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木戸孝允~急進倒幕派の長州をまとめ明治の世を切り開く

木戸孝允
386柱もの墓碑が立ち並ぶ霊山墓地の中で、夫婦で並ぶのは木戸と川瀬太宰の2組だけ。
その意味では幸せな2人といえる

「木戸について最も感心なことは、長州出身にも拘らず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられたことだ」(大隈重信)。

幕末を描いた大河ドラマでは、坂本龍馬が『竜馬がゆく』『龍馬伝』で2度主役になり、維新三傑の西郷隆盛と大久保利通が『翔ぶが如く』で取り上げられる一方、木戸孝允(桂小五郎)だけが一度もスポットを浴びていない。ここは木戸ファンとしてその魅力を語ることで盛り上げていきたい。

木戸は藩医の家に生まれ、16歳で思想家・吉田松陰の松下村塾に入門。松陰からは「事をなすの才あり」と高く評価された。剣術修行のため十九歳で江戸へ出て、当時の江戸三大道場のひとつ、神道無念流・練兵館に入った。すぐに頭角を現し、1年で免許皆伝を得て塾頭となる。これにより木戸は剣豪として人々に知られ、後年、敵対する近藤勇ですら「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と評した。江戸でペリーの黒船艦隊を目撃した木戸は、事なかれ主義の幕府では時局に対応できないと、25歳で帰藩した後、倒幕運動に身を投じていく。とはいえ、過激な武力闘争を支持せず、開国派とも交流しながら現実路線を主張した。

新選組が志士9人を斬り捨てた池田屋事件では、すんでのところで難を逃れた。1864年(31歳)、「禁門の変」で長州が薩摩に敗北して都から追われると、木戸は物乞いの姿に変装して都に残り、幕府側の動向を探った。この時、木戸に握り飯を差し入れてくれた京都の芸妓“幾松”こそが、後に夫人となった松子。松子は13歳で舞妓となり、すぐに祇園の人気芸妓となった。利発で美しく、笛や踊りが上手な松子に木戸は惚れ込み、松子も理想肌の木戸を愛し、危険を顧みず木戸をよく助けた。

1866年、大局を見て行動していた木戸は、龍馬を仲介として、倒幕のために当時最強の薩摩と薩長同盟を結ぶ。藩内は「禁門の変」の敗北で薩摩への憎悪が渦巻いており、木戸は同盟反対派に暗殺される恐れがあった。そうならなかったのは、木戸自身が「禁門の変」で子の勝三郎を失っているからだろう(享年17歳)。勝三郎は三歳から育ててきた養子。木戸の悲しみを知っているからこそ周囲も耳を傾けたと推察。

木戸は真に倒すべきは幕府であると藩論をまとめ、薩摩と協力して幕府に圧力をかけ、同盟翌年に大政奉還を実現させた。血の気の多い長州藩武闘派に「逃げの小五郎」と揶揄されながらも、言葉や人脈を大切にして明治維新に漕ぎ着けた。

維新後は新政府で手腕を振るい、国内の近代化を進めていった。維新六年後に台湾出兵を決定した政府に対しては「今は内政に集中すべき」と強く抗議し参議を辞任。高い人望から政権へ復帰するよう説得を受けたため、三権分立や二院制議会確立など立憲制への移行を条件に復職した。だが、大久保の強権を嫌って翌年再び辞任する。

木戸は以前から原因不明の脳発作に苦しんでいたが、政府内の権力闘争に心を痛めて病気が悪化。そこへもって1877年に西南戦争が勃発した。かつての盟友・西郷との戦いに苦悩し、木戸は京都で倒れる。見舞いに来た大久保の手を握り、もうろうとしながら「西郷もいいかげんにしないか」とつぶやき他界した。享年43歳。

松子は出家し、毎日墓前を訪れて墓を護った。現在、龍馬や中岡慎太郎も眠る京都の霊山墓地の最上部に夫妻の墓は仲良く並ぶ。


木戸孝允
手前が松子、奥が孝允の墓。松子は新選組に連行されても木戸の居場所を言わなかった。
木戸他界の9年後に44歳で病没。葬儀には1000余人が参列した

※『月刊石材』2014年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

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