

ケネディは歴代最年少の43歳で大統領に就いた。銀行家の父を持ち、太平洋戦争では24歳で海軍に志願。魚雷艇の艇長として日本軍と戦うが駆逐艦・天霧に撃沈された。この際、負傷した部下をロープで繋いで近くの島まで6キロ泳ぎ、自らも6日後に救助されたことが報道され英雄となった。

戦後、29歳で下院議員に初当選。6年後に上院議員に選出され、39歳で副大統領候補の1人となった。
 
1960年、リベラル派として大統領選挙に名乗りをあげる。選挙期間中にキング牧師がアトランタで人種差別反対の座り込みデモで逮捕されると、直ぐさまキング夫人に励ましの電話をかけ、牧師を有罪にした判事に釈放を求めて2日後に牢から出した。この1件で黒人層にも支持者が増え、最終的に僅差でニクソンを破って大統領に当選する。

就任式でケネディは「国家があなたに何をしてくれるかをたずねるのではなく、あなたが国に対して何ができるかを自問してほしい」と情熱的な演説を行った。

翌年、ソ連がキューバに核を配備しようとした“キューバ危機”では、キューバへの爆撃を主張する国内のタカ派を抑えつつ、フルシチョフと交渉してソ連に核配備を撤回させることに成功した。

これを機に、ケネディは冷戦終結を呼びかけ、米ソにホットラインを設置。「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と訴えた。この言葉がソ連側を動かし、米英ソの部分的核実験停止条約が調印され、核軍縮への第一歩が実現する。

人種差別に反対していたケネディは、黒人を積極的に政府の幹部に任命し、司法省では黒人検事が10人から70人に増えた。企業には積極的に黒人を雇うよう働きかけ、白人のみを雇う求人活動を連邦雇用局に拒否するよう命じた。黒人学生の入学を認めない大学には、軍隊を出動させてでも受け入れさせた。

ケネディは暗殺の5ヵ月前、公共施設や学校での人種差別を廃止するため公民権法案を提案した。「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」。ケネディは「I Have a Dream」と演説を行ったキング牧師をホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と告げた。

暗殺の数日前には「ベトナムから軍を段階的に撤収させ、1965年末までに完全撤退させる」と発表。

1963年11月22日、遊説先のダラスでパレード中のケネディを凶弾が襲った。暗殺犯とされた容疑者は「身代わりにされた」と叫んでいたが、2日後にマフィア関係者に射殺され真相は闇に。

暗殺で最も利益を得たのは軍事産業。ジョンソン新大統領はベトナム戦争に突き進み、軍事産業は特需に沸いた。

ケネディの棺が首都に運ばれると、悲報を聞いた約25万人もの市民が弔問に訪れ、行列は40ブロック先にまで及んだ。人々は10時間も並んだという。

僕は巡礼時にアーリントン墓地の正門からケネディの墓前まで延々と続く人の波を見て、日本には墓地の入口から墓前まで巡礼者が続く首相がいるだろうかと思わず考え込んだ。


ジョン・F・ケネディ
南部ダラスにて撮影。この印の場所で凶弾に倒れた。後方のビルの6階から狙撃されたという

※『月刊石材』2013年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

西郷隆盛〜西南戦争に散った私学校生徒と眠る

西郷隆盛
重量感のある西郷の墓。周囲は桐野利秋(中村半次郎)など同志の墓がいっぱい。
若い戦死者も多く胸が詰まった

幼なじみの大久保利通、長州の木戸孝允らと共に維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛。通称吉之助、号は南洲。約180僉¬110圓箸いε時では規格外の巨体だが、その人生も波瀾万丈だった。

1828年に薩摩藩の下級藩士として生まれ、藩政改革の意見書が名君・島津斉彬の目にとまって重用されたが、25歳で結婚するも暮らしは貧しく、結婚2年目に妻の実家から“貧乏で娘が哀れ”と離縁させられた。31歳のときに大老・井伊直弼による反体制派の大粛清・安政の大獄が始まり、幕政に否定的だった西郷は追っ手が迫って行き場を失い、親友と海に身投げした。西郷は引き上げられたが、友は死亡。その後、奄美大島へ3年間流された。

赦されて藩に戻ったものの、実権を握っていた島津久光と考えが合わず再度流罪となり、知行や家財を没収され、奄美大島よりさらに遠い沖永良部島に流された。島の牢は風雨にさらされ、死ぬのを待つだけの流刑であった。

2年後に大久保の尽力で薩摩に戻ると、家老の小松帯刀と組んで倒幕運動を展開。坂本龍馬の仲介で長州と薩長同盟を締結する。最強の軍事力を持つ薩摩藩と、全藩きっての武闘派長州藩。戊辰戦争が始まると薩長軍は勝ち続けて江戸に入り、西郷は勝海舟と会談して、江戸城の無血開城を実現させた。

岩倉使節団の外遊中、留守政府を預かった西郷は、裁判所の設置、国立銀行開設、太陽暦の採用、人身売買禁止、学制発布と女学校の設立、キリスト教解禁、警察制度の整備、田畑売買の解禁、抽選による徴兵制、公園の制定、地租改正条例など、諸改革のほとんどを2年でやり遂げた。洋行組が帰国すると、外交方針を巡って意見が対立し、西郷は職を辞して帰郷する。

新政府は官僚の汚職が相次ぎ、腐敗構造を正す自浄能力がないと判断した西郷は、再革命の必要性を痛感。私学校を設立して生徒に武術を教え爐修瞭瓩鉾えた。

1877年、西郷のカリスマ性を恐れた新政府による暗殺計画が露見し、血気にはやる生徒たちが武装蜂起した。「おはんらがその気なら、オイ(自分)の身体は差し上げ申そう」。この西南戦争で西郷軍は大いに奮戦するが、政府軍の物量の前に追い詰められ、腰と足を撃たれた西郷は「もうここいらでよか」と同志に介錯を頼んだ。享年49。翌日の新聞は「賊軍の首領・西郷を成敗」と書きたてた。

西郷の墓所は鹿児島市の南洲墓地。墓参は鹿児島中央駅でレンタルできる電動アシスト自転車がチョ〜便利! 広い市内を快走し、西郷が散った城山など登り坂もドンドン行ける。墓地の長い階段を登ると足下に市内が一望でき、正面に桜島の堂々たる勇姿が見えた。

墓地には西郷の墓を中心にして、西南戦争で散った生徒たちの墓が四百基ほど立ち並ぶ。多くの墓に名前と生涯を記した立札があり、彼らが鹿児島の人々から愛されているのがよく伝わってきた。合掌。

※巡礼が桜島の噴火と重なり、コンタクトレンズに火山灰が入って何度も激痛。コンタクトの人、万一に備え絶対に眼鏡を持っていった方がいいです!


西郷隆盛
墓地から見える桜島。郷土を愛した彼らにとって、ここより素晴らしい場所は他にあるまい

※『月刊石材』2013年11月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ブルース・リー〜世界にカンフー・ブームを巻き起こし32年を疾走

ブルース・リー
左がブルース・リー。右の黒い墓は息子のブランドン・リー。湖に近い美しい墓地で墓参者が絶えない

「失敗することが罪ではなく、目標を低く掲げることが罪なのだ。大きな挑戦では、失敗さえも栄光となる」(ブルース・リー)。

2013年はブルース・リーの没後40年。海外で墓巡礼をしていると、日本人があまり訪れないような土地では、地元の子ども達から「ヘイ! ブルース・リー!」「アチョ〜」と声をかけられ、からかわれることがある。アジア人=ブルース・リーとインプットされているようだ。

ハイスピードで美しいカンフーの動きにより、一度見れば忘れられない強烈なインパクトを持つリー。1940年、舞台俳優の父が米国巡業中にサンフランシスコで生まれた。生後すぐに父と香港に戻り、子役として様々な映画に出演。10歳から芸名を“李 小龍”とした。

リーは辰年の辰の刻(午前8時)に生まれている。13歳で中国武術を習い始め、18歳のときに高校ボクシング大会において、3連覇中のチャンピオンをカンフー・スタイルによりわずか1RでKOした。また、ダンスが得意だったことから 同年にチャチャコンテストでも優勝している。その後、米国籍を取得するために渡米してシアトルの大学で哲学を学び、22歳で中国武術の道場を開いた。

人生の転機は26歳。リーが国際空手選手権大会で披露した演武を見たTVプロデューサーから連絡があり、人気ヒーロー・ドラマ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢されたのだ。これでアクション俳優として注目を集め、香港の映画会社と契約。

1971年(31歳)に初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開されると、香港の歴代興行記録を塗り替えるメガヒットとなり一躍トップスターとなった。続く『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』も前作を上回る観客動員を記録。『ドラゴンへの道』では製作・監督・脚本・主演の四役をこなす才能を発揮した。翌年にはアメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の話が舞い込み、リーの悲願であった全米スクリーン・デビューが確実となった。

何もかも順調に見えたその矢先に悲劇が起きる。『燃えよドラゴン』の撮影から3ヵ月後の1973年7月20日、頭痛を訴えたリーは昏睡状態に陥り、そのまま意識が戻ることなく絶命した。享年32。公式な死因は鎮痛剤による過剰反応が引き起こした脳浮腫。脳が肥大化し脳幹部が圧迫されたという。葬儀は香港とシアトルで行われた。

香港では数万人のファンが葬儀で死を悼み、シアトルの葬儀では道場の直弟子であるスティーブ・マックイーンやジェームズ・コバーンが参列した。死の翌月、『燃えよドラゴン』が公開され世界的ヒット作となり、後に生前の撮影分を編集した『死亡遊戯』が上映された。急逝から20年後、映画俳優となった息子ブランドンは『クロウ/飛翔伝説』の撮影中に、銃の発砲事故によって28歳の若さで他界。

悲運のリー親子は、シアトルのレイクビュー墓地に並んで埋葬されている。墓碑には「以無限為有限 以無法為有法」と刻まれ、2000年に僕が訪れた時は、カナダ人の若者が拓本をとっていた。また仏人女性も墓前でたたずんでいた。2度目の巡礼時は、タトゥーを入れた英国人5人組が墓参に訪れていた。

様々な国から巡礼者が集まるリーの墓。カリスマのオーラは消えることなく、死後も国際派スターであり続けている。つくづく、早逝が惜しい。


ブルース・リー
墓には写真が入っていた。存命なら今年で73歳。ジャッキーのように何十本も主演作が公開されていたに違いない

※『月刊石材』2013年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

手塚治虫〜生命の尊厳を描き続けたマンガの神様

手塚 治虫
墓参は線香代百円入用。墓域正面右側は『陽だまりの樹』で描かれた幕末の蘭方医、曾祖父・手塚良仙の墓

近年「クールジャパン(Cool Japan)」と呼称され海外に輸出されている日本のポップカルチャー。その筆頭格であるマンガ&アニメを日本に普及させた人物こそが手塚治虫。60年という、けっして長くはない生涯の間に700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した。手塚は「マンガは子どもが読むもの」という偏見を変え、冒険活劇だけでなく、心の闇を描いたサスペンス、文明批判や生命倫理をテーマにした作品なども数多く手がけた。

1928年に大阪で生まれ、青春時代を兵庫の宝塚で過ごす。幼い頃から趣味で漫画を描いていたが、中学時代に太平洋戦争が勃発し、軍人から「この非常時にマンガを描きやがって!」と暴行を受けた。17歳の時には大阪大空襲に遭遇し、降り注ぐ焼夷弾の中を逃げ惑い九死に一生を得る。

自伝的作品『紙の砦』では、終戦を知った青年主人公が「ウワーハハ! ぼくは生きてるぞ、生き延びたんだーっ! これからはマンガが描けるぞーっ!」と嬉し涙に泣き濡れている。マンガを描きたくても禁止されていた時代、いつ自分が死ぬか判らなかった時代、それらを体験したことが原動力となって、怒涛のように作品が生み出されていった。

終戦翌年に早くも新聞4コマ漫画でプロデビューし、19歳で戦後ストーリー漫画の原点となった『新宝島』を発表。同作は映画的手法を駆使したコマ割りや、スピーディな場面構成で「絵が動いている」と読者を驚嘆させてベストセラーとなり、藤子不二雄を始め、ちばてつや、中沢啓治、石ノ森章太郎、望月三起也、楳図かずおなど、多くの読者が漫画家を志すきっかけとなった。さいとう・たかを(『ゴルゴ13』)も「紙で映画が作れる!」と興奮したという。

宮崎駿いわく、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです」。 

続けて手塚は文化的に低く見られていたマンガの地位を向上させるべく、ゲーテ『ファウスト』、ドストエフスキー『罪と罰』、シェイクスピア『ベニスの商人』など、名作文学の漫画化に積極的に取り組んだ。一方、悲惨な戦争体験から生命の尊さを学んだ手塚は、阪大医学部に進んでおり、『鉄腕アトム』の連載開始と平行して医師の国家試験に合格している(25歳)。

1963年、日本初の連続TVアニメ『鉄腕アトム』の放送を実現させ、2年後にはこれまた日本初となる爛ラー瓩力続TVアニメ『ジャングル大帝』を制作。『リボンの騎士』『マグマ大使』『どろろ』『海のトリトン』『ブラックジャック』と、休みなく作品を発表し続けた手塚の歩みを止めたのは胃癌だった。

1989年2月9日、60年の人生を終える。他界前は昏睡状態から意識が戻る度に「鉛筆をくれ」と家族に頼み、最期の言葉も「頼むから仕事をさせてくれ」だった。

菩提寺の総禅寺は都電荒川線新庚申塚駅の徒歩圏内。墓石の傍らにはアトム、レオ、ブラック・ジャックなど氏が生んだキャラが描かれた墓誌が寄り添っている。


手塚治虫
墓誌に刻まれた、火の鳥、アトム、リボンの騎士、B・ジャック、手塚先生、ジャングル大帝、お茶の水博士、ヒゲオヤジ!

※『月刊石材』2013年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

南太平洋タヒチの絶海の島へ〜画家ゴーギャン巡礼

ゴーギャン
ポール・ゴーギャンの墓は見晴らしの良い丘にある。聞こえるのは鳥の声と海辺から風で運ばれてくる波の音

「これまでに誰の墓参が一番大変でしたか」という質問を受けることがある。交通の便や所要時間、金銭面を考えると、タヒチのヒバオア島に眠る画家ゴーギャンの墓参が5本の指に入ると思う。日本からタヒチに行くだけでも11時間(週2便)。

ゴーギャンが眠るマルケサス諸島のヒバオア島は、タヒチ本島から約1,500劼睨姪譴砲△蝓⊂さなプロペラ機で島々を経由しながら6時間半かけて飛ぶ。島には宿が4軒しかなく、食堂に至っては2軒のみ。観光案内所は狹敍が休み瓩箸いΔら、観光させる気はナッシングだ。それでも、人はこの地にやって来る。目的はひとつしかない。ゴーギャンの墓参りだ。

ゴーギャンは1848年にパリで生まれた。株式仲買人として成功し、御者付きの四輪馬車を持つ裕福な男だった……画家になるまでは。35歳で会社を辞め画家になったが、絵は全く売れず妻は5人の子を連れて実家に帰ってしまう。

ポスター貼りをしながら生活費を稼ぎ、建築場で連日12時間もツルハシをふるった。安宿に泊まり、独自の絵画表現を模索するなか、40歳の時に現実と幻想をひとつの画面に融合する斬新なスタイルを確立した。

だが、相変わらず世間からは無視。南仏でゴッホと共同生活するが、画風や芸術観の違いもあって次第に対立。心を病んだゴッホが耳切事件を起こし、9週間で破綻した。2年後にゴッホは自殺。全てに行き詰まったゴーギャンは、欧州を離れタヒチに渡った。

文明に犯されていない人々に原始の美を見出したゴーギャンは、彼らの姿をカンバスに刻んだ。描き溜めてパリへ帰ったが、2、3点しか売れず、新聞から酷評された。

「お子さんを喜ばせたかったらゴーギャンの展覧会へ連れて行くとよろしい。呼び物としては、猿のような原始人の女が緑色の玉突き台に寝そべっている絵もある」。

47歳、欧州に永遠の別れを告げてタヒチへ旅立つ。出発前に最後の展覧会を開いたが、入札者は格安の底値にも反応しなかった。友人が励まそうと夕食に連れて行くと、ゴーギャンは“子どものように泣いた”という。

2年ぶりのタヒチは土地開発が進み楽園は消えていた。さらに追い打ちをかけたのが最愛の娘の死。ゴーギャンは自殺を決意しヒ素をあおったが身体が吐き出した。その後、「もっと未開の地へ」と絶海に浮かぶヒバオア島に旅立つ。「私の芸術が人を驚かす奇抜なものであるのは、私の中の野性がそうさせたのだ。だからこそ、誰も私を模倣することが出来ないのだ」。

1903年、心臓発作で他界。享年54歳。誰にも看取られず自分の小屋で息絶え、原住民が亡骸を発見した。島の司祭は本国にこう知らせた「卑しむべき人物ゴーギャンが急死した。彼は評判の高い画家であったが、神と品位ある人々すべての敵だった」。

ゴーギャンの墓前からは美しい稜線を描く山や、白波が寄せる海岸が見える。素晴らしい景観の墓地。僕が泊まった宿は嬉しいことに墓地のすぐそば。滞在中、彼に会いたくなったら何度でも会いに行けた。帰国便はストライキで欠航。日本とは逆方向の米国に飛び26時間かけて帰国。過酷だったけど、ゴーギャンがなぜ島を愛したのか、陽気な島民と交流して分かった気がする。


ゴーギャン
墓地から海が見える。島の人口は約1800人。ゴーギャンの住居(アトリエ)が復元され見学可能!

※『月刊石材』2013年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ユダヤ人6000人の生命を救った!“日本のシンドラー”杉原千畝

杉原千畝
外交官としての栄達より目の前の人命を優先。
“命のビザ”で生き残った難民たちの子孫は25万人に達する。墓所は29区5側

「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」(杉原に助けられたユダヤ女性)

戦後、半世紀を経て偉業が明らかになった外交官・杉原千畝は1900年に岐阜で生まれた。苦学して語学力を磨き、24歳で外務省に採用され、満州や北欧で勤務した後、39歳からリトアニアの首都カウナスの領事館に赴任した。

この頃、ナチスはユダヤ人迫害を激化させており、1940年にはアウシュヴィッツ強制収容所が完成していた。西方からナチスが迫り、リトアニアのユダヤ人はシベリア鉄道で極東に向かうルートしか残されていなかった。

杉原手記
「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」
「ヨレヨレの服装をした老若男女、いろいろの人相の人々が、ザッと百人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」

ユダヤ人難民の切迫した状況をすぐに理解した杉原は、外務省へ「通過ビザを出してもよいか」と電報を打ったが、返電は「行先国の入国手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみ発給せよ」という非現実的なものだった。外務省はユダヤ人保護によって同盟国ドイツが気を悪くすることを恐れたのである。

杉原は「人道上、どうしても拒否できない」と、命令違反の処罰を覚悟した上で日本通過ビザを大量発給し始めた。本省から独断行為を非難する電信が入っても、約1ヵ月半の間、万年筆が折れるほど多量のビザを手書きし、腕は筋肉痛で腫れ上がった。杉原の命令違反は「カウナス事件」という名前で、東京の陸軍中央まで伝えられていた。 

領事館退去、ベルリンへの異動命令が通達されると、領事館を閉鎖してホテルに移り、なおも仮通行書を発行した。カウナス駅からベルリンに旅立つ際も、車窓から手渡しされたビザを書き続けた。汽車が動き出すと杉原は頭を下げ、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と謝った。ホームからは「私たちはあなたを忘れません!」と叫び声があがり、人々は泣きながら列車と並び走った。

杉原が発行したビザの枚数は、記録が残るものだけで「2,139枚」にのぼる。ビザは1家族につき、1枚で良かったことから、家族の人数を考慮すると約6,000人の国外脱出を助けたと考えられている。リトアニアのユダヤ人20万8,000人のうち、9割以上の19万5,000人が殺害された。

帰国した杉原を待っていたのは、独断行為を咎めた事実上の解雇通知だった。杉原の死後、人生が映画化されるなどして日本政府が公式に謝罪し名誉回復を行ったのは2000年。他界から14年が経っていた。

墓所は鎌倉霊園。命令違反した杉原を“国賊”と呼ぶ人が墓を荒らさぬよう、夫人が近年まで非公開にしていた。
 
「私のしたことは、外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」


杉原千畝
鎌倉霊園は川端康成、山本周五郎、萬屋錦之介、秋山真之、多くの著名人が眠っているウルトラ巨大霊園

※『月刊石材』2013年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

命がけで真理を訴えた天文学の父〜ガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレイ
フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に眠るガリレオ。墓上の半身像は右手に望遠鏡を持つ

ガリレオの墓参をするために、フィレンツェ駅からサンタ・クローチェ聖堂に向かう時、自然に足早になっていく。彼は学問を迫害する権威への抵抗の象徴だ。科学研究の自由を守るため命がけで戦う勇気を持っていた。そこに痺れるし、憧れる。

ガリレオは1564年にピサで生まれた。少年時代から科学好きでピサ大学に入学し、18歳のある夕刻、大聖堂のランプが揺れるのを見ているうちに、揺れが大きくても小さくても往復する時間が同じであること、振り子の速度はロープの長さによって決まることを発見。学資不足のために退学した後、家庭教師をやりながら書き上げた科学論文が評価され大学教授となる。当時は「物体の落下速度は重さに比例する」と信じられていたが、ガリレオは大小の球の落下実験によって「軽くても重くても落下速度は同じ」と証明した。

この時代、教会の権力は絶大で、教会組織の腐敗を批判する者やカトリックの教えに反する言動を行った者は“異端者”として火あぶりにされた。36歳の時には、地球の自転を主張した哲学者ブルーノが火刑となっている。そのような状況下で望遠鏡が発明され、ガリレオは天体望遠鏡を自作し、人類で初めて宇宙を望遠鏡で観測した。そして木星に複数の月があること、天の川が星の集団であること、月にはクレーターがあることを発見し、著書『星界の報告』で発表した。

木星の周囲を月が回っているのを見たガリレオは、天動説への疑念を深める。続けて金星が大きさを変え、距離が変化していることにも気づいた。さらに太陽の黒点を発見し、黒点の移動から太陽の自転を知った。

これらの観測結果から地動説の正しさに確信を持つが、52歳で異端審問所審査にかけられ、「地動説について口頭でも文書でも議論してはならない」とローマ教皇庁から命令を受けた。狠脇粟發録人ではない瓩叛訐製颪鮟颪された際に、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。

16年後(68歳)、天動説と地動説を両論併記した『天文対話』を刊行。ガリレオは再び異端審問所に呼ばれ、翌年に「終身禁固刑」が言い渡される。後に監視付きの軟禁に減刑されたものの、死ぬまで謹慎は続いた。

著作の発禁、最愛の長女の病死、両眼の失明など試練が続くが、地動説という真理への情熱は消えず、コペルニクスを支持する『新科学対話』を口頭筆記で書かせ、原稿を軟禁中の家からプロテスタント国・オランダの出版業者に密輸し刊行に漕ぎ着けた。

その4年後に77歳で他界。罪人として死後100年間も墓を作ることが許されず、ヴァチカンが有罪判決を誤りと認め破門を解いたのは、実に死後350年も経った1992年のことだった。

世間で“常識”とされるものに異論を唱えるのは、狂人扱いされるリスクに対する覚悟がいる。中世の場合、火刑に処される可能性もあった。惑星の楕円軌道を発見したケプラーの母親は魔女裁判にかけられている。それにもかかわらず信念を曲げなかったガリレオに心から敬意を表したい。

墓所のサンタ・クローチェ聖堂は、マキャベリ、ロッシーニなど著名人が眠っている。ガリレオはあのミケランジェロの墓と向き合っており、墓マイラーにとって実に濃密な空間だ。


ガリレオ・ガリレイ
若きガリレオが振り子の法則に気づいたピサの大聖堂。後方は有名な斜塔

※『月刊石材』2013年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

圧巻の行動力!〜十八ヵ国語を操った博物学者・南方熊楠

南方熊楠
「南方熊楠墓」。学者としての墓誌もなくシンプル。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(熊楠)

柳田国男が「日本人の可能性の極限」と驚嘆した男、南方熊楠。博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、別名「歩く百科事典」。

熊楠は幕末の1867年に和歌山で生まれた。父は金物商。子どもの頃から好奇心旺盛で、中学入学後に町内の蔵書家を訪ね、全150冊の百科事典を5年がかりで“全冊図入り”で写本した。コピー機などない時代であり、内容を記憶し、帰宅後に筆写という作業を延々繰り返した。

17歳で大学予備門(現・東大)に入学。同期には夏目漱石や正岡子規、幸田露伴がいた。地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものばかりだ!」と興奮し、大学そっちのけで通いつめて落第。自主退学し、弱冠19歳で学問の先進国アメリカに単独渡航する。ミシガン州の農学校に入るも、泥酔して寄宿舎の廊下で寝ているところを校長に見つかり放校処分に。以降独学し、植物採集などフィールドワークに汗を流す。

24歳、「フロリダは新種の植物の宝庫」という噂を聞き、研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道で向かった。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になって採集にいそしみ、後にキューバへ渡った。そこで公演中のサーカス団に日本人を見つけて意気投合し、一座に加わって象使いの助手をしながら3ヵ月ほど中南米を巡業、各地で植物採集を続けた。標本データが充実すると、植物研究が盛んな英国に渡ることを決意。

ロンドン到着後、初めての論文「極東の星座」が天文学会の懸賞論文でいきなり1位入選し、科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。「ミナカタ」の名が学界で話題になり、その後51回も論文が紹介される。連日のように大英博物館へ足を運び、筆写ノート『ロンドン抜書』は52冊に及んだ。

大英博物館の図書部長は18ヵ国語を操る熊楠の博識に圧倒され、同館の東洋調査部員に抜擢したが、館内で人種差別をした英国人を殴打するなどして博物館を追放され、14年ぶりに日本へ帰国する。ときに33歳(熊楠が英国を発った翌月に日本の国費留学生第1号、夏目漱石が到着している)。

帰国後、故郷で粘菌研究に没頭し、世界的な粘菌学者として認知されていく。一方、生態系保護の立場から乱開発に反対し、“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、国内の環境保護活動の祖となった。

晩年、昭和天皇に生物の御前講義を行なった際、熊楠は粘菌標本を桐の箱ではなく森永ミルクキャラメルの空箱に入れて献上し、現場の関係者全員を驚愕させた。享年74。訃報を聞いた天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。

墓は和歌山県田辺市の高山寺。墓域には昭和天皇が熊楠他界20年後に詠んだ「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」の歌碑(木札)が建つ。


南方熊楠
日本最初のエコロジスト、熊楠の旧宅。画像は書斎。熊楠ファンが次々と訪れている(田辺市)

※『月刊石材』2013年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

“三重苦”を乗り越えて人々の希望に〜ヘレン・ケラー&サリバン

ヘレン・ケラー
2人の遺灰が納められたことを示すプレート型の墓碑。
点字の部分だけ色が違う。どれほど多くの人がここに来たのだろう!

「不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたに出来ることがあるということを」。

言葉は誰がそれを言ったかで何倍にも光り輝く。三重苦を克服したヘレン・ケラーの伝記に先の言葉を見つけたとき、どれほど勇気づけられたか。

ヘレンは1歳9ヵ月のときに高熱で視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は教育方法に悩み、7歳になったヘレンに家庭教師をつける。20歳のアン・サリバンがケラー家にやって来た日を、「それは私の魂の誕生日だった」とヘレンは回想する。

2人が出会って33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄り、ヘレンの手に水を注ぎながら「w‐a‐t‐e‐r」と指文字を何度も綴った。突如としてヘレンの中で言葉と物が結びつき、すべての物に名前があることに気づいた。沈黙の暗闇に光が差し、ヘレンはサリバンの方を向いて名前を聞く。綴られたのは「t‐e‐a‐c‐h‐e‐r」。夕方には「give」「go」「baby」など30もの単語を覚えていた。
 
「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、このとき初めて“早く明日になればいい”と思いました」。
 
翌月に点字の本を読めるようになり、2ヵ月後には簡単な手紙を書けるようになっていた。ヘレンが非常に高い知性を持っていたことが明らかになり、それまで聾唖者の知的発達を疑っていた人々はみな驚いた。名門ラドクリフ女子大に入学すると、サリバンはヘレンと同じ寮に住んで全授業に出席し、目となり耳となって講義内容を手の平に伝えた。ヘレンは“優等”で卒業し、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語を身に付けた。

社会問題に関心を持ち、婦人参政権運動のデモに参加したり、一次大戦に際しては平和主義の立場から「私の祖国は世界です。それゆえ、どんな戦争も私にとっては同胞を争わせる非常に嫌悪すべきものなのです」とスピーチしている。

ヘレンの発案で米国盲人援護協会が創設され、3年間に250回も集会を開き、25万人に盲人支援を訴えた。ヘレンはまた、それまで欧州式、米国式など五種類に分かれて不便だった点字を統合すべく運動し、現在使用されている6点式の点字を国際標準化することに成功した。

60歳後半から始めた海外講演は5大陸35ヵ国にのぼり、訪日の際は奈良の大仏を自由に触ることを許された最初の女性となった。ヘレンは根っからの楽天主義で様々な壁を乗り越えていき、アインシュタインは彼女の個性を開花させたサリバンを絶賛した( “奇跡の人”とはサリバンのこと)。

ヘレンの墓は米国の首都ワシントンDCの大聖堂にあり、地下礼拝堂の一角に恩師と一緒に眠っている。2人の名前が刻まれたプレートは、点字の部分が指でなぞられ輝いていた。指を触れると墓を訪れた無数の人々と繋がった気がした。

「幸せの1つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし、私たちは閉じた扉ばかり見ているために、せっかく開かれた扉が目に入らないことが多いのです」。


ヘレン・ケラー
墓所のワシントン大聖堂。なんとステンドグラスに月の石が埋め込まれている!

※『月刊石材』2013年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

演技も生き方も破天荒!〜スター俳優、勝 新太郎

勝 新太郎
墓所は港区蓮乗寺。田町駅からすぐ。墓石正面に「宝篋印塔」、側面に本名の「奥村」。若山富三郎も同墓に

2012年度の日本映画の興行収入は、過去最高となる1280億円に達した。テレビの登場で一時期は観客動員が激減した映画界だが、今や完全復活を遂げたと言ってよく、鬼籍に入った日本の大スターたちも喜んでいるだろう。

様々な個性派俳優が活躍した昭和の銀幕でも、抜きん出て強い存在感を放っていたのが勝新太郎(本名・奥村利夫)。1931年に東京で生まれ、兄の若山富三郎とは2歳差。当初は長唄を生業にしていたが、日本舞踊家の米国公演に三味線弾きとして参加した際、役者が1等船室で、自分たちが船倉という待遇差に愕然とし、ジェームズ・ディーンの影響もあって役者への転身を決めた。

帰国後、大映に入り『花の白虎隊』で同じ年齢の市川雷蔵とデビュー。しかし、二枚目役ではなかなか人気が出ず、雷蔵は映画1本のギャラが30万円であったのに、勝は3万円だった。芸風を広げる必要性を痛感し、29歳で座頭市の原型『不知火検校』で極悪非道の鍼医者という汚れ役に挑戦。その後、『悪名』『座頭市』『兵隊やくざ』という3本の大ヒット・シリーズで花形スターとなり、雷蔵と共に大映の「2枚看板」となる。後に勝プロをおこし独立。

プライベートでは中村玉緒と結婚し、「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と語った。飾り気のない性格で、黒澤監督と大喧嘩して『影武者』の主役を降板したことも。また、某有名寿司店でVIP待遇を受けている際に、一見の客が軽く扱われた様子を見るや否や、「映画はどんなお客さんでも平等に楽しんでもらえるもんです」「あたしだけ特別扱いされては勝新太郎の名に汚れがつく」と100万円ほどの札束を置いて、「もっとうまい寿司をごちそうさせて頂きやす」とその客を連れ出したという。

後年、大麻不法所持で逮捕されたが、公判で「(麻薬は)飛行機の中でもらったもんです」「機内で麻薬を手渡したのは神様かもしれない」と、トボケて検察側を絶句させた。
 
1997年、咽頭癌により他界。享年65。同年は、3月に中村錦之助が、6月に勝が、12月に三船敏郎が他界するという、日本映画界にとって激動の年となった。葬儀は築地本願寺で行われ、1万1,000人もの人々が参列した。

僕が蓮乗寺に初巡礼した時は、道に迷っているうちに日が暮れてしまい、周囲のビルの明かりを頼りに墓を探した。なかなか発見できずに涙目になっていたところ、懐中電灯を持って見回りに来たお寺の人(おそらく住職の奥様と母上)が仰天。

「私ら寺の者でも夜は怖いのに、おたく平気なんですか!?」
「僕は勝新さんのファンで、お墓を探しています」
「だけど暗くて見えないでしょう?」
 
僕は怪しまれてはいけないと焦りまくり、「座頭市さんと同じで、心の目で見ていました」と支離滅裂な返答。お2人がドン引きせずに案内して下さったおかげで、無事に墓前へたどり着けた(有難うございました!)。


勝 新太郎
ライバルだった市川雷蔵は本名の太田名で東京・池上本門寺に眠る。享年37

※『月刊石材』2013年3月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

夭折の画家モディリアニとジャンヌ〜2人は同じお墓に

ディリアニ
二人が眠る墓。とても質素で形に特徴がなく何時間も探した。近くにはエディット・ピアフの墓がある

偉大な先人たちの墓巡礼をしているとき、男女が仲良くひとつの墓に眠っていると、ほっこりした穏やかな気持ちになる。でも、それは天寿をまっとうした場合。若い2人だと胸が詰まり、すぐに言葉が出て来ない。短命の画家モディリアニと恋人ジャンヌは、まさにそのような墓だった。

モディリアニは、1884年にイタリアで生まれた。病弱で10代前半に学業を断念。母は子にデッサンの才能を見出し、画塾に通わせた。22歳の時に画家として勝負するためパリに出る。

活動の拠点とした安アパート“洗濯船”には、ピカソ、ジャン・コクトー、詩人アポリネールなど前衛芸術家が集まり、モディリアニは大いに刺激を受けた。ボヘミアン的生活に憧れ、酒場や娼館に入り浸っていく。

自分の画風を模索していた時に、物体の形を表現する魅力に取り憑かれ、彫刻の世界に没入していった。
貧しさゆえ、彫刻用の石は路面から剥がしたり、夜間に建築現場から手に入れた。だが彫刻の粉塵が持病の肺結核を悪化させたことから、彫刻家への道を断念せざるを得なくなる。

失意に沈むモディリアニに、友人たちがもう一度絵筆を握ることを勧めた。彼はカンバスの上で人物像を彫るように輪郭線を引いた。そして卵形の顔、長い首、瞳のないアーモンド型の目、細長いプロポーションの人物画という、独自の作風を確立した。

1917年、美術学校で19歳の女学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合う。ジャンヌは内気で物静かだったが、彼を熱愛して家族の反対を押し切って同棲した。以降、他界するまで彼女をモデルに多数の肖像画を描く。初めての個展は警察が裸婦画を猥褻物と判断して介入し、初日に打ち切られた。

貧困と薬物依存、そして肺結核の咳を抑えるための大量飲酒という荒廃した生活が続き、帰らぬモディリアニを身重のジャンヌが一晩中パリを探し回ることもあった。

ロンドンの画廊で、展覧会の最高値1000フランがついたが、既にモディリアニの肉体はボロボロだった。1920年1月24日、結核性脳膜炎で夭折。享年35歳。悲しみで錯乱するジャンヌを両親が心配して実家へ連れ帰ったが、翌朝5時に妊娠9ヵ月の子を宿したまま、アパートの5階から飛び降りた。まだ21歳という若さだった。

墓はパリのペール・ラシェーズ墓地。ジャンヌの墓碑銘は「究極の自己犠牲をも辞さぬほどに献身的な伴侶であった」、モディリアニの墓碑銘は「彼は成功の暁に世を去った」。

生涯に描いた肖像画は350点。特徴的なモディリアニの作品を、他の画家と間違えることはない。この“唯一無二”という屹立した個性こそ芸術家にとって最重要であり、それを確立したという意味でも墓碑銘の“成功”は間違っていない。

モディリアニがジャンヌの肖像画を大量に描いたので、僕らはいろんな美術館で彼女に会える。彼女は20歳前後のまま、ずっと生き続けているような錯覚さえ感じる。


ディリアニ
墓石の上に地下鉄の切符が無数にあった。「これを使って会いにきて」という意味らしい。パリの墓でよく見かける

※『月刊石材』2013年2月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

世界一有名な日本人〜天才絵師・葛飾北斎

葛飾北斎
「画狂老人卍墓」とだけあり″北斎瓩量召呂匹海砲發覆ぁI化が進んでおり墓参を急がれたし!

昨今はノーベル賞やスポーツ、映画界などで日本人の活躍が頻繁に伝えられ、胸躍ることが多い。歴史的に世界で最も有名な日本人は誰か。

1998年に米誌『ライフ』が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に、日本人では江戸の浮世絵師・葛飾北斎だけが選出された。北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに傑作を残し、ゴッホやモネ、ルノワールらも夢中になった。

18歳で人気浮世絵師・勝川春章に入門したが、向学心から狩野派の画法や洋画なども隠れて学び、師から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門された。貧困の中で灯籠やうちわの絵を描き、トウガラシや暦を背負って行商しながら、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と筆を走らせた。やがて、当時の絵師にとって人物の背景に過ぎなかった“風景”を、あえて主役にするという革命を起こす。

70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』では、あらゆる角度から霊峰・富士を描き切った。構図は練りに練られ、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。作中には庶民の生活も丁寧に描かれ、江戸っ子は富士とのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。

4年後に完成した『富嶽百景』では、あとがきにこう寄せた。

「73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。(略)百歳になれば思い通りに描けるだろうし、百十歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。(皆さん)どうぞ長生きされて、私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたい」

北斎は長寿であったため、様々な逸話が伝わる。縁日の余興で120畳(200平米)の布にダルマを描いたかと思えば、小さな米一粒に雀二羽を描いて人々を驚かせた。11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったことも。改名は30回に及んだが、それは“無名の新人のふり”をして真の実力を世に問うためだった。

晩年の北斎は、先妻、後妻、長女に先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳で火災にあい、10代から70年も描き溜めてきたすべての写生帳を失ったが、1本の絵筆を握り締め「だが、わしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語った。1849年、浅草の長屋で病没。享年88。

死を前にした言葉は「せめてもう10年、あと5年でもいい、生きることができたら、本当の絵を描くことができるのだが」。

墓は上野から浅草に続く大通の筋裏、誓教寺にある。墓石は小さなお堂の中にあり雨風から守られていた。刻まれた名前は晩年の画号「画狂老人卍墓」。“画に狂った老人”という名に凄味を感じると同時に、己の信じた道を歩みきった男の姿に勇気をもらえる墓だ。

葛飾北斎
誓教寺境内の北斎像。寺の入口には英文の案内板があった。海外からの巡礼者も多いのだろう

※『月刊石材』2013年1月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ドイツの古都に並ぶ友情の墓 〜ゲーテ

ゲーテ
向かって左側がゲーテ、右隣がシラー。霊廟では石棺に入っていることが多く、木棺そのままというのは珍しい

「科学と芸術は全世界に属する。それらの前には国境など消え失せてしまう」。

愛をもって自然や人間を深く観察し、人生のどんな悲しみや苦痛も、美しい作品へ転化させたゲーテ。彼は23歳の時、舞踏会で出会った16歳の少女ロッテを熱烈に愛した。だが、彼女は友人の婚約者であることを知り、ゲーテは苦悩の果てにその土地を去る。その後も想いを断ち切れず、ロッテの結婚式が迫るとベッドで短剣を胸に当てるようなことをしていた。

そんな折、親友が人妻への片想いに悲嘆してピストル自殺してしまう。多感なゲーテは打ちのめされ、精神的危機を乗り越えるために自らが体験した悲恋を小説に昇華させ、2年後に『若きウェルテルの悩み』を出版した。

ウェルテルは善良で明るい青年だったが、婚約者のいる女性を愛したことから精神が崩壊し、銃口を自らに向ける。悲劇的な結末であったが当時の若者から熱狂的に支持され、国境を越えてヨーロッパ最大のベストセラーとなった。青い燕尾服と黄色のチョッキというウェルテルの服装でピストル自殺する若者が続出し、各地で発禁処分になったほどだ。

ゲーテいわく「この小説を若いときに読んで、これは自分のために書かれたのだと感じたことがないような人は不幸だ」。

20代後半からゲーテの興味は文学から科学へ移り、長らく創作活動から遠ざかっていたが、45歳の時に10歳年下の劇作家シラーから「あなたの本領は詩の世界にある」と説得され、創作意欲が再び燃え上がった。両者は互いに励まし合い名作を世に送ったが、シラーは肺病に冒され40代半ばで他界する。訃報を聞いたゲーテは「自分の存在の半分を失った」と倒れ込んだ。

それから四半世紀後、死の前年に『ファウスト』が完成し、「シラーと出会っていなかったら完成していなかった」と亡き友に感謝した。享年82。

僕が初めてワイマール(旧東独領)で墓を訪れたのは1989年の夏。ベルリンの壁が崩壊する直前で、国営旅行社で行き先の宿を手配しないと鉄道の切符も買えないという不自由さだった。霊廟の地下へ降りると、ゲーテとシラーの墓が並んでいた。

“墓”といっても木棺そのままの状態。驚くと共に故人の存在を強く感じ、エールを送り合った2人が並ぶ光景に胸が熱くなった。ゲーテの言葉「空気と光と、そして友達。これだけが残っていれば、気を落とすことはない」を思い出した。

この時の巡礼は南仏で荷物をすべて盗まれ写真が残っていない。まだネットのない時代、墓写真は僕にとって憧れのヒーローの生ブロマイドだ。どうしても写真が欲しくて1994年に再び墓所を訪れ愕然とした。霊廟保存工事の為、まさかの臨時閉館! 日本からどんなに遠いか分かっているのかドイツ政府よ…。

2005年、墓前にて彼らに感謝の言葉を伝えた後、3度目の正直でついに夢に見たブロマイドをこの手に…感無量!


ゲーテ
ワイマール国民劇場の前に建つ、ゲーテとシラーの像。ゲーテは友の肩にそっと手を置いている

※『月刊石材』2012年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

夏目漱石 〜文豪は“安楽椅子”でくつろでいた

夏目漱石
漱石の墓は安楽椅子の形。雑司ヶ谷霊園でも一際目立つ、唯一無二の造型だ

大阪在住の僕が上京の際によく訪れる墓地は、都心で交通の便が良い雑司ヶ谷霊園、青山霊園、谷中霊園だ。中でも雑司ヶ谷は夏目漱石の他、小泉八雲、永井荷風、泉鏡花など文人が多く眠っており好んで墓参している。

漱石の本名は夏目金之助。1867年、幕末生まれ。高校の英語教師をしていた33歳の時に、国の命令で英国へ留学生として派遣される。ロンドンでは孤独感から神経衰弱が悪化し部屋に閉じこもった。やがて、文部省に「夏目金之助発狂す」と報が入り、留学は2年強で終了。

「この世に生れた以上、何かしなければならん。といって何をしてよいか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ちすくんでしまった」(漱石)。

帰国後、教壇に立ちながら悩む漱石に、友人の高浜虚子が「沈うつな思いをありのまま吐き出せば気晴らしになる」と小説の執筆を薦めた。

1905年、漱石は教師の日常を猫の目を通して書いた『吾輩は猫である』を発表し、好評を博す。

翌々年、人生の転機が訪れた。新聞社から専属作家の契約依頼がきたのだ。5人の子どもを抱えていた40歳の漱石は即答できなかった。既に東大に教授のポストが用意されていたからだ。名誉ある東大教授の職は、高収入で安定している。一方、作家は明日の保証すらない仕事。漱石は1ヵ月悩んだあげく、東大総長宛に辞職願いを提出した。この時の心境を彼は日記に残している。

「大学では4年間講義をした。食えなければ、いつまでも(職に)かじり付き、しがみ付き、死んでも離れないつもりであった。しかし近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである」。

作家業に専念した漱石は、『三四郎』『それから』『門』と立て続けに名作を生み出したが、43歳の時に胃潰瘍が原因で修善寺温泉にて大吐血、生死の境をさ迷う。一命を取り留めた後、より精神世界に深く切り込んだ『行人』『こころ』を書き、最後の長編『明暗』のクライマックス直前に病没した。「胸に水をぶっかけてくれ!死ぬと困るんだ!」と死の床で訴えたという。

漱石に墓参する際は管理事務所で地図をもらおう。漱石の弟子・芥川龍之介が墓参にきて自力で辿り着けなかったほど霊園は広い。特徴的な墓石は、一周忌の折に「西洋の墓でも日本の墓でもない、安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへよう」(鏡子夫人)という話になり、建築士の妹婿が設計したという。

現在、漱石が晩年を過ごした漱石山房は漱石公園(新宿区早稲田南町)として整備されている。公園内の『猫塚』は夏目家のペット(犬、猫、小鳥)の合同供養塔だ。

人間のドロドロのエゴをあぶり出しつつ、根底はヒューマニズムを貫いた漱石。あの世があるならば、僕は他界後すぐに漱石先生に会いに行き『明暗』の結末を聞くつもりだ。

夏目漱石
漱石公園の猫塚は“吾輩”の猫の13回忌に建立。戦災で倒壊し漱石37回目の命日に再建された

※『月刊石材』2012年11月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 〜ジャン=フランソワ・ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー
白い十字架が立つミレーの墓(右側)。左の“岩墓”は盟友ルソーのものだ

「人間には分からないが、森の樹木たちは互いに何かを会話している」(ミレー)。

日本は科学技術立国である一方、同時に農業国でもあり、農民画家ミレーが大人気だ。岩波書店は戦前から『種蒔く人』をシンボルマークに選んでいる。だが、その人生が貧困との戦いだったことはあまり知られていない。

ミレーは1814年、ノルマンディーの寒村に農家の長男として生まれた。父に画才を認められて19歳から画塾に通う。父の死後、農家を継ごうとしたが、祖母が画家の道を歩むよう説得し、パリに出て修業を続けた。

26歳で作品が初めてサロン(官展)に入選。この成功は故郷でも評判になり、妻を迎えて未来に期待を膨らませたが、その後は3年連続で落選し、妻も肺結核で先立つ。翌年再婚し、パン代を稼ぐため自らが軽蔑していた裸婦画を何枚も描き続ける。新しいカンバスを買うお金さえ底をつき、前年の落選作品の上に描いた宗教画が7年ぶりにサロンに入選した。

1848年、2月革命が勃発したこの年、ミレーに転機が訪れる。街頭に飾られていた自分の絵を、パリ市民が「ミレーは女の裸を描くしか能の無いくだらない画家だ」と噂していたのだ。

衝撃を受けたミレーは、妻に「もう裸体画はやめだ。もっと貧しくなるだろうが、僕は農民たちと生活しながら自分自身の芸術を生み出す」と宣言。妻もミレーの画業を支えた。移住したバルビゾン村はフォンテーヌブローの森に接しており、村民の3割瓩画家という芸術家村。ミレーは午前中に畑を耕し、その後に絵筆を握った。

そして1850年(36歳)、農民を主役にした記念すべき作品『種蒔く人』が誕生する。当時は働く農民を中心にした絵を誰も描いていなかった。『種蒔く人』の表情がぼやけているのは、特定の人を描くのではなく、大地で働くすべての人に当てはまるように描いたからだ。農家の息子にとって畑仕事は聖なる労働だ。

だが、農民画は売れなかった。都会の人々は「美しい風景」が描かれた田舎の絵を求めており、農作業の辛さを描いたリアルな農民画は狄謬そい瓩鳩姫鵑気譴拭M眷、祖母が死去したが交通費がなく葬儀に立ち会えなかった。

40代後半になってようやく『落穂拾い』『晩鐘』などが評価され始め、やがて政府から装飾画の注文を受けたが、その頃は病魔に犯されており、1875年、家族に見守られながら生涯を閉じた。享年60。

ミレーの墓があるバルビゾンは路線バスがないためタクシーを使うことになる。狠かと割り勘で行けないか瓩塙佑┘優奪箸埜討咾けたところ、パリ留学中の学生さんが応えてくれ、2人で墓参を敢行した。

ミレーの墓は親友の画家T・ルソーと並んでいて感動的だ。ミレーの貧困時代、2歳年上のルソーは名前を変えてミレーの絵をこっそり買うことで、ミレーのプライドを傷つけぬよう援助していた。一方、ルソーは猴鄙王瓩琉枳召鮖つほどサロンで落ち続け、ルソー没後はミレーがルソー家の面倒をみてあげていた。

友人同士の墓が並んでいるのを見るのは墓巡礼で胸が熱くなる瞬間だ。

ジャン=フランソワ・ミレー
大切に保存されているバルビゾン村のミレーの家。愛用のパレットが絵の具を乗せたまま展示されている

※『月刊石材』2012年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

黒澤明 〜銀幕を通して世界との架け橋に

黒澤明
黒澤家の墓。鎌倉は小津安二郎、木下恵介、田中絹代、笠智衆など映画人の墓が多い

かつて、井上ひさし氏が「オーストラリアに滞在していた時に、現地で黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」と語っていた。外交問題で感情的な言葉が飛び交う昨今、芸術は国境を越えて心の共有という素晴らしい体験をもたらす人類の宝であり、本当に大切にしたいもの。

“世界のクロサワ”は明治末期の1910年に東京で生まれた。当初は画家を志し、美術学校を受験するが不合格。アルバイトをしながら絵筆を握り続け、無名の画家として悶々としていた。

26歳の時、新聞の「助監督募集」という広告が人生を変える。競争率百倍の狭き門を突破して現東宝に入社し、7年後に『姿三四郎』で監督デビューを果たす。映画は大ヒットし、以降、55歳で発表した『赤ひげ』まで毎年のように作品を撮り続けた。

黒澤は他の映画のオーディションに落ちたデビュー1年目の三船敏郎を大抜擢し、観客はその圧倒的な存在感に度肝を抜かれた。「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」。

ヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)に輝いた『羅生門』(1950)では、雨の土砂降り感を出すために、墨汁入りの雨を消防車数台で降らせた。同作はアカデミー賞特別賞(現・外国語映画賞)も獲得し、戦争の爪痕がまだ各地に残る中、日本映画が世界から評価されたことが、日本人の沈んだ気持ちを明るくさせた。

そして1954年、世界映画史に燦然と輝く『七人の侍』が完成!

「ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カレーをぶち込んだような、もう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」

集団を映しながらも一人ひとりの生命の重さを描きあげた同作は、世界の映画人の心を鷲掴みにし、海外では『荒野の七人』など犲型佑發劉瓩数多く制作された。スピルバーグいわく「映画の撮影前や制作に行き詰まった時には、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見る」。

だが、黒澤は50代後半から映画会社に干されてしまう

“完全主義”の結果、制作費が毎回のように予算オーバーするためだ。追いつめられ浴槽でカミソリ自殺をはかり、傷は首筋5ヵ所をはじめ21ヵ所に達した。そんな黒澤を助けてくれたのはフランス政府やハリウッドの映画人たち。海外の援助で『影武者』『乱』が完成した。1997年に三船が世を去り、後を追うように翌年脳卒中のため永眠。享年88。

墓所は鎌倉市の安養院。他界の1年後に墓参したところ、監督の左隣が空いていたので、大ファンの僕は「檀家になれば監督の横に眠れますか」とご住職に思い切って尋ねてみた。返事は「あまりに希望者が多いので、皆が平等になるよう隣りはお墓にしません」。

10年後に再訪すると隣りはブロック塀で囲まれ、本当に物置(卒塔婆置き)になっており、ご住職の英断に感嘆した。


黒澤明
三船敏郎の墓(川崎市、春秋苑)。黒澤とのタッグは計16本にも及んだ

※『月刊石材』2012年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

オーギュスト・ロダン 〜“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

オーギュスト・ロダン
ロダンの墓。『考える人』の原型は足下が地獄。あえてそこに眠るのは彼の意思なのか

「芸術家である前に人間であれ」(ロダン)。豊かな生命力と、力強い精神性を秘めた人物彫刻を多数生み出したロダン。ミケランジェロ以降の最大の彫刻家で、単に外見をモデルに似せるだけでなく、内面世界まで形にしようとした。

1840年、パリ生まれ。子どもの頃から絵を描くのが好きで、14歳より工芸学校に通い始める。粘土を握る楽しさに開眼したロダンは、専門教育を受けるべく国立美術学校の入学を目指したが3度にわたって失敗。入学を断念し、建築装飾の職人となり独学で彫刻を学んだ。24歳で生涯の伴侶となるローズと出会い長男が誕生。同年、サロン(美術展)に出品するが落選し、以降13年間は世に出ることもなく黙々と作品を造り続けた。

生活を切り詰め貯金し、35歳で念願のイタリア旅行を敢行。現地でルネサンス時代の作品が持つ強い存在感に衝撃を受ける。いわく「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」。

ロダンは興奮を胸に等身大の男性像『青銅時代』を発表し、美術界の注目を集めるが、生き写しと感じるほどリアリティがあったために「生身の人間から直接石膏の型をとったのでは」とあらぬ中傷を受け、サロンでも落選した。怒ったロダンは、人間よりずっと大きな彫刻を制作して疑う者をねじ伏せ、誤解が解けたことでフランス全土に名声が広まった。

40歳からライフワークとなる『地獄の門』の制作をスタート。この門はダンテの「神曲・地獄編」をモチーフにしており、高さ5.4メートル、幅3.9メートル、重さ7トンの超大作となる。何度も構想を練り直し、生みの苦しみの中でロダンの心を捉えたのが、十九歳の美貌の女弟子カミーユ・クローデルだった。彼女は彫刻家として素晴らしい才能を持っており、ロダンは愛弟子との情愛にのめり込む。だが、ローズと別れることは出来ず、ドロドロの三角関係が15年も続く。

最終的にロダンはローズを選び、カミーユは精神のバランスを崩し発狂してしまう。1889年、『地獄の門』で扉の上部から地獄の情景を見下ろしている男を単独作品『詩人』として発表。地獄の門にはカミーユや私生児の姿もあることから、“詩人”はロダン本人とも言われている。この像は後に鋳造した人物に『考える人』と名付けられた。

1917年、長く内縁の妻だったローズに死期が迫り、ロダンは正式に彼女と結婚。その16日後にローズは世を去った。そして9ヵ月後にロダンも後を追うように他界する。享年77歳。

ロダンの墓は没地ムードンのロダン邸(現ロダン美術館)にある。パリからは約40分。電車を乗り継ぎ、住宅街の中を迷いながらたどり着くと「休館日」の看板。ノーッ! 僕はインタホン越しにひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」「トンブ!トンブ!(墓)」と守衛さんに連呼し、10分後、涙声に折れた守衛さんが門を開けてくれた。

無事に『考える人』の足下に眠るロダンに巡礼でき、ロダンにも守衛さんにも「メルシー!」と大感謝。

オーギュスト・ロダン
東京の国立西洋美術館にある『地獄の門』。186もの人体で埋め尽くされた驚愕の力作!

※『月刊石材』2012年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

民衆を救うため命がけの蜂起! 〜日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

大塩平八郎
左が平八郎で“中斎”は号。右は養子格之助。明治まで“大罪人”大塩の墓を造ることは禁じられていた

震災の復興よりも政治闘争に明け暮れ、マニフェストとは正反対のことに血道をあげる政治家たち。国民の怒りは灼熱のマグマとなり噴火寸前だ。社会を変えたいと思うとき、現代は選挙という形で意思表示が出来るけど、江戸時代は幕府があまりに強大で、庶民は世を変えたくても為す術がなかった…大塩平八郎が蜂起するまでは!

江戸後期(1793年)に大阪で生まれた大塩は、先祖が家康から直々に愛用の弓を賜った旗本。十代前半で奉行所に出仕、25歳で正式に大阪町奉行所与力となった。“与力”は今で言う警察機構の中堅。大塩は裏社会のシンジケートを壊滅させ、没収した三千両(約2億円)を貧民への施し金とした。さらに複数の幕府高官による汚職事件の証拠を掴むが、圧力が加わり捜査は打ち切られてしまう。大塩は職を養子・格之助に譲って奉行所を去り、学問(陽明学)の道を究めていく。

1833年から始まった“天保の大飢饉”は餓死者が30万人に達し、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となった。

大塩は奉行所を訪れ「米問屋にはたっぷり米があるのに、豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えた。だが、町奉行は豪商から賄賂を貰い聞く耳を持たない。大阪の米価は六倍まで急騰し、民衆の窮状を見かねた大塩は、大切にしてきた5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた約六百万両を1万人の貧民に配った。

ときに大塩44歳。力ずくで豪商の米蔵を開けさせることを決心し、堺で鉄砲を買い付け、高槻藩からは大砲数門を借りた。蜂起日を1837年2月19日夕刻と定め、私塾『洗心洞』門下生(与力時代の仲間が中心)ら約30名の同志が連判状に名を連ねる。

大塩の最終目標は有り余るほど大量の米を備蓄している「大阪城の米蔵」だ。ところが、決行日の未明に仲間2人が裏切り奉行所に計画を密告。大塩は予定を早め、午前八時に「救民」の旗を掲げて蜂起した。大塩一党は豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していく。町衆も混じり300人の勢力になったが、午後になると大阪城から約2,000人の幕府軍が出陣、大塩らは二度の総攻撃を受けて鎮圧された。

大塩父子は約40日間逃走したが、潜伏先を包囲され火薬を撒いて爆死した。この乱で処罰された者は実に750人。幕府は黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人の遺骸と共に磔に処した。

彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。

墓の側に建つ『大塩の乱に殉じた人々の碑』は、大塩の墓の五倍ほどあり、後世の建立とはいえ墓からも“民衆第一”という思想が伝わってくる。

大塩平八郎
大阪市北区成正寺の境内に建つ『大塩の乱に殉じた人々の碑』。写真右奥に墓

※『月刊石材』2012年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

“ピアノの詩人”ショパン 〜ハートは祖国に戻った

ショパン
最初に造られたパリの墓。台座にはショパンの横顔が刻まれている。赤と白のリボンはポーランド国旗

詩情豊かなピアノの名曲を次々と生み出したショパンは、1810年にポーランド・ワルシャワ近郊に生まれた。7歳で『ポロネーズ』を作曲し、翌年に最初のリサイタルを開く。ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、20歳の時にウィーンで本格的に活動を開始するべく故郷を離れた。

ところが、その直後に祖国で支配者ロシアに対する民衆蜂起が起きる。この反乱は失敗に終わり死傷者は4万人にのぼった。ショパンは家族や友人の身を案じ、「絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」と書き記し、動揺の中で『革命エチュード』を作曲した。

パリに移り住んだショパンは演奏会が評判となり、ハイネ、リスト、バルザックらと親しく交流。画家ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入しアトリエに置いた。やがて貴族の令嬢と恋に落ち婚約までするが、彼が病弱であることを理由に婚約破棄される。

深く傷ついたショパンを大きな愛で包んでくれたのが6歳年上の女流作家ジョルジュ・サンドだ。彼女はズボン姿で葉巻を手に持つ男装の麗人として社交界の注目を集めていた。2人の同棲生活は7年間続き、数々の名曲がこの間に書かれた。

サンドとの破局から2年後、ショパンは肺結核により39歳の短い生涯を閉じる。彼の日記にはサンドの髪の束が挟まれていた。亡骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、帰国を夢見ていたショパンの想いをくみ、心臓だけはワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。

第二次世界大戦ではナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。

2005年のワルシャワ巡礼では、路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが聖十字架教会へ案内して下さった。僕が停留所で彼女に最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と、方向を指差してもらおうと尋ねたのがきっかけ。

ヴィロンスカさんは英語をまったく話せないんだけど、僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“ついて来い”というジェスチャーがあったので、教会に向かうと思いきや、なぜか彼女のアパートでお昼ご飯を食べることになり、サンドウィッチや炒り卵、サラダを作って下さった(お弁当まで持たせてくれた!)。

教会への道すがら、ゴミが落ちていたら拾いあげ、道端でお腹を空かせている人には買い物袋からパンや果物を分けていた。ヴィロンスカさんにとってはすべてが自然な行為。僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手を振って立ち去った。なんて気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう!

教会内のショパンの墓に彼女のことを話し、「ポーランドには素晴らしい人がいますね」と語りかけると、ショパンが「そうとも!」と言ってる気がした。これもまた忘れられない巡礼となった。

ショパン
心臓が納められた教会の柱には聖書の「あなたの宝の場所にあなたの心がある」が刻まれている(ワルシャワ)

※『月刊石材』2012年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

岡本太郎 〜前衛美術運動の旗手は、お墓もインパクト絶大

岡本太郎
岡本太郎のお墓。養女・敏子さんが2005年に他界し、2人の名が墓誌に並ぶ

メディアの方から「個性的なお墓を紹介したいのですが、オススメの偉人はどなたですか」と質問を頂いた時に迷わず即答しているのが、日本最大の公営霊園、東京・多磨霊園に眠る前衛芸術家・岡本太郎のお墓だ。子どもが頬杖をついてニコニコと笑っているような太郎の彫刻『午後の日』を墓石に使っており、墓前で手を合わせていると何とも和やかな気持ちになる。

太郎は18歳の時に両親の渡欧に同行して、パリに10年以上も滞在。ピカソらと交流を深めるが、ドイツ軍のフランス侵攻を受け帰国する。その後、陸軍二等兵として中国に四年間出征。戦後、東京国立博物館で縄文土器との衝撃的出会いをする。

「驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃えあがっている。異様なぶつかりあい。これだ! まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」

太郎は芸術作品を誰かが所有することを否定し、自分の作品を個人に売ることはなかった。そこに行けば誰でもタダで楽しめる作品を目指し、壁画やストリートのオブジェを制作し続けた。

一方、自身の従軍体験を背景にした反戦思想を持っており、ベトナム戦争時、米政府へ向けてワシントン・ポストに載せた意見広告(1967年4月3日付)に、戦争そのものへの呪いを込めた書体で、大きく「殺すな」と墨で書き綴った。

渋谷駅の壁画『明日の神話』に描かれているのは原爆が炸裂した瞬間だ。太郎いわく「キノコ雲を見ていなくても、ヤケドをしなくても、我々全てが被爆者なのだ」。

大阪万博で『太陽の塔』を発表し、10年後、70歳の太郎がCMで叫んだ「芸術は爆発だ!」が流行語となった。晩年はパーキンソン病を患い84歳で永眠する。

父は漫画と小説を一体化させた漫画小説でストーリー漫画の源流を作った岡本一平。母は小説家の岡本かの子。両親は太郎のお墓と向き合う形で建っている。一平のお墓にも笑顔の彫像があり、こちらは太郎が制作した母『かの子像』が原型だ。かの子のお墓には彼女が信仰していた観音菩薩像が置かれている。

かの子が生前に「死体を焼くのはおかしい」と火葬を嫌がっていたので、一平は多磨霊園と必死に交渉して土葬の許可を得た。 

墓域中央には川端康成が岡本家を紹介した碑文が建つ。

「この3人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、3人がそれぞれ成長した。古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう」

岡本家の墓所はいわば一家団欒の場であり、中央に立つと陽だまりの中にいるような温もりを感じる。癒やしの墓域だ。

岡本太郎
太郎と向き合う父・一平と、母・かの子のお墓。親子が笑顔を交わしている素晴らしい墓所!

※『月刊石材』2012年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

チャップリン 〜ヒトラーと戦った喜劇役者

チャップリン
右がチャップリン、左が8人の子をもうけたウーナ夫人

“喜劇王”チャップリンの墓は故郷の英国でも、成功を収めた米国でもなく、スイスの片田舎ヴヴェイにある。それは彼の生きる姿勢、信念の結果だ。

パントマイムの劇団員を経て25歳で銀幕デビューを飾り、トレードマークとなる山高帽&ステッキ、だぶだぶのズボンにドタ靴という姿を確立。監督、主演、製作、脚本をこなし、映画音楽まで作曲した。完全主義者で、『街の灯』の撮影では花売り娘との約3分間の出会いのシーンに342回もNGを出した。

作風は初期のドタバタ喜劇から、次第に人間愛をうたったヒューマニズム路線に変化していく。社会問題にも斬り込み、『モダン・タイムス』では羊の群れと労働者を重ね合わせ、資本主義の世で家畜化した民衆を鋭く描いた。

欧州で台頭していたファシズムにいち早く危機感を抱き、第二次世界大戦開戦直後に『独裁者』の撮影を開始。同作でヒトラーとユダヤ人の床屋という、抑圧者と被抑圧者の一人二役をこなした。

チャップリンはヒトラーと同年同月生まれで、黒髪、小柄、チョビ髭という共通点があった。劇中ではユダヤ人差別の深刻さが克明に描写され、後のアウシュビッツ強制収容所の建設を予見。撮影当時、多くの米国人は戦争を遠くの出来事としてとらえ(真珠湾攻撃は2年後)、ナチスが反共・白人優位主義であったことから、KKKやドイツ系移民を中心にヒトラー支持者も少なくなかった。製作中止を求める様々な妨害が加えられ、「何度も脅迫を受けている。撮影を続けると殺されるかもしれない」と当時語っている。

ヒロインの名前は10年前に他界した母と同じハンナ。天国の母親に向かって、命を賭して完成を誓う決意表明にも思える。そのような状況で反ファシズム映画を作った彼の勇気、時代を見通す力に圧倒される。大戦後は『殺人狂時代』の中で、死刑台に向かう主人公に「一人を殺せば犯罪者に、100万人を殺せば英雄になる」と戦争の矛盾を語らせた。

東西冷戦が激化するとハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れ、法務長官から事実上の国外追放命令を受け、彼は自分の意思を訴えるように“中立国”スイスに移住した。

それから20年後、ハリウッドは謝罪の意味を込めてアカデミー賞特別賞を授与し、授賞式で彼に送られたスタンディングオベーションはオスカー史上最長の約五分間にわたった。翌々年のクリスマスの朝、彼は88年間の波乱に富んだ人生を終えた。

僕が初めてチャップリンを墓参した際、バスの運転手の勘違いで違う墓地で降ろされ、地元の人に尋ねながら墓地を探し大変だった。ある民家で庭いじりをしている女性に訊いたところ、彼女は「ここだ」と地面を差した。何のことかと思いきや、彼女はチャップリンの孫で僕は知らずに敷地に入っていたのだ!

その後、墓地では時が経つのも忘れて、映画の感想や感謝の言葉をチャップリンに伝えた。

チャップリン
ハリウッドに眠る母ハンナ。『独裁者』のヒロインの名の由来だ

※『月刊石材』2012年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

坂本龍馬〜「日本を今一度、洗濯いたし申し候」

坂本龍馬
墓石の字は木戸孝允のもの(左が龍馬、右が中岡)。同墓地には明治維新に尽くした1,413名が眠っている

これまで四半世紀にわたって国内の偉人1,000人以上を巡礼してきた。その中で、もっとも多くの墓参者で溢れかえっていたのは京都・霊山護国神社の坂本龍馬だ。ひっきりなしに巡礼者が訪れ、人の波が途切れることがない。

大河『龍馬伝』がオンエアされた時は、ゴールデンウィークに墓参者の列が墓地の外まで続いていたという。こうも日本社会に閉塞感が漂い、政治家が民衆の期待に応えられないでいると、龍馬のように突破力のある人物に人々は心惹かれるのだろう。

龍馬は1835年に土佐藩の下級藩士の家に生まれた。18歳の時に江戸へ出て剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。帰郷後に武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟し、外国人排斥の攘夷運動に係わっていくが、脱藩して勝海舟など様々な人物と交流する中で、無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外に対抗しようと考えるようになる。

幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、反幕府の先陣を切り優れた人材(吉田松陰、高杉晋作等)を輩出する長州藩の連合が不可欠と龍馬は考えていたが、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲。龍馬は経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなるべく、日本で最初の会社組織、貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立し海運業に励む。

長州藩は幕府との対決を前に最新鋭の武器を欲していたが、他藩には長州への武器売却禁止令が出ており購入は不可能。そこで龍馬は西郷に働きかけ、 長州が武器を購入する際に薩摩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した。

作戦は大成功。薩摩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、長州側のわだかまりが消えていった。そして1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。「薩長の和解はこの日本国を救うためであり、一藩の私情を挟んではいけない」との龍馬の一喝もあり、ついに薩長同盟が締結された。その後、龍馬は幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考え、土佐藩の建白を受けて将軍慶喜は大政奉還を受け入れた。

幕府側には薩長を結んだ龍馬を恨む者も多く、寺田屋で治安組織に襲撃され間一髪で脱出するなどしたが、隠れ家の近江屋を踏み込まれ(犯人は見廻組説が有力)、同志の中岡慎太郎と共に暗殺された。

過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば遠い片田舎の土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。これにロマンを感じないわけがない!

龍馬の墓前には、ファンのメッセージが書かれた石板がズラリと並んでいる。※2019年現在、石板はありません。


坂本龍馬
愛妻おりょうの墓は横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にある。墓前には龍馬が薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった

※『月刊石材』2012年3月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 〜墓が語る兄弟愛

ゴッホ
絵は彼にとって「愛を訴える方法」だった。その想いに応え、世界各国のゴッホ・ファンがこの地を訪れている

墓巡礼を続けていると、予想もしなかった衝撃を受けることがある。ゴッホの墓参が、まさにそうだった。

僕が初めてゴッホを巡礼したのは1989年。この巡礼には並々ならぬ気合いが入っていた。ゴッホは生前に作品がたった一枚しか売れず(しかも買ってくれたのは友人の姉)、世の中に悲嘆して37歳で自死。どうしても墓前に行って「あなたの人生は無駄ではなかった、現にこうやって感謝を伝える為に、遠い日本の大阪から、飛行機に乗って、鉄道を乗り継いで、歩いてこの丘を登ってきたファンがいる」と身体を見せつけたかった。

彼は絵筆を握る理由を、「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを生み出したい」「私は絵画を通じて、人々を救い、救われたかった」と語っていた。

作品自体が素晴らしいのはもちろん、僕は彼の芸術家としての志に深く感動していた。

オーヴェール駅から村人に道を尋ねながら共同墓地にたどり着くと、壁沿いに彼は眠っていた。ひとしきり熱い想いを伝えた後、隣りの墓を見た。弟テオのものだった!

80年代はインターネット普及前で、事前に墓の写真を見る機会がなく、テオの墓があることを知らなかった。画商の彼が兄の生活費をずっと援助していた話は有名だ。テオに手を合わせかけて、没年を見て電気が走った。彼は兄が他界した翌年に亡くなっていた。まだ33歳の若さだ。

ゴッホの画家としての活動期間はわずか10年。その中で1,600点の水彩・素描と八百点以上の油彩画という膨大な作品を残した。テオがいなければ兄は絵の具も買えなかったわけで、いま僕らがゴッホ芸術に触れることができるのは、200%テオのおかげだ。

当時の絵の具は高いのに、ゴッホはカンバスに直接塗りつけて地図模型並に盛り上げた。貧乏画家の描き方ではない。それでもテオはひたすら兄の才能を信じて仕送りを続け、自身の子に爛凜ンセント瓩般症佞韻襪曚彪桧Δ靴討い拭

ゴッホは自分の腹を撃ったが即死できず2日間苦しみ抜いた。駆けつけた弟に、「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ポケットの中には弟宛の最後の手紙が入っていた。「君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあっても、絵の制作そのものに加わってきたのだ」。

兄の死はテオを激しく打ちのめし、3ヵ月で精神が崩壊、弟の生命は6ヵ月しかもたなかった。

その後、2006年、2009年と彼らの墓前に立ってきたが、僕はテオと語り合った時間の方が長かったかも知れない。兄弟の死後、テオの妻ヨハンナは2人の墓を隣接させて聖書の次の言葉を捧げた―。

「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」

ゴッホ
ツタで結ばれ、ひとつになったゴッホ兄弟の墓。ツタの花言葉は「死んでも離れない」

※『月刊石材』2012年2月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

平 清盛 〜貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長

平 清盛
再興された清盛の菩提寺は1945年の神戸大空襲で焼失したが墓碑(十三重石塔)は残った!(2005年)

2012年のNHK大河は平清盛が主人公。これまで源氏視点の物語が多かっただけに、どのように新たな清盛像が描かれるのか楽しみでならない。社会の授業で「横暴」「非情」「傲慢」など悪役のレッテルを何枚も貼られている清盛。しかし、先入観なしに歴史を紐解くと、武勇に優れているだけでなく、敏腕政治家、愛情豊かな家父長、そんな横顔が見えてくる。

清盛の大きな功績は3つ。

(1)身分差別で成り立っていた貴族社会を吹き飛ばし、日本初の武家政権を築き上げた。明治維新まで約七百年も続く武家社会の礎となった事が非凡さを語っている。

(2)6年がかりで神戸港を整備し、外国の大型船が入港できるようにした。書籍・織物・香料・銅銭等を輸入し、漆器・金・硫黄・刀剣等を輸出するなど対外貿易で経済を活性化させ、清盛によって銅銭が大量に輸入されたことで日本の貨幣経済が大幅に進展した。

(3)平安貴族が行なわなかった大規模な公共事業を施行。迷信を信じる貴族たちが工事の無事を祈願して人柱(生け贄)を立てよと主張するのを、“そんな馬鹿な理由で人の命を犠牲に出来ない”と拒否した。

清盛は2歳で母を亡くしたことの反動か、あり得ないほど一族へ愛情を注いだ。平氏ファミリーの全員を京都六波羅の一角に集めて皆で暮らし、一門からは誰一人として不幸な人間を出さないよう、惜しみなく愛を捧げた。また、夜中に邸宅を見廻り、平家に仕えている郎党(従者)に布団をかけてやるなど、ファミリーとそれを取り巻く世界を心底から大切にしていた。

では、ファミリー以外には冷たかったのか。後に平家を滅亡させることになる、幼少期の頼朝、義経を捕らえた際、若い生命ゆえに助けてやったり、鹿々谷事件の反逆者にも恩赦を与えるなど、決して血に狂った冷血漢などではない。

蘇我氏、明智光秀、石田三成など、歴史における敗者は、勝者の歴史観の中でことさら長所を過小に短所を過大に伝えられている。天下を獲る為に清盛も人を斬ったが、後に続く秀吉や信長ら戦国武将に比べれば、それははるかに穏やかなものだった。

清盛は晩年に能福寺で剃髪して出家し、死後は遺言に従い遺骨が同寺の寺領に埋葬され平相国廟が建立された。平家滅亡の際に能福寺は灰燼と化したが、約100年後に執権・北条貞時が平家一門の運命に悲哀を感じ、「十三重石塔」(現存)を建て清盛の霊を弔ったという。

清盛墓の伝承は他に四ヵ所。平家一門の館があった京都六波羅の平清盛塚、京都大覚寺の塔頭・祇王寺の供養塔、下関市の清盛塚、神戸市切戸町の清盛塚など。

「清盛公は、悪行人なれども、幾多の善根も施したからこそ、20年の間、穏やかなる世を保たれたのではないか。悪行ばかりにては、この世が治まるはずもなし」

同時代の関白・藤原基房の言葉。

平 清盛
壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮には、下関に散った14名の平家有名武将の墓がズラリと並んでいる(2006年)

※『月刊石材』2012年1月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ベートーヴェン巡礼 〜巨匠の側に有名作曲家が大集合!

ベートーベン
広大なウィーン中央墓地の楽聖地区に眠る。路面電車の駅が3つもある巨大墓地だ!

12月といえば、第九!

多くの人から愛されているこの曲は、19世紀初頭の理不尽な封建時代にあって、身分制度を飛び越えて人類平等の兄弟愛を歌い上げた傑作だ。

第九初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。

平民出身のベートーヴェンは差別のない社会を求めており、危険思想の持ち主として当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で、“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にはレストランでの友人との次の会話が残っている。

「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。

ベートーヴェンは自由・平等・博愛の精神を込めてシラーの詩にメロディーを付け、第九初演に挑んだ。演奏会当日、危険人物のレッテルを貼られた作曲家のコンサートにもかかわらず、大勢のウィーン市民が足を運んだ。舞台ではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、耳が聞こえないため代理の指揮者が後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。

演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こったが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手が歩み寄り、巨匠の手をとって振り向かせ会場の興奮を伝えた。演奏後にアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

音楽家の命である聴覚を失いながらも、「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と前進を続けた彼。素晴らしい音楽だけでなく、生きる姿勢にどれほど勇気づけられてきたか。僕はかつて人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。

1827年3月、肺炎を患ったうえ、黄疸も発症し、肝硬変を起こして56年の生涯を終えた。最期の言葉は「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。集会の自由が制限されるなか、葬儀には2万人もの市民が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めたという。宮廷からは一輪の花も、1人の弔問もなかった。

いまベートーヴェンの墓の隣りにはシューベルトが眠り、その横にヨハン・シュトラウス、ブラームスの墓が並んでいる。近隣にはシェーンベルク、スッペらもいる。後世の作曲家はみんなベートーヴェンの側に眠りたいのだろう。彼の墓前からは巡礼者の波が絶えることがない。

ベートーベン
シューベルト(右手前)は遺言で「墓はベートーヴェンの隣りに」と希望

※『月刊石材』2011年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

オードリー・ヘプバーン 〜世界を魅了した銀幕の“妖精”

オードリー・ヘプバーン
他界の翌年に墓巡礼。オードリーの墓はポートレートや可愛い花で溢れていた

24歳の時に出演した『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞に輝いたオードリー。『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディ』と主演作が次々とヒットし、チャーミングな笑顔と優れたファッション・センスで人々を虜にした。

青春期に戦争で苦しんだことから、晩年はユニセフ(国連児童基金)の特別大使となって貧困に苦しむ子ども達のために尽力。いま、彼女はスイスの片田舎トロシュナ村に眠っている。

墓参したのは1994年。ローカル鉄道で村に一番近い駅に降り立った僕は、駅員に墓地の方角を尋ねようと思った。だが、なんと無人駅! 周辺地図なんてシャレたものはない。しかもこの日は列車のつなぎが悪くて、着いた時点で日没直前。途方に暮れて辺りを見回すと、遠くの方に人影がひとつ。同じ列車で降りたとみられる地元のおばさんが、買物袋を下げてテクテク帰って行くのが見えた。

「逃さんッ!」とダッシュで追いつき、突然背後から東洋人に話しかけられてドギマギしてるおばさんに、カタコトの仏語で「スミマセン、ワタシ、ミチ、マヨッタ、オードリー、ハカ、ドッチ?」と方角を聞いた。おばさんは“付いて来なさい”というジェスチャー。どうやら家が同じ方向らしい。

名前はマヌエラさん。一緒に歩いてる間、「アナタ、シンセツ」とか「コノムラ、トテモキレイ」「ワタシ、シアワセ」などと、伝家の宝刀“誉め言葉手帳”(自作)を片手に畳み掛けていたら、マヌエラさんが家の前で爐舛腓辰搬圓辰討覆気き疆な所作。3分後、ガレージから車が出てきた! 墓まで少し距離があるので送ってくれるらしく、その優しさに感動した。

墓地の門前に着いた時、彼女が“しばらく待ちましょうか?”的なジェスチャーをするので、そこまで甘えるわけにいかず、これで充分と、何度もメルシィを連発しながら、固い握手をして車を降りた。

墓地はこじんまりとしていて、真新しい彼女の墓はよく目立っていた。夢にまで見たオードリーとのツーショットを撮るべく、タイマー撮影を何度も繰り返し、「わが人生に一片の悔いなし!」と涙にむせんでミーハー魂を爆発させていたら、無人と思っていたのに、バケツを片手に立ちすくんでいるお婆さんと目が合った。

恥ずかしくなってペコッとお辞儀したら、背中を向けてあたふた逃げていった。“まずい!変人と思われたかも!”と慌てて「違うんです!誤解なんです〜!」(日本語)と叫びながら追いかけると、その行為がお婆さんをさらにビビらせたのか、カモシカの様な俊敏さで遠ざかっていった…。

帰り道、とっぷりと日が暮れた村道を無人駅までテクテク歩きながら、“マヌエラさんと出会わなかったら日没前に墓参できなかった”と、改めて旅先の親切に胸が熱くなった。素敵な出会いを有難う、オードリー!

オードリー・ヘプバーン
こちらは『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペック。ロサンゼルス大聖堂の地下に永眠している

※『月刊石材』2011年11月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

世阿弥元清〜能を究めた舞の名手を訪ね、非公開寺へ

世阿弥元清
世阿弥の墓は父・観阿弥と並んでいる(小さな五輪塔)。風化が進みどちらが世阿弥か寺も分からないという

「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」

数々の言葉を後世に遺した天才能楽師・世阿弥元清。50作以上の演目を作った劇作家でもある。

幽玄な舞で3代将軍足利義満を虜にしたが、後年芸術上の信念を貫くが故に六代将軍義教と対立し、71歳という高齢で佐渡に流された。七年後、義教が暗殺されると、京都大徳寺の一休和尚の尽力で配流が解かれた。

こうした縁で、世阿弥の墓は大徳寺真珠庵にある。しかし、同庵は建物が重要文化財に指定されており、内部は非公開! それゆえ、1999年の特別公開に合わせて訪問した。でも、「公開は寺内のみで、一般の方は墓地に入れません」とガードが固く玉砕。

僕は“特別公開中に行った為に、かえって普通の観光客と思われ逆効果だったのかも”と考え、4年後に再訪した。玄関先で随分食い下がったけど、丁重に断られた。

そして翌年8月8日! 世阿弥の命日! 墓参に最もふさわしい日だ。はっきり言ってこの日がダメなら、他の日に行っても絶対に無理だろう。同年は561回忌。区切りのいい600回忌は約40年後。その頃僕はもう80歳近くで、存命かどうかさえ分からない。会わせてもらえるまで、とにかく毎年この日に訪問し続けるしかないと腹をくくった。

服装を整え、線香とお花を携え、夕方の一息ついた時間帯に訪問。ガラガラガラと引き戸を開ける。真珠庵の玄関は薄暗い。奥の方から話し声が聞こえ、意を決して「ご免くださ〜い!」と震える声を張り上げた。「はーい」と出てきたのは年配の女性。以前に僕が断られた人だ。“また門前払いになるのか…”不安が胸をよぎった。

「世阿弥さんの命日なのでお花と線香を持ってきました。是非、手を合わせさせて…」と言ったところで「ごめんなさいね、お断りしてますの」。僕は諦めなかった。「せめてお花だけでも墓前に…」。そして奈良の世阿弥生誕の地“面塚”を訪ねた時の写真を取り出した。この瞬間、空気が変わった!

「あらまぁ、面塚まで。ちょっと待っときやす。和尚さぁ〜ん!」

しばらくして貫禄充分のご住職が出て来られた。「世阿弥さんのお墓参りに来られたとか」。僕は汗が噴出し、緊張で声が上ずった。

「す、すみません、ご無理を言って!」

世阿弥へのほとばしる想いを話すと、「そうですか。それでは墓前で手を合わせてあげて下さい。墓地は寺の裏側なので私の後について来るように」。なんかもう、興奮し過ぎて真っ直ぐ歩けない。

「こちらです。私は先に戻っていますので、どうぞごゆっくり」

墓前にて、この世のものとは思えぬ美しい芸術を残してくれたことへの感謝の言葉を捧げた。

※能楽は650年を超える長き伝統から、2001年にユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に指定されている。

世阿弥元清
生誕地の面塚(奈良県川西町)。観阿弥がこの地で観世流を生み出し、右後方に“観世発祥之地”の碑も建つ

※『月刊石材』2011年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

農民として生まれ武士として散る 〜新選組局長・近藤勇

近藤勇
竜源寺(三鷹市)の墓。約200メートル西方に生家跡や産湯の井戸、天然理心流の道場がある

2011年春、NHKで司馬遼太郎の『新選組血風録』がドラマ化され、幕末ファンの間で大きな話題になった。昨年の大河ドラマ『龍馬伝』といい、維新という激変する時代のうねりの中で、命の炎を燃やした若者たちを描いた作品は、時を超えて見る者の心を熱くする。

近藤勇は現・調布市の農家の三男坊に生まれた。成長して剣術に才能を発揮し、天然理心流宗家・近藤周助の養子になる。将軍上洛の警護をきっかけに幕府の治安部隊・新選組を率いることになり、倒幕を目指す志士たちを次々と捕縛し、抵抗する者は斬り捨てた。池田屋事件では20余名の志士にわずか四名で立ち向かい、9名を討ち取る大手柄をあげる。

近藤は幕臣の地位を与えられ、農民出身でありながら旗本まで登り詰めた。志士の恨みを一身に集めた近藤は、新政府軍に捕縛された後、切腹を許されず罪人として斬首となる。首は京都に運ばれ三条河原に晒された。

伝えられる墓所は全国に6ヵ所。

(1)竜源寺(東京都三鷹市)
養子の勇五郎が刑場から亡骸(胴体)をもらいうけ、生家に近い近藤家の菩提寺・竜源寺に葬ったという。墓前にはたくさんの千羽鶴がある。歴史上の人物では、近藤、龍馬、沖田総司の墓所でしか千羽鶴を見たことがない。近藤の墓前には約25冊ものメッセージ・ノートがあった。

(2)新選組墓所(東京都板橋区)
処刑場跡に新選組二番隊・永倉新八が建立。胴塚。

(3)天寧寺(福島県会津若松市)
寺の裏山に会津藩が建てた墓がある。土方らが会津に来た時にこの墓に参詣しており、土方が遺体の一部を葬ったとも。今は近藤と土方の供養塔が並んでいる。後世の優しい人が“2人を並べてあげよう”と提案したのだろう。

(4)壬生塚(京都市中京区)
新選組の最初の屯所、八木邸のそば。遺髪が納められている。

(5)法蔵寺(愛知県岡崎市)
なぜ近藤の墓が愛知県に? 寺伝には次のように伝えられている。 

『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた者が、夜中に体を掘り出し竜源寺に埋葬した。首は塩漬けとなり京に送られ、三条大橋の西側に晒された。三晩目に同志が密かに持ち出し、近藤が生前敬慕していた裏寺町の空義天大和尚に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした』。 

具体的で説得力がある。

(6)高国寺(山形県米沢市)
米沢で織物業を営む従兄弟の近藤金太郎が勇の首を盗み出し、赤羽近くの河原で焼いた後、紙に包んで米沢に持ち帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したという。 

これらの墓は、各所に分骨されたものかも知れない。信念を貫き散った男の墓前には今もなお多くの人が訪れている。

※2019年追記。現在、研究者の間で(3)の会津若松市・天寧寺が最有力候補になっています。


近藤勇
板橋の墓。近藤と土方、両者の名が刻まれた3.6メートルもの巨大な供養塔だ。駅前にあり墓参しやすい

※『月刊石材』2011年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ジャマイカ大疾走! “レゲエの神様”ボブ・マーリィ巡礼

ボブ・マーリィ
ボブが眠っている霊廟。残念ながら内部は撮影禁止。画像の窓の背後に石棺がある

夏は明るい太陽の下、各地で野外音楽フェスティバルが開催される。人気を集めているのはカリブ海・ジャマイカで生まれたレゲエ音楽。「レゲエ」の語源はジャマイカ語の“レゲレゲ”(抗議する)で、元々は貧困や飢えに対する民衆の抵抗音楽だ。

それを世界に広めたのが36歳で早逝したボブ・マーリィ。

2001年夏、僕は墓参のためにジャマイカへ向かった。同国は政情不安定で、直前にも首都で暴動や銃撃戦が起きていたけれど、ボブに対する敬慕の念が年々つのり、これ以上墓参を先延ばしには出来なかった。

大阪→成田→アトランタ→マイアミ→ジャマイカと乗り継ぎ、夜半に入国。宿の送迎車で、ボブの出生地であり彼が眠っているナイン・マイルズ村のことを尋ねた。運転手の話では、村の博物館に墓があり、車で片道3時間、タクシー代は200ドルが相場とのこと。そして「バスなら安く行けるけど、強盗が多いし行き先は天国かも。途中の山は今でも山賊が出る」とも。うおお…。

翌朝6時半に行動開始。悪党は11時頃まで爆睡しているので、治安の悪い土地では正午までに主な活動を終え、夕方以降は出歩かないことが生存の鉄則だ。僕が交渉したタクシーの運転手はスキンヘッドのマッチョな黒人で、とにかく押しが強かった。まだ値段交渉中なのにトランクを開けて荷物を入れ、「200ドルでいいな」。僕は「宿屋の主人が150ドルで行けると言っていた」とハッタリをかました。「村へ続く山道はデコボコで危険。190ドル」。負けてられない。「帰りは僕が運転する。あなたは後部座席で寝てればいい」。

彼は大笑いした後、真顔になって「180ドル以下は無理だ。俺は元ボクサー。山賊襲撃のボディガード代込みの180ドルと思ってくれ」。握手。僕らは出発した。 

彼の名前はウィリアムズ(43歳)。子供は5人、愛人は2人。空は快晴。気温は32℃。窓から心地良い風が入る。ときおり道を阻むのは牛やマングース。ウィリアムズはムキムキだけど、つぶらな瞳で笑顔が人懐っこく、温かいオーラに包まれていた…。他の車に追い越されぬ限りは!

世界最速のタクシー・ドライバーを目指す彼は、他車に追い抜かれると奇声をあげて抜き返す。客を乗せているのに! カーブの向こうが断崖絶壁でも関係なし。パリ・ダカール・ラリーに出場すれば間違いなくチャンピオンだ。

悪路を突っ走ること2時間半、何とか墓前に到着。僕は両手を広げ、高さ2メートル、奥行き5メートルの巨大な石棺に抱きついた。そして素晴らしい音楽を残してくれたことに感謝した。

墓所を出ると“葉っぱ”の売人が数人待ち構えていた。「吸うか?」とウィリアムズが聞くので、僕が手錠をかけられる真似をすると「ガハハ、その通り」。彼は笑いながら追い払ってくれた。最後にちょっぴりボディガード。これも忘れ得ぬ巡礼となった。

ボブ・マーリィ
僕が生命を預けたウィリアムズ

※『月刊石材』2011年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

スヌーピーの生みの親チャールズ・シュルツ 〜 パトカーで墓巡礼

チャールズ・シュルツ
初巡礼時の写真。お花がいっぱい。再訪時は周囲にチャーリー・ブラウンなどイラスト入りのベンチがあった

ネットが普及する前、海外の墓巡礼は“聞き込み調査”が基本だった。母国の観光局で情報を収集し、故人ゆかりの記念館(大抵は生家)に足を運び館長に聞いたり、終焉の地で警察署を訪れ手がかりを得ることも。

スヌーピーが活躍する『ピーナッツ』の作者、チャールズ・シュルツさんが2000年2月に他界した際、新聞記事に「サンタローザの自宅で死去」とあった。訃報の5ヵ月後、僕はその情報だけを頼りに渡米し、サンフランシスコからローカル・バスに乗り、約70卷未離汽鵐織蹇璽兇謀着した。

さっそく警察で質問すると、幸運にも担当警官は埋葬された墓地を知っており、コピーした地図に赤丸を入れ渡してくれた。バックパックを署に預け、20分ほど歩いて墓地に到着。約300メートル四方あり、自力で探すのは困難と判断し管理人事務所へ。

扉には「本日不在。用のある方は電話を」の張り紙。周囲に公衆電話なんてない。腹をくくってローラー作戦を開始するも、2時間かかっても一向に見つからない。グッタリしていると、墓地の広場で子ども達がキャッチボールを始めた。彼らいわく「シュルツさんのお墓はこの町だけど違う墓地だよ」。

ドッカーン!

フラフラになって警察署に戻ると、先ほどの警官がいた。名前はケイン。僕が「ユー! ミステーク!」と涙目で訴えると、ケインは調べ直して「悪かった。確かに違う墓地だった」。そして「ちょっと待っとけ」と、署の前にパトカーを横付けし、「送ってやるから乗れ!」。

嬉しかったけど、サンフランシスコに帰るバスの時間まで1時間を切っていた。事情を話すと「問題ない」。回転灯が点滅しサイレンが鳴った!速攻で墓地に着くと、管理人のおじさんが正門で待っていた(署から連絡したようだ)。

パトカーに管理人さんも乗り込み誘導してくれたおかげで、アッという間にシュルツさんの墓前へ。スヌーピーの人形が供えてあった。

「うおお、お会いしたかったです!」

シュルツさんは作品を通して、気楽に生きるための人生哲学、肩をすくめて不運をやり過ごす生き方を教えてくれた。『ピーナッツ』は21ヵ国語に翻訳され、掲載紙は75ヵ国2,600以上、読者数3億5,000万人にのぼる。

帰りもパトカーに乗ったので時間に余裕ができ、車内で「留置場ってどんな場所?」と聞いていたら、署に戻ったケインがニヤリと笑い「スペシャル・ツアーだ」と僕の手を引っ張った。他の警官が驚くなか、留置場を開け「記念写真を撮ってやる」と僕を中に入れ、撮影後に「写真を日本にいるお前の親に送る。保釈金100万ドルを口座に入れるように言え」とジョーク。2人で大笑い。

2009年、僕はレンタカーで約10年ぶりにその警察署を訪れた。ケインはまだそこにいた!「覚えている?」「オフコース! クレイジー・ボーイ!」。“クレイジーはお互いさま”と思いながら握手!

チャールズ・シュルツ
巡礼後のケインとパトカー。まさかこの後、留置場ツアーが待っていたとは(汗)

※『月刊石材』2011年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

織田信長 〜戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上

織田信長
阿弥陀寺にある信長の墓(右側)。長男・信忠の墓と並んでいる

一昔前、戦国武将の墓参りをして出会うのは、定年後に趣味で戦国史を研究されているご年配の歴史ファンが大半だった。

ところが、4、5年ほど前から、美形化された伊達政宗や真田幸村が活躍するゲームやアニメの影響で、「歴女」と呼ばれる歴史好きの若い女性がどっと増え、東北地方の山中に眠る武将の墓前など、“どうしてこんなところで”というような場所で女性の一団を見かけて仰天することがしばしばある。

中でも特に墓参者が絶えないのが、京都市の中心街に位置する本能寺の織田信長(1534‐1582)の墓だ。

信長は尾張・那古野城の城主、織田信秀の子。26歳の時に、わずか2,000の兵で今川義元の大軍2万5,000を桶狭間で撃破し武名をあげる。その後、浅井、朝倉を姉川で破って上洛。15代将軍足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅亡させた。続いて、長篠で武田勢を壊滅させ、七重の大天守閣を持つ安土城を築き全国支配に乗り出す。

経済面では課税を免除した楽市・楽座を設け、関所を廃止し商業を発展させた。外国文化への好奇心が強く、ビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介と名付けた黒人もいたという。

北陸方面を柴田勝家に、中国方面を羽柴秀吉に、関東方面を滝川一益に攻略させたが、天下統一を目前にして明智光秀の裏切りに合い自刃。享年47歳。

信長の墓と伝えられるものは、京都だけでも本能寺(三男・信孝が集めた遺骨を納める)、大徳寺総見院(法要のため秀吉が建立)、阿弥陀寺、大雲院、妙心寺玉鳳院と5ヵ所あり、和歌山・高野山(1970年に供養塔が見つかる)、滋賀・安土城跡(一周忌の後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、近江八幡の西光寺(信長の遺歯を納める)、大阪・堺の南宋寺本源院、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(信長と懇意の囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚)など、全国に15ヵ所以上ある。

その中で、僕が“本墓”と考えているのが、京都市上京区の阿弥陀寺だ。寺伝や当時の公卿の日記によると、住職・清玉上人は信長と深く親交があり、炎上する本能寺から信長の骨を密かに運び出して阿弥陀寺に埋葬したという。

秀吉は同寺に三度も使者を出して、高額の法事料や広大な寺領授与を条件に主君の遺骨を求めたが、寺側は政治利用を嫌って断固拒否。怒った秀吉は寺領を8分の1まで削り報復した。

阿弥陀寺には本能寺の戦死者112名が葬られ、森蘭丸ら側近の墓もある。宮内庁は大正期の調査で同寺の信長公墓が廟所であると結論。通説では「信長の骨は見つからず」とあるだけに、多数の伝承墓に歴史のロマンを感じる。

織田信長
本能寺・本堂背後の墓。複数ある信長の墓では最も知名度が高い

※『月刊石材』2011年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

爆走!闇タクシーで珍道中 〜キューバの英雄チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ
霊廟だけで高さが約15メートルある。6メートルほどのゲバラ像が立っているので、全体で20メートルを超える巨大さだ

「1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった」(ジョン・レノン)。

アルゼンチン人の医者でありながら、キューバ革命を成功させたゲバラの墓参のため、僕は2000年にキューバの首都ハバナを訪れた。

彼は国民的英雄であり、墓は首都にあると頭から信じ込んでいた。ところが観光局の職員に墓所を尋ねてみると、ハバナから約300キロも離れたサンタクララに眠っているとのこと! ほぼ東京〜名古屋間に匹敵する距離だ。

キューバは米国の経済封鎖で石油不足に陥っており、公共の長距離バスがない。国営タクシーは300ドル以上もするため途方に暮れていると、職員がそっと耳打ちしてくれた。「違法だけど、闇タクシーがあるよ」。

闇タクシーは国に登録料(営業料)を払わず、こっそりタクシー業をしている悪党だ。旧市街のタクシー銀座でさっそく値段交渉を開始。ところが誰もそんな遠い所まで行ってくれない。僕はノートに大きく“サンタクララ”とマジックで書き「ポルファボール、サンタクラーラ!(サンタクララへ連れてって)」と絶叫した。

すると、初対面のくせに「ハロー、マイフレンド」と満面の笑みで近づいてきた人物がいた。この男、天使か悪魔か。交渉の結果は135ドル。相場の半額以下、有難い。陽気な男はカルロス(31歳)と名乗った。

「さあ、さっそく出発だ!」と思いきや、カルロスは車を持っておらず、友人のホセ(35歳)が車を出してくれた。ホセは小柄で、はにかむように笑う物静かな男。彼となら往復600キロも平気と胸を撫で下ろしていたら、カルロスが助手席に乗り込んだ。ちょっと待て、アンタも行くんかい!? 

「俺も英雄ゲバラの墓には行きたかったんだ」。

ガソリンは高価ゆえ、2人ともサンタクララに行けるので大喜び。

車内でカルロスは警官対策を切り出した。「後部座席の足元にタオルケットがあるから、俺が“ポリース!”と叫んだら素早く身を伏せ、それを被ってくれ」。

おかげで彼が叫ぶ度に体を右へ左へ倒れさせ、大忙しだった。

ホセは闇ガソリン屋へ寄ると、怪しげな液体を買ってオイルタンクに流し込み始めた。

「あれはな、薄め液でガソリンを増やしてるんだぜ」。そう言ってカルロスは僕に目配せしたが、そんなことして途中で止まったらどうすんだよとハラハラした。

ホセの超絶マシンテクニックはカリブの大気を切り裂き、平均時速110キロでサンタクララに乗り付けた。片道4時間ちょい。無事に到着したことを天に感謝した。

街で一番高い建造物がゲバラの霊廟。革命後は権力の座に固執せず新たな土地へ向かい、自らの理想に殉じた漢。39歳の若さで散った彼は今も市民から最大級の敬意を払われていた。お喋りなカルロスが黙り込み、感極まって墓の上のゲバラ像に見入っている。霊廟と向き合う僕らの間を、夕暮れの心地よい風が通り抜けていった。

「ゲバラさん、あなたの理想主義に希望をもらいました。ムーチャス・グラシアス(ほんとありがとう)!」

チェ・ゲバラ
静かなる男ホセ(左)とマシンガン・トークのカルロス

※『月刊石材』2011年5月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

鼠小僧次郎吉巡礼 〜お寺と墓参者の、約180年という長きにわたる攻防戦

鼠小僧次郎吉
両国回向院の墓。手前の白い墓石が“お前立ち”。次から次へと墓参者がやってきた

かつてジェームス・ディーンの墓を訪れたとき、そのゴツゴツした墓石を指差して、地元の人から「ファンが記念に削っていくんだよ」と説明され、“墓を削る文化があるのか”と驚いたもの。

その後、国内の墓を本格的に巡り始め、日本でも秀吉、坂田三吉、石川五右衛門、森の石松の墓のように、“お守り”にするため削られる墓が少なくないことを知った。中でも最も有名なのが義賊と言われる鼠小僧次郎吉。鼠小僧は長く逮捕されなかったので、その強運にあやかろうと昔から博打好きが削って帰るのだとか。どこにでも「スルリと入る」ことから、近年は受験生が削ることも多いという。

鼠小僧の本名は町田次郎吉。鼠のように天井裏から侵入するため“鼠小僧”の異名がついた。彼が他のコソ泥と違ったのは、庶民の長屋には入らず、大名・旗本など権力者の武家屋敷のみを狙う大胆さだった。武家の場合、金があるのはもちろん、奉行所に被害届けを出せば「盗賊に入られた情けない武士」として面子が潰れるので、泣き寝入りせざるを得ないと言う算段もあった。

32回の盗みを行なった時点で一度捕まり“入れ墨刑”を受ける。しかし改心することなく、1832年に37歳で二度目のお縄。自白によると、保釈後の10年間でさらに71ヵ所、90回に及ぶ盗みを重ねていた。

次郎吉が生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額は約3,120両(約3億円)。最期は市中引き回しのうえ小塚原刑場で磔にされ、首が晒された。その後、頭部は墨田区両国の回向院に、胴体は荒川区南千住の回向院(同名)に埋葬された。

前述したように墓石を削る墓参者が絶えないため、両寺とも江戸時代から対抗策がとられてきた。

両国の方は、本墓の手前にニセモノの墓「お前立ち」を置く“囮作戦”を実施。墓前で立札が「こちらの“お前立ち”をお削り下さい」と促しており、丁寧に削り用の石まで用意されている。どんどん小さくなるので、3〜5年で建て替えるそうだ。

一方、南千住の墓は2000年の初巡礼時、金網で囲って防御するという古典的な手法を講じていた。ところが2004年に再訪すると網が消えていた!

不思議に思ってお寺に問い合わせると、一般市民から「罪人でも死ねば魂は浄化され仏になっているはず。網がかかっていては、死んでも牢屋に入っているようで可哀想だ」と声があがり、住職が取り払ったとのこと。

後に墓所は大きく変化し、2011年現在は「安政の大獄」で散った吉田松陰らと一緒に、特別区画・史跡コーナーに改葬されている。次郎吉は若い志士たちや儒学者と眠っている不思議を感じているだろう。

戒名は『教覚速善居士』。“教覚”は侠客の洒落かな? 「教えを善く速く覚える」とも読めるので、これも受験生が来る理由。戒名を付けたお坊さんは、ユーモアがありますね。

鼠小僧次郎吉
かつての南千住回向院の墓(手前が鼠小僧))。2000年頃まで金網で防御されていた。背後に寄りかかる墓石は先代のもの

※『月刊石材』2011年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

小林多喜二巡礼 〜“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ

小林多喜二
表現の自由がなかった時代に、正義を訴えペンに殉じた多喜二の墓。その勇気に敬服せずにいられない

国内で訪れた最北端の墓は小樽に眠る作家、小林多喜二。今から10年ほど前、どうしても会いたくて短い夏期休暇を利用し墓参に向かった。

遠方への巡礼で重宝するのがJRの“青春18きっぷ”。普通&快速列車が1日乗り放題になるこの切符は五枚綴りで1万1,500円。1枚当たり2,300円という値段で始発から全国に移動できる。しかも日付をまたぐ快速列車は終点まで乗ってもOKという特例があるため、うまく乗り継げば東北・福島駅から九州・博多駅まで1枚で行くことも可能だ。復路は小樽と舞鶴を結ぶフェリー(所用20時間8,200円)を使えば、船賃&18きっぷ3枚分、実質約1万5,000円で大阪〜小樽を往復できる。

2000年8月、早朝に大阪を出た僕は、仙台駅のロビーで一泊した後、平泉(岩手)で武蔵坊弁慶、青森で棟方志功や沢田教一に墓参し、午後11時に函館へ到着した。

30分後に札幌行きの夜行快速ミッドナイト号が出るので、その間に軽くうどんでも食べようと考えていたら、函館駅で扉が開くやいなや、大勢の人が弾けるようにドアから飛び出した。その瞬間、長年の巡礼で培った危険予知レーダーが反応。

“こりゃ、何かヤバいぞ”

ミッドナイト号は別ホームから出るらしく、約100人が韋駄天の如く階段を駆け上った。当時、僕は33歳。周囲はほぼ全員が20歳前後の若者。彼らは体力こそ勝っていたが、旅に不慣れなのか背後の荷物がやたらデカい。こちらは着替え用のTシャツが一枚、寝るための新聞紙、文庫本、カメラ、地図だけ。シュッと追い抜き、かろうじて先頭集団に入れた。

だが、乗り換え列車を見て僕は絶句。たったの3両編成! しかも2両が指定席で、自由席は何と1両のみ! そして自由席はすでに全部埋まっていた!

驚いてる間に通路を若人たちにとられ、僕はトイレの前に立つ5人目の人間となった。札幌まで七時間。人生で最も長い夜だった。午前6時半に札幌に着き、8時に南小樽駅着。ようやく北海道の西岸にたどり着く。

小樽港を出るフェリーは2時間後の午前10時。これに乗らねば仕事に間に合わない。急いで多喜二が眠る奥沢共同墓地へ。

山の斜面に沿った大きな墓地で、“小林”という名の墓が複数あるため焦りに焦った。管理人事務所がなく、付近の民家を片っ端から尋ね回る。略図を書いてもらい、ついに墓前にたどり着いた。念のために墓石の裏側を確認して胸を打たれた。

建立者は多喜二自身、日付は『蟹工船』発表の翌年。労働問題を通して社会の矛盾を告発した『蟹工船』は発禁処分になっている。彼は爛撻鵑濃爐未も知れない瓩罰亳腓魴茲瓩討い燭里。

墓の建立から3週間後に思想犯として逮捕、起訴され、3年後に特高警察の手で命を絶たれる。まだ29歳の若さだった。

その勇気を前に、合掌する手に力がこもった。

小林
深夜の道内をひた走るミッドナイト号。連結部で寝ている人はカーブの度に体が“への字”になっていた

※『月刊石材』2011年3月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

忘れられない一期一会 〜ヘミングウェイに会いたくて

ヘミングウェイ
木々の間に眠るヘミングウェイ。フレミングさんが先に見つけた

墓地は基本的に郊外が多く、観光ルートから離れているために、地元のローカルバスや徒歩で向かうことが多い。たどり着くまで大変だけど、その分たくさんの出会いがある。

2000年夏、僕は初めて全米一周の墓巡礼を敢行した。期間は1ヵ月。

グレイハウンドという長距離バスが全土を結んでおり、一ヵ月乗り放題チケットが当時37,000円だった。めちゃくちゃ安い。夜行バスにも乗車できるため、交通費と宿代の問題が一気に解決。墓地は無料だから、昼に墓参、夜に移動というサイクルで周っていけば、理論上は食費を入れても10万円以下で全米一周が可能だ。

旅の終盤に予定していたのが、アイダホ州ケッチャム村に眠るノーベル賞作家ヘミングウェイの墓参だ。作家として名声を得た後も、独裁者フランコと戦うためにスペイン内戦に身を投じた行動する男。こちらも行動力で応えたい。

ケッチャムはバスの路線から大きく離れていた。停車中に地元の人に交通手段を尋ねたところ、隣町からタクシーを呼んで往復すると10万円以上かかると言われ卒倒寸前に。ケッチャムに向かって涙目で合掌し、バスに戻った。

しばらく走行すると後ろから右肩をトントン。振り向くと初老の紳士。

「君、さっきは泣いてたね」。

事情を話すと“フム”と少し考え、「明日、私はレンタカーでケッチャム方面に行くので乗せてあげよう」と提案。願ってもない幸運に耳を疑った。

問題は行程だ。紳士は美しい国立公園を眺めつつ進む4、5日の日程を予定していた。しかし、僕は帰国便が迫っており日帰りせねばならず、理由を話して断念した。 その数分後、再び肩を叩かれた。

「OK! レッツ・ゴー」。

男性の名はフレミングさん。デンマーク人の旅人で51歳とのことだった。翌朝7時に出発。ケッチャムは予想以上に遠く、ほぼノンストップで走行したにもかかわらず、片道5時間もかかった。

雄大なロッキー山脈を横目に車は疾走し正午に到着。食堂でサンドイッチを食べて腹ごしらえし、村の墓地へ。

ヘミングウェイの墓は木立の間にあり、フレミングさんいわく「彼は自然を愛していたからこの場所を気に入っているだろうね」。

1時間滞在した後、再び五時間をかけて出発地に戻った。実に往復11時間! 

いくら金欠とはいえ、ガソリン代だけでも払おうと財布を取り出すと、フレミングさんは片手で制止して首を振った。

「私はヘミングウェイが大好きなんだよ。しかし墓がケッチャムにあることは知らなかった。墓参りができて良かった」。

そして別れの握手。遠ざかる車を見送りながら、初対面の相手にこんなにも親切になれる人がいるのかと感激し、“この人に会えただけで、生まれてきたモトをとった”と思った。

そしてヘミングウェイに感謝した。“あなたが作品を残してくれたおかげで、フレミングさんと会えました”と。

ヘミングウェイ
大恩人フレミングさんと、アイダホ州を疾走したレンタカー

※『月刊石材』2011年2月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

我が墓巡礼ライフの原点、すべてはこの人から始まった 〜心優しき文豪ドストエフスキー

ドストエフスキー
次から次へと巡礼者が絶えないドストエフスキーの墓(2005年、再巡礼時)

僕が“墓マイラー”になるきっかけとなった、生まれて初めて訪れた恩人の墓、ロシアの文豪ドストエフスキーです。

『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』、これらの作品から伝わってくるのは、作者の圧倒的な優しさ。人間の残酷さや弱さを全面に出しながら、それでもなお人類を信じていたいという切実な叫び。常に弱者の立場になって世界を見つめ続ける彼の存在に、いったい何度救われたことか。

20歳の誕生日を迎える前に、なんとしてもドストエフスキーの墓前で「スパシーバ(ありがとう)」と一言伝えたくなり、しまいには、爐気發覆い反誉犬一歩も前に進まない瓩隼廚Δ茲Δ砲覆蠅泙靴拭

ところが1987年当時は、まだ社会主義体制のソビエトであり、冷戦下ゆえ気軽に自由旅行できる状態ではありませんでした(現在でも事前に宿泊先を申告しないとビザが下りません)。そこで僕が考えたのは、墓地に近いホテルを使うソ連ツアーを選び、隙を見て巡礼に行くというものでした。

すると、なんと墓地の真正面に建つ“ホテル・モスクワ”を利用するツアーがあるではありませんか! レニングラード(現ペテルブルク)に着いた僕は、夕刻にチェック・インした後、夕食までの30分間の小休止の間にホテルを抜け出し、墓地へ駆け込みました。

カタコトのロシア語で門番に墓の場所を尋ね、ようやく墓前に立てた時のあの感動。土の上に手を置いた時、雷に打たれたように全身に電気が流れました。それは「彼は実在したんだ」という歓喜の電流でした。

教科書で見る彼はどこか架空の人物のようでリアリティがなかったのですが、墓に手を置くと、生きて死んだからここに墓があると、“あの、底なしに深い思いやりを持った人物は本当にいたんだ”と体感し、涙腺が決壊しました。その後、深呼吸して周囲を見渡すと、チャイコフスキーやムソルグスキーといった大作曲家たちも同じ墓地に眠っていました。

“白鳥の湖”など、美の極みともいえる音楽を生み出した人物も実在していた…、人間万歳!

墓地から出る時に僕の心をよぎったのは、「待てよ。じゃあ、シェイクスピアにはお礼を言いに行かなくていいのか? 夏目漱石は?手塚先生は? 他にもたくさん恩人がいるじゃないか!」。

それから僕の果てしない巡礼行脚が始まりました。

ドストエフスキー
「僕、あなたに会って人生が変わったんですよ〜ッ!」(2005年)

※『月刊石材』2011年1月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

ページトップへ