平 清盛 ~貴族社会に引導、世の中を一変させた愛情溢れる家父長
再興された清盛の菩提寺は1945年の神戸大空襲で焼失したが墓碑(十三重石塔)は残った!(2005年)
2012年のNHK大河は平清盛が主人公。これまで源氏視点の物語が多かっただけに、どのように新たな清盛像が描かれるのか楽しみでならない。社会の授業で「横暴」「非情」「傲慢」など悪役のレッテルを何枚も貼られている清盛。しかし、先入観なしに歴史を紐解くと、武勇に優れているだけでなく、敏腕政治家、愛情豊かな家父長、そんな横顔が見えてくる。
清盛の大きな功績は3つ。
(1)身分差別で成り立っていた貴族社会を吹き飛ばし、日本初の武家政権を築き上げた。明治維新まで約七百年も続く武家社会の礎となった事が非凡さを語っている。
(2)6年がかりで神戸港を整備し、外国の大型船が入港できるようにした。書籍・織物・香料・銅銭等を輸入し、漆器・金・硫黄・刀剣等を輸出するなど対外貿易で経済を活性化させ、清盛によって銅銭が大量に輸入されたことで日本の貨幣経済が大幅に進展した。
(3)平安貴族が行なわなかった大規模な公共事業を施行。迷信を信じる貴族たちが工事の無事を祈願して人柱(生け贄)を立てよと主張するのを、“そんな馬鹿な理由で人の命を犠牲に出来ない”と拒否した。
清盛は2歳で母を亡くしたことの反動か、あり得ないほど一族へ愛情を注いだ。平氏ファミリーの全員を京都六波羅の一角に集めて皆で暮らし、一門からは誰一人として不幸な人間を出さないよう、惜しみなく愛を捧げた。また、夜中に邸宅を見廻り、平家に仕えている郎党(従者)に布団をかけてやるなど、ファミリーとそれを取り巻く世界を心底から大切にしていた。
では、ファミリー以外には冷たかったのか。後に平家を滅亡させることになる、幼少期の頼朝、義経を捕らえた際、若い生命ゆえに助けてやったり、鹿々谷事件の反逆者にも恩赦を与えるなど、決して血に狂った冷血漢などではない。
蘇我氏、明智光秀、石田三成など、歴史における敗者は、勝者の歴史観の中でことさら長所を過小に短所を過大に伝えられている。天下を獲る為に清盛も人を斬ったが、後に続く秀吉や信長ら戦国武将に比べれば、それははるかに穏やかなものだった。
清盛は晩年に能福寺で剃髪して出家し、死後は遺言に従い遺骨が同寺の寺領に埋葬され平相国廟が建立された。平家滅亡の際に能福寺は灰燼と化したが、約100年後に執権・北条貞時が平家一門の運命に悲哀を感じ、「十三重石塔」(現存)を建て清盛の霊を弔ったという。
清盛墓の伝承は他に四ヵ所。平家一門の館があった京都六波羅の平清盛塚、京都大覚寺の塔頭・祇王寺の供養塔、下関市の清盛塚、神戸市切戸町の清盛塚など。
「清盛公は、悪行人なれども、幾多の善根も施したからこそ、20年の間、穏やかなる世を保たれたのではないか。悪行ばかりにては、この世が治まるはずもなし」
同時代の関白・藤原基房の言葉。
壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮には、下関に散った14名の平家有名武将の墓がズラリと並んでいる(2006年)
※『月刊石材』2012年1月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ) |