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圧巻の行動力!~18ヵ国語を操った博物学者・南方熊楠

南方熊楠
「南方熊楠墓」。学者としての墓誌もなくシンプル。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(熊楠)

柳田国男が「日本人の可能性の極限」と驚嘆した男、南方熊楠。博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者であり、別名「歩く百科事典」。

熊楠は幕末の1867年に和歌山で生まれた。父は金物商。子どもの頃から好奇心旺盛で、中学入学後に町内の蔵書家を訪ね、全150冊の百科事典を5年がかりで“全冊図入り”で写本した。コピー機などない時代であり、内容を記憶し、帰宅後に筆写という作業を延々繰り返した。

17歳で大学予備門(現・東大)に入学。同期には夏目漱石や正岡子規、幸田露伴がいた。地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものばかりだ!」と興奮し、大学そっちのけで通いつめて落第。自主退学し、弱冠19歳で学問の先進国アメリカに単独渡航する。ミシガン州の農学校に入るも、泥酔して寄宿舎の廊下で寝ているところを校長に見つかり放校処分に。以降独学し、植物採集などフィールドワークに汗を流す。

24歳、「フロリダは新種の植物の宝庫」という噂を聞き、研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道で向かった。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になって採集にいそしみ、後にキューバへ渡った。そこで公演中のサーカス団に日本人を見つけて意気投合し、一座に加わって象使いの助手をしながら3ヵ月ほど中南米を巡業、各地で植物採集を続けた。標本データが充実すると、植物研究が盛んな英国に渡ることを決意。

ロンドン到着後、初めての論文「極東の星座」が天文学会の懸賞論文でいきなり1位入選し、科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。「ミナカタ」の名が学界で話題になり、その後51回も論文が紹介される。連日のように大英博物館へ足を運び、筆写ノート『ロンドン抜書』は52冊に及んだ。

大英博物館の図書部長は18ヵ国語を操る熊楠の博識に圧倒され、同館の東洋調査部員に抜擢したが、館内で人種差別をした英国人を殴打するなどして博物館を追放され、14年ぶりに日本へ帰国する。ときに33歳(熊楠が英国を発った翌月に日本の国費留学生第1号、夏目漱石が到着している)。

帰国後、故郷で粘菌研究に没頭し、世界的な粘菌学者として認知されていった。また、生態系保護の立場から乱開発に反対し、“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、国内の環境保護活動の祖となった。

晩年、昭和天皇に生物の御前講義を行なった際、熊楠は粘菌標本を桐の箱ではなく森永ミルクキャラメルの空箱に入れて献上し、現場の関係者全員を驚愕させた。享年74。訃報を聞いた天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。

墓は和歌山県田辺市の高山寺。墓域には昭和天皇が熊楠他界20年後に詠んだ「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」の歌碑(木札)が建つ。


南方熊楠
日本最初のエコロジスト、熊楠の旧宅。画像は書斎。熊楠ファンが次々と訪れている(田辺市)

※『月刊石材』2013年5月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

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