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墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里」

三千里

絵/dskさん

墓マイラー・カジポンさんの「墓を訪ねて三千里

◎墓巡礼リスト


・我が墓巡礼ライフの原点、すべてはこの人から始まった ~心優しき文豪ドストエフスキー

・忘れられない一期一会 ~ヘミングウェイに会いたくて

・小林多喜二巡礼 ~“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ

・鼠小僧次郎吉巡礼 ~お寺と墓参者の、約180年という長きにわたる攻防戦

・爆走!闇タクシーで珍道中 ~キューバの英雄チェ・ゲバラ

・織田信長 ~戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上

・スヌーピーの生みの親チャールズ・シュルツ ~ パトカーで墓巡礼

・ジャマイカ大疾走! “レゲエの神様”ボブ・マーリィ巡礼

・農民として生まれ武士として散る ~新選組局長・近藤勇

・世阿弥元清~能を究めた舞の名手を訪ね、非公開寺へ

・オードリー・ヘプバーン ~世界を魅了した銀幕の〝妖精〟

・ベートーヴェン巡礼 ~巨匠の側に有名作曲家が大集合!

・平 清盛 ~貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長

・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ ~墓が語る兄弟愛

・坂本龍馬~「日本を今一度、洗濯いたし申し候」

・チャップリン ~ヒトラーと戦った喜劇役者

・岡本太郎 ~前衛美術運動の旗手は、お墓もインパクト絶大

・“ピアノの詩人”ショパン ~ハートは祖国に戻った

・民衆を救うため命がけの蜂起! ~日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

・オーギュスト・ロダン ~“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

・黒澤明 ~銀幕を通して世界との架け橋に

・絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 ~ジャン=フランソワ・ミレー

・夏目漱石 ~文豪は“安楽椅子”でくつろでいた

・ドイツの古都に並ぶ友情の墓 ~ゲーテ

・世界一有名な日本人~天才絵師・葛飾北斎

・夭折の画家モディリアニとジャンヌ~2人は同じお墓に

・演技も生き方も破天荒!~スター俳優、勝 新太郎

・“三重苦”を乗り越えて人々の希望に~ヘレン・ケラー&サリバン

・圧巻の行動力!~18ヵ国語を操った博物学者・南方熊楠

・命がけで真理を訴えた天文学の父~ガリレオ・ガリレイ

・ユダヤ人6000人の生命を救った!“日本のシンドラー”杉原千畝

・南太平洋タヒチの絶海の島へ~画家ゴーギャン巡礼

・手塚治虫~生命の尊厳を描き続けたマンガの神様

・ブルース・リー~世界にカンフー・ブームを巻き起こし32年を疾走

・西郷隆盛~西南戦争に散った私学校生徒と眠る

・国民に夢を語った最年少の大統領~ジョン・F・ケネディ

・“俳聖”松尾芭蕉~自然や人生の洞察を深く歌い込み俳句を文学に昇華

・日本美術を守った日本人の大恩人~アーネスト・フェノロサ

・詩に昇華された愛~高村光太郎と智恵子

・永遠の青春スターとしてハリウッドの伝説となったジェームス・ディーン

・木戸孝允~急進倒幕派の長州をまとめ明治の世を切り開く

・アンネ・フランク~悲しみの中でも希望を捨てなかった15歳の少女

・明智光秀~あえて謀反者となり「天魔」を討つ

・「神のごとき」と讃えられた男~ルネサンスの巨人ミケランジェロ

・連合艦隊司令長官・山本五十六~英雄と讃えられた非戦派の苦悩

・“サッチモ”の愛称で慕われたジャズ創世記の巨星ルイ・アームストロング

・手まり遊びで仏を語る~歌と書を愛した良寛さま

・悲しみを明るいメロディーに変えて~神童モーツァルト、35年を駆け抜ける



墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

悲しみを明るいメロディーに変えて~神童モーツァルト、35年を駆け抜ける

モーツァルト
悲しむ天使が寄り添うザンクト・マルクス墓地のモーツァルトの墓(二代目)。初代の墓石は体を地下に残してよそへ移されたため、有志が廃物の石材を寄せ集めて造り直した

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年に、オーストリアのザルツブルクに生まれた。ひょうきんな性格で姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記している。

3歳からピアノを弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。5歳のときに作曲を開始し、8歳で交響曲を、そして11歳で最初のオペラを作曲した。

音楽家の父は各国の宮廷で息子の神童ぶりを披露し、文豪ゲーテは7歳のモーツァルトの演奏を聴き、「その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する」と感嘆した。

一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に1人で作曲しているのか確認するため1週間監視して書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて天才であることを証明した。

14歳のときにヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で楽譜持ち出し禁止の秘曲『ミゼレーレ』を聴いた際は、この9つのパートが10分以上も重なりあう複雑な合唱曲をすべて記憶して書き起こし、人々を驚嘆させた。ローマ教皇はモーツァルトを呼び出すと、叱責せずにその才能を讃え、『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。

25歳でウィーンに移住し、オペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』、17曲にのぼるピアノ協奏曲、弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など傑作群を生み出し、3大交響曲の第39番、40番、41番『ジュピター』をわずか1ヵ月半で仕上げた。

モーツァルトはまず頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。

30代になるとモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれていく。求められたのは、心地よい音楽、聴きやすい音楽だったが、モーツァルトは芸術性を高める道を進み、「難しい」「疲れる」と敬遠されたのだ。次第に演奏会は不入りになり、経済状態は極度に悪化した。

「今時は、何事につけても、本物は決して評価されません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)

1791年、病に倒れたモーツァルトは死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「涙の日」を8小節書いたところで力尽きた。享年35歳。

一家は貧困から墓を建てる余裕がなく、亡骸は郊外のサンクト・マルクス墓地の貧民用共同墓地(ただの大きな穴)に、他の死者たちと一緒に投げ込まれた。現在、この墓地のどこかにモーツァルトは眠っているという認識の上で墓が建てられている。

「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)


モーツァルト
ベートーヴェンやシューベルトが眠るウィーン中央墓地に立つモーツァルトの記念碑。この女神像はもともと別の墓地にあったモーツァルトの墓石(没後約70年目にウィーン市が制作)で、没後100年目に墓石だけがここに移設された

※『月刊石材』2014年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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手まり遊びで仏を語る~歌と書を愛した良寛さま

良寛
隆泉寺の良寛禅師墓。付近には自筆で「南無阿弥陀仏」と書かれた碑も立つ。
墓前の樹にズズメバチの巣があり、手に汗握る墓参だった

「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」
(里で手まりをつきながら子どもらと遊ぶ春の一日が楽しく、このまま暮れずともかまわない)

心優しい歌人、書家として知られる江戸後期の禅僧・良寛は、1758年に新潟・出雲崎の名家に生まれた。父は地元の名主であったが、良寛は人の上に立つことを嫌い、家を継がずに17歳で出家する。

20代は岡山の高僧の元で修行に明け暮れ、32歳で悟りの証明書となる印可状を授けられた。翌年から諸国を托鉢行脚で巡り始め、40代になって故郷に戻る。

「草枕 夜ごとに変はる 宿りにも 結ぶは同じ ふるさとの夢」

良寛は出雲崎付近を無一文で転々と移り住んだ後、国上寺の五合庵で10数年を過ごし、54歳で代表作となる自選歌集・『布留散東』をまとめ、この頃から多くの名筆を残した。

ある日、良寛の草庵を訪れた長岡藩主・牧野忠精から「城下に招きたい」と直々に説得されたが、「焚くほどは 風がもて来る 落葉かな」(煮炊きに必要な落ち葉は風が運んでくれ、山里の暮らしに何の不足もない)の一句を無言で指し示し、要請を断ったという。

70歳を前に老いを感じた良寛は、30年過ごした国上山から下り、島崎村(長岡市)の知人宅に身を寄せて最後の5年間を送った。この地で28歳の若い尼僧・貞心尼が弟子入りし、40歳も年下の彼女に恋をした。

1831年、良寛は貞心尼に看取られ72歳で他界し、のちに彼女は良寛の和歌を集めた『蓮の露』を編集した。

良寛は出世欲と無縁で、生涯自分の寺を持たなかった。全ての人に愛情深く接し、庶民でも分かる平易な言葉を選んで仏教を広めた。そして、「子供の純真な心こそが仏の心」と悟り、懐には常に手毬を入れ、子供たちとよく遊んだ。かくれんぼで隠れたまま朝になったという逸話も残る。

「つきてみよ 一二三四五六七八 九の十 十をおさめて またはじまるを」
(一緒にまりをついてご覧。一二三四五六七八九十と、十が終わるとまた一から始まるね、これが仏の教えだよ)

生命を尊び、庵の下に生えてきた竹の子のために床に穴を開けたという。禅僧でありながら酒を好んだと伝えられ、親しみやすい良寛の姿が思い描かれる。

良寛の書は生前から奪い合いになるほど人気があり、人々が大切に保管したため約1,200首が残る。川端康成、水上勉など研究者は多い。

墓は晩年に世話になった木村家の菩提寺である隆泉寺(長岡市)に立ち、表面に次の歌が刻まれる。

「やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿立てり かみなづき 時雨の雨に濡れつつ立てり」
(向かいの丘に雄鹿が立っている。10月の冷たい時雨に濡れながら凜と立っている)

建立時、孤独な鹿と良寛を重ねたのだろう。

辞世は「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」
(形見に何を残そうか。春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉の葉っぱかな)

自然の恵みを感じる心を大切にして歌い続けて欲しいという、後世の私たちに向けたメッセージだ。


良寛
新潟県出雲崎の生家跡に建つ良寛像は、母の故郷・佐渡島を見つめている。
背後の良寛堂には良寛が昼寝で枕にした「枕地蔵」が収められている

※『月刊石材』2014年11月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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“サッチモ”の愛称で慕われたジャズ創世記の巨星ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロング
「Louis Armstrong」の上に愛称の“Satchmo”(サッチモ)が金文字で彫られている。
1.5メートルほど手前に夫婦のプレート型墓標もあり

ルイ・アームストロングは「キング・オブ・ジャズ」と讃えられたジャズ史上最初の天才であり、トランペットの即興演奏を得意とし、高い音色を長時間キープするなど優れた演奏技術で知られた。

ヴォーカリストとしても有名で、「ズビズビ・ダバダバ」と言葉を即興的につなげ、声を楽器代わりに使う歌唱法“スキャット”の発明者として知られる。

愛称は“サッチモ(大口)”。由来はエラ・フィッツジェラルドが彼の大きな口を「Such a mouth ! 」と呼んだことによる。

サッチモは1901年にルイジアナ州ニューオーリンズの裏町で生まれた。少年時代は非行を繰り返し、新年を祝うために道端で発砲したところ、警官に見つかり少年院へ送られる。少年院でブラスバンドに入ったことでコルネットと出会い、楽器演奏の楽しさに目覚めた。出所後は町のパレードなどで演奏して人気者となり、16歳でプロ・デビューを飾る。

1925年(24歳)、当時のジャズの中心地シカゴにて、念願だった自身のバンド“ホットファイブ”を結成。サッチモが活躍し始めた1920年代は、それまでバンド全員が揃って演奏するスタイルが一般的だった。彼は演奏スタイルを革新し、曲の途中に独自の「ソロ即興パート」を入れ変化をつけた。たちまち人気に火が付き、翌年にはジャズ史上初のスキャット曲「ヒービー・ジービーズ」を録音。この曲を聴いたシカゴ中のジャズ・ファンが、サッチモのしゃがれ声に憧れて風邪を引こうとしたという。スキャットのおかげで、人々は同じ歌を様々な歌い方で楽しめるようになったのだ。

1957年(56歳)、南部アーカンソー州のリトルロックで高校入学を希望した黒人学生九名が、人種差別により入学を阻止される事件が起きた。差別主義者のフォーバス知事は、登校初日に州兵を高校に派遣し、黒人学生の登校を実力で阻止する。アイゼンハワー大統領はリトルロックの出来事を知りながら何も行動しないため、怒ったサッチモはメディアのインタビューで「フォーバス知事は無学で、アイゼンハワー大統領は意気地なしだ」と感情を爆発させた。

彼自身、これまで公演先で白人と同じホテルへ泊まれなかったり、劇場で黒人専用の出入口を強制されるなど、何度も差別を体験していた。サッチモの怒りは新聞で大きく取り扱われ、すぐさま世界中に伝わった。マネージャーは大統領に対する非難発言の撤回を勧めたが、サッチモは逆に批判を強め、予定していたソビエト公演を「黒人をこのように酷く扱うアメリカを代表してソビエトに行くことは出来ない」とキャンセルした。

対応を世界から注視されたアイゼンハワーは、かつてノルマンディーで戦った米軍きっての先鋭部隊・第101空挺師団をリトルロックへ派兵した。黒人学生らは軍に護衛されながら、ついに入学を果たすことが出来た。

63歳で録音した『ハロー・ドーリー』は当時人気絶頂だったビートルズを抜き全米No.1ヒットに輝き、3ヵ月続いていたビートルズの連続1位記録をストップさせ音楽関係者を仰天させた。

1971年、ジャズ界の巨人は69年の人生を終える。生涯のレコーディングは約1,500曲。どんなに軽いポピュラー曲でもサッチモが歌うと深みや哀愁が生まれ、人々は歌から人生を感じ取った。

墓はニューヨーク州のマンハッタン島の東側、クイーンズ地区のフラッシング墓地。墓石の上部にはトランペットの彫刻が置かれている。「ジャズとは自分が何者であるか、でしかない」(ルイ・アームストロング)。


ルイ・アームストロング
上部のトランペット型オブジェには溢れんばかりのペニー銅貨が。
出演映画『五つの銅貨(ファイブ・ペニーズ)』を意識してファンが置いていくのだろう

※『月刊石材』2014年10月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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連合艦隊司令長官・山本五十六~英雄と讃えられた非戦派の苦悩

山本五十六
多磨霊園の墓。墓石の文字は米内光政が揮毫。右に東郷平八郎元帥、左に古賀大将の墓が並ぶ

「アメリカと戦争することになれば、この日本は二度三度も焦土と化すだろう」(山本五十六)。

連合艦隊司令長官、山本五十六(1884-1943)は軍人でありながら戦争回避に尽力したことで知られる。新潟県出身。父が56歳の時に生まれたことから“五十六”と名付けられた。

超難関の海軍兵学校に次席で入校し、20歳のときに日露戦争に出征。日本海海戦では巡洋艦『日進』でバルチック艦隊と対決し、その際に砲弾の炸裂で左手の人さし指と中指を失った。30代半ばからハーバードに留学し、さらに欧州各国を視察。米国ではケタ違いの国力に圧倒された。当時、原油産出量は日本が741万バレル、米国は4億4293万バレルと約60倍の差があり、日本では珍しかった自動車が、年間200万台も生産されていた。

1939年、陸軍を中心に独伊との軍事同盟を求める声があがる。両国はファシズム国家であり、同盟を結べば米英との対立は避けられない。山本は祖国を危険にさらす軍事同盟を阻止するため、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美と共に抵抗した(米内も井上も海外駐在経験があった)。

山本ら“知米・非戦派三人衆”は「腰抜け」と批判され、右翼は山本を国賊と呼び、暗殺計画が噂された。あくまでも同盟反対を貫く山本は遺書を記す。「死んで君国に報いるのは武人の本懐だが、それが戦場であろうがなかろうが変わりはないのだ。いや、戦場で死ぬことよりも俗論に抵抗し、正義を貫いて死ぬ方が本当は難しく大変なことなのだ」。

翌年、新しい海軍大臣・及川古志郎が東条英機に押し切られ、日独伊三国同盟の締結が決定する。この報を聞いた山本は及川に詰め寄った。「政府の物資計画は八割まで英米圏の資材でまかなっているが、この先は英米から資材は入らぬ。その不足を補うため、どういう計画変更をやられたのか聞かせていただきたい」「もう勘弁してくれ」「勘弁ですむか!」。

山本は近衛首相から「対米戦争をすればどんな結果になると思うか」と問われ、次のように返答した。

「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」。

その後、山本が恐れていた通り、米国は対日石油禁輸に踏みきった。 日本は追い詰められ対米開戦へと突き進み、皮肉なことに非戦派の山本が攻撃作戦を立案する立場になってしまう。「個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。

山本は開戦と同時に先制攻撃で大打撃を与え、相手の戦意をくじいて一気に戦争終結へと導こうとした。1941年12月8日、350機の航空機で真珠湾の米艦隊を奇襲し「アリゾナ」など戦艦五隻を沈没、9隻を大破させ、188機の飛行機を破壊した。国民は山本を英雄視したが敵空母を取り逃がしており、これが翌年のミッドウェー海戦における大敗に繋がる。

1943年4月18日、山本は南方最前線のブーゲンビル島バラレ基地へ将兵を見舞うため飛行中に、暗号電報を解読した米戦闘機18機の待ち伏せを受けた。搭乗した一式陸攻は撃墜され、右手に軍刀を握ったまま絶命する。享年59。平民が国葬にされたのは、戦前では山本ただ1人である。

墓は東京の多磨霊園・特別区に建てられ、後に遺骨が新潟県長岡市に改葬されたが、墓石は多磨霊園に残された。「俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃぁ、それでもいいよ」(友への手紙)。


山本五十六
故郷長岡の長興寺の墓。戒名「大義院殿誠忠長陵大居士」が彫られている。
近所の記念館では遺品を展示

※『月刊石材』2014年9月号より転載


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1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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「神のごとき」と讃えられた男~ルネサンスの巨人ミケランジェロ

ミケランジェロ
サンタ・クローチェ教会のミケランジェロの墓。遺言に従い、故人が心から愛していたフィレンツェに葬られた

「最大の危険は目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎてその低い目標を達成してしまうことだ」(ミケランジェロ)。

美術史上、最も偉大な芸術家の1人であるミケランジェロは、彫刻家、画家、建築家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろい。

1475年にフィレンツェ近郊で生まれ、10代前半から絵画や彫刻で頭角を現した。24歳のときに、十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱える若きマリアの彫像『ピエタ』が完成すると、そのあまりの美しさに人々は「神のごときミケランジェロ」と感嘆し、名声は瞬く間に広がった。

26歳から4年の歳月をかけて彫り上げた『ダビデ』像は高さ4.3メートルにもなり、旧約聖書の英雄を内面の炎まで表現したこの作品を、人々は「古代ギリシャ・ローマ彫刻を超越した」と絶賛、フィレンツェのシンボルとして市庁舎の前に設置した。この大作に挑む際、ミケランジェロが習作を作らず、いきなりノミで刻み始めたことから、驚いた周囲の者が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。

33歳からはローマ教皇の依頼でシスティナ礼拝堂の天井画(旧約聖書「創世記」の物語)に挑む。最初は5人の助手を使って制作していたが、完全主義者で短気な彼は助手を追い出し、ひとりで土を練り、壁を塗り、絵筆を握り続けた。高さ20メートルの足場で立ったままエビ反りになり、4年がかりで奥行き約40メートル、幅約14メートルの超大作を描ききった。登場人物は400人に達し、そのすべての人間に個性があった。

四半世紀後、61歳になった彼は同じ礼拝堂の壁に、今度は『最後の審判』(14メートル×12メートル)を描き始め、五年を費やして完成させた。中央に右手を掲げて審判を行うキリストを配置し、その左側には祝福され天国に昇る人々を、右側には罰せられ地獄に墜ちる人々を描いた。彼はこの作品に自画像として異形の“人間の皮”を「地獄側」に描き込んでいる。

晩年は建築家としてサン・ピエトロ大聖堂などの建築現場に立った。詩人としても多くの詩を残し、メディチ家の墓にそえた像と故人に次の四行詩を書いた。

「われ、石に眠るこそ、楽しみなり/破壊、恥辱の多き世に/見ず聞かざるは、幸せなり/されば目覚ますな、ひそかに語れ」
 
1564年、88歳のミケランジェロが死を前に呟いた言葉は、「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになってきたと感じるときに、死なねばならぬことだ」。現在、ガリレイやマキャベリの墓があるサンタ・クローチェ教会に眠っている。

僕らは日々の生活の中で、「人間の一生なんて短い、出来ることなどしれている」、そんな言葉を聞くことがある。でも、システィナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』の前に初めて立ったとき、“人間はたった1人でこんなことが出来るのか! 4、5年でここまで描けるものなのか!”と、人間の可能性の極限を見た思いがした。

そしてサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』の美しさに、キリスト教徒ではなくとも泣きそうに。無実で処刑されたキリストと、死んだ子を抱く親の気持ち。文化や言葉を超えて伝わる悲しみ。

石の彫刻は500年前の姿のまま今に残り、ルネサンス時代の人々と時間の壁を超えて感動を共有する。


ミケランジェロ
サン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』。これほど精神的な深みを持った作品を24歳の青年が彫り上げたことに驚愕

※『月刊石材』2014年8月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

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1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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明智光秀~あえて謀反者となり「天魔」を討つ

明智光秀
大津市西教寺の墓。比叡山の麓に建つ明智の菩提寺に一族の墓が並ぶ

2014年6月、“本能寺の変”直前に四国の覇者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三に送った手紙が岡山で見つかったと報道された。元親の正室は利三の妹。その内容から、信長と元親の板挟みになった光秀の苦悩が浮き彫りに。手紙には、元親が信長に屈服する意志が書かれていた。だが信長は四国征討軍の派遣を決定。光秀の胸には「元親は恭順の意を示したのになぜ派兵するのか」という思いがあっただろう。

光秀が本能寺を襲ったのは、四国征討軍の出発予定日。襲撃部隊を斉藤利三が指揮しており、信長の死によって四国派兵は中止となった。この件は、間違いなく謀反の理由のひとつ。

光秀は荒くれ者が多い織田家臣団にあって、和歌や茶の湯を愛した風流人。斎藤道三や越前朝倉氏に仕えた後、39歳で信長の家臣となり、朝廷との交渉役となって織田家を支えた。武人としては鉄砲の名手であり、通常の倍ほど遠い的に百発連続で命中させ、うち68発が中心を撃ち抜いた。

信長は光秀を高く評価して滋賀郡と築城資金を与え、光秀は坂本城を完成させ、家臣団で最初に一国一城の主となった。秀吉や柴田勝家など古参の家臣がいるなか、織田に来て僅か4年で出世頭となる。この評価は10年後も変わらず、信長は手紙に「丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し」と手放しで称賛している。

だが、信玄が「天魔信長」と糾弾した比叡山の焼討ち以降、残虐度を増していく主君に光秀は戸惑う。伊勢長島で、信長は一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。土地に子孫を残さぬこの作戦は、「根切り」と呼ばれた。

北陸では、住民全員を一揆衆と見なし4万人を殺害。武田を滅ぼした後、信長は武田の菩提寺が信玄の子・勝頼を供養したことに激高して放火し、同寺の国師もろとも僧侶150余人を焼き殺した。“国師”は天皇が認定した、天皇の師。国師を殺すことは、天皇の権威を全く認めていないということ。

1582年、信長は『神格化宣言』を発布。安土城内に巨大な石を安置し、「この石を私と思って拝め」と諸大名や領民に強制した。信長が命じればただの石が神になるのだ。また、信長を本尊とする寺を建立して信長像を置き、「神仏を拝まず信長を拝め」と朝廷に命じた。これは目に見える形で、自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。信長が官位を返上したことも朝廷のメンツを潰した。

公家は光秀に信長抹殺を期待するようになる。天皇の側近クラスが集まった秘密の連歌会で、光秀は発句をこう詠んだ。『時は今 雨が下しる 五月哉』=“時”は明智の本家、土岐氏。“雨”は天。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る5月なり」。

これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐『水上まさる、庭の松山』=“皆の神(朝廷)”が活躍を待つ。連歌界の第一人者・里村紹巴『花落つる、流れの末をせきとめて』=“花”は栄華を誇る信長、花が落ちるよう勢いを止めて。旧知の大善院宥源『風に霞を、吹きおくる暮』=信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払ってくれ。

この5日後、光秀は「敵は本能寺にあり」と謀反を起こし主君を討つ。朝廷は喜び、光秀に祝儀を贈った。その後、光秀は秀吉に敗れ、土民の竹槍が致命傷となる。

享年54歳。33年後、斎藤利三の娘・春日局が支えた徳川が豊臣を滅亡させ、明智方の恨みは晴らされた。善政により領民に慕われた光秀の墓は六ヵ所。いずれも人々が大切に守っている。


明智光秀
京都市東山区の首塚。遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたもの。胴塚は伏見区にある

※『月刊石材』2014年7月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

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企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

アンネ・フランク~悲しみの中でも希望を捨てなかった15歳の少女

アンネ・フランク
ベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ)の跡地に建てられたアンネと姉マルゴットの墓。
墓参者のメッセージが小石や手紙に書かれている

「約束しましょう。どんなことがあっても、前向きに生きてみせると。涙をのんで、困難のなかに道を見いだしてみせると」。

2014年2月に『アンネの日記』破損事件が報道された際、人種差別の犠牲になった少女の悲劇と教訓が生かされていないことに衝撃を受けると同時に、筆跡鑑定で真筆が証明された原本が公開されているのに、犯人が日記を偽物と供述していることが残念でならなかった。

アンネは4歳の時に、ナチス台頭を恐れてドイツからオランダに一家で脱出した。だが11歳の時にオランダはドイツに占領され、反ユダヤの嵐が吹き荒れる。アンネは13歳の誕生日に父から贈られたサイン帳に日記をつけ始め、冒頭にこう記した。

「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです」。

やがて強制労働を目的にしたユダヤ人狩りが行われるようになり、危機感を抱いた父オットーは、4階建ての会社の建物を改築して秘密の部屋を作り、一家で身を隠した。後に別の3人家族と歯科医の男性が加わり、8人で潜伏生活を送る。

隠れ家の生活が2年目に入り、息苦しい日々の中で、アンネは共に潜伏している3歳年上のペーターと恋仲になった。アンネはファーストキスのときめきを日記に綴る。だがペーターとの永遠の別れは4ヵ月後に近づいていた。

1944年8月、密告を受けたゲシュタポ(秘密警察)が隠れ家に乗り込み、全員が逮捕された。8人はアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、到着すると男女に分けられた。アンネと父は今生の別れとなった。

すぐに労働能力による「選別」が実施され、一緒に送られたユダヤ人1,019人のうち549人がガス室送りとなった。アンネは丸刈りにされ、腕に囚人ナンバーを刺青された。11月、アンネ姉妹は伝染病が蔓延するベルゲン・ベルゼンの収容所へ送られ、新たな選別でアウシュヴィッツに残された母は餓死した。

アンネ姉妹は4ヵ月ほど生存していたが、1945年3月にチフスで絶命した。翌月に同収容所を英軍が解放しており、救助直前の死であった。オーストリアの収容所に送られたペーターもまた、米軍に解放されたその日に18歳で息を引き取った。

唯一の生存者となったオットーがオランダに戻ったとき、知人が隠れ家跡から発見したアンネの日記を手渡した。アンネの他界から2年後、みずみずしい感受性で記された日記は出版され大ベストセラーとなる。2009年、『アンネの日記』はユネスコによって「世界の記憶」に登録された。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は人里から離れた森の中にある。バス停から40分ほど歩いて敷地に入ると、野原に墓標が点在していた。個人の墓石がある一方、大きめの墓石には「ここに2,500人が眠る」「ここに5,000人が眠る」と記されており息を呑んだ。以前アウシュヴィッツを訪れた際は、徹底して火葬 されこのように千人単位の埋葬地を見かけなかった。

アンネの墓前には様々な言語の手紙があった。正確なアンネの埋葬場所は誰にもわからない。だが、この石の墓標がアンネを慕う世界中の人々を結びつけていた。

「いろんなことがあるけれど、私はまだ人間は心の底では善良なのだと信じています」(連行直前の日記)。


アンネ・フランク
収容所跡の資料館には世界中の言語で書かれたアンネへの手紙が。
これまで墓前に置かれたものが
ここで保管されているのだろう

※『月刊石材』2014年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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木戸孝允~急進倒幕派の長州をまとめ明治の世を切り開く

木戸孝允
386柱もの墓碑が立ち並ぶ霊山墓地の中で、夫婦で並ぶのは木戸と川瀬太宰の2組だけ。
その意味では幸せな2人といえる

「木戸について最も感心なことは、長州出身にも拘らず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられたことだ」(大隈重信)。

幕末を描いた大河ドラマでは、坂本龍馬が『竜馬がゆく』『龍馬伝』で2度主役になり、維新三傑の西郷隆盛と大久保利通も複数回取り上げられる一方、木戸孝允(桂小五郎)だけが一度もスポットを浴びていない。ここは木戸ファンとしてその魅力を語ることで盛り上げていきたい。

木戸は1833年に長州で藩医の家に生まれ、16歳で尊皇思想家・吉田松陰の松下村塾に入門。松陰からは「事をなすの才あり」と高く評価された。剣術修行のため十九歳で江戸へ出て、当時の江戸三大道場のひとつ、神道無念流・練兵館に入った。すぐに頭角を現し、1年で免許皆伝を得て塾頭となる。これにより木戸は剣豪として人々に知られ、後年、敵対する近藤勇ですら「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と評した。江戸でペリーの黒船艦隊を目撃した木戸は、事なかれ主義の幕府では時局に対応できないと、25歳で帰藩し倒幕運動に身を投じていく。とはいえ、過激な武力闘争を支持せず、開国派とも交流しながら現実路線を主張した。

新選組が志士9人を斬り捨てた池田屋事件では、すんでのところで難を逃れた。1864年(31歳)、「禁門の変」で長州が薩摩に敗北して都から追われると、木戸は物乞いの姿に変装して都に残り、幕府側の動向を探った。この時、木戸に握り飯を差し入れてくれた京都の芸妓“幾松”こそが、後に夫人となった松子。松子は13歳で舞妓となり、すぐに祇園の人気芸妓となった。利発で美しく、笛や踊りが上手な松子に木戸は惚れ込み、松子も理想肌の木戸を愛し、危険を顧みず木戸をよく助けた。

1866年、大局を見ていた木戸は、龍馬や小松帯刀を仲介として、倒幕のために当時最強の薩摩藩と薩長同盟を結ぶ。藩内は「禁門の変」の敗北で薩摩への憎悪が渦巻いており、木戸は同盟反対派に暗殺される恐れがあった。そうならなかったのは、木戸自身が「禁門の変」で子の勝三郎(享年17)を失っていることもあるだろう。勝三郎は三歳から育ててきた養子。木戸の悲しみを知っているからこそ周囲も耳を傾けたのではないか。

木戸は真に倒すべきは幕府であると藩論をまとめ、薩摩と協力して幕府に圧力をかけ、同盟翌年に大政奉還を実現させた。血の気の多い長州藩武闘派に「逃げの小五郎」と揶揄されながらも、言葉や人脈を大切にして明治維新に漕ぎ着けた。

維新後は新政府で手腕を振るい、国内の近代化を進めていった。維新六年後に台湾出兵を決定した政府に対しては「今は内政に集中すべき」と強く抗議し参議を辞任。高い人望から政権へ復帰するよう説得を受けたため、三権分立や二院制議会確立など立憲制への移行を条件に復職した。だが、大久保の強権を嫌って翌年再び辞任する。

木戸は以前から原因不明の脳発作に苦しんでいたが、政府内の権力闘争に心を痛めて病気が悪化。そこへもって1877年に西南戦争が勃発した。かつての盟友・西郷との戦いに苦悩し、木戸は京都で倒れる。見舞いに来た大久保の手を握り、もうろうとしながら「西郷もいいかげんにしないか」とつぶやき他界した。享年43歳。

松子は出家し、毎日墓前を訪れて墓を護った。現在、龍馬や中岡慎太郎も眠る京都の霊山墓地の最上部に夫妻の墓は仲良く並ぶ。


木戸孝允
手前が松子、奥が孝允の墓。松子は新選組に連行されても木戸の居場所を言わなかった。
木戸他界の9年後に44歳で病没し、葬儀には1000余人が参列した

※『月刊石材』2014年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

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1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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永遠の青春スターとしてハリウッドの伝説となったジェームス・ディーン

ジェームス・ディーン
裏表に名前があり、レコードでいうなら「両A面シングル墓」。
僕が確認した同タイプの墓は、アウトローのデリンジャー、幕末の土佐藩家老・後藤象二郎のみ

「まだまだ自分のことを何分の一も知っちゃいない。…だから生きることにせっかちなのさ」(ジェームス・ディーン、死の1週間前に)。

主演俳優になって半年足らず、24歳の若さで他界したジェームス・バイロン・ディーンは1931年にインディアナ州で生まれた。文学好きの母は詩人バイロンの名をミドルネームにした。九歳の時に母がガンで病没すると、父は仕事の多忙を理由に、農家の姉夫婦にディーンを預けた。10代で演劇の魅力に目覚めたディーンは、ロスのカリフォルニア大学(UCLA)演劇科に進む。

演技力が評価され19歳でペプシのCMに出演したが、ディーンの悲願は映画出演。20歳で『折れた銃剣』のエキストラとして銀幕デビューを果たす。しかし、4本続けて出演するもすべて端役で名前さえ出ない。ディーンは演技を磨くためニューヨークに移り、名門演劇学校アクターズ・スタジオに応募する。そして150倍という天文学的な倍率を突破して、歴代最年少の21歳で入学した(同校はロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジャック・ニコルソン、マリリン・モンローらを輩出)。

数本のテレビドラマに出た後、ブロードウェーの舞台が高く評価され様々な新人賞に輝いた。複数の映画関係者がディーンの才能に惚れ込み、映画『エデンの東』の主役キャルに大抜擢される。劇中では父親の愛に飢えた繊細な息子を鮮烈に演じきり、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン監督)。

同年、『理由なき反抗』でも等身大の悩めるティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちのシンボルとなった。続けて大作『ジャイアンツ』では、準主役で成り上がりのひねくれ者を演じ、演技派俳優としてさらなる成長を見せた。

時代の寵児となったディーンだが、悲劇は突然訪れた。1955年9月30日、銀色のポルシェ550スパイダー(ポルシェ初の市販レーシングカー)でカリフォルニア州のレース会場に向かっていた彼は、夕刻、州道の分岐点で横から出てきた車と時速135キロで衝突した。同乗者も相手の運転手も生命に別状はなかったが、ディーンは即死状態だった。故人にもかかわらず『エデンの東』『ジャイアンツ』と2年連続でオスカーにノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。

ディーンが眠る農村フェアマウントは田舎で公共交通がなく、墓参は大変だった。まず米国中部インディアナポリスから北上する長距離バスに乗り、途中下車して停留所の売店から乗合タクシーを呼んでもらい、ディーンの故郷の町マリオンまで移動。そこからフェアマウントへ行くと村の中心部で降ろされるため、徒歩で村外れの墓地へ向かった。

大豆畑を抜けてたどり着いた彼の墓はピンク色でキスマークがいっぱい。珍しいことに墓の両面に名前が彫ってあった。レコードの両A面という印象。これなら命日にファンが大勢訪れても、両サイドから追悼できて故人と墓トークする時間が長くとれる。永遠に24歳の天才俳優に合掌。


ジェームス・ディーン
タクシーの運転手さんいわく「ファンが墓を削るから周囲がガタガタなんだぜ」。キスマークもいっぱい

※『月刊石材』2014年4月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
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