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悲しみを明るいメロディーに変えて~神童モーツァルト、35年を駆け抜ける

モーツァルト
悲しむ天使が寄り添うザンクト・マルクス墓地のモーツァルトの墓(二代目)。初代の墓石は体を地下に残してよそへ移されたため、有志が廃物の石材を寄せ集めて造り直した

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年に、オーストリアのザルツブルクに生まれた。ひょうきんな性格で姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記している。

3歳からピアノを弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。5歳のときに作曲を開始し、8歳で交響曲を、そして11歳で最初のオペラを作曲した。

音楽家の父は各国の宮廷で息子の神童ぶりを披露し、文豪ゲーテは7歳のモーツァルトの演奏を聴き、「その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する」と感嘆した。

一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に1人で作曲しているのか確認するため1週間監視して書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて天才であることを証明した。

14歳のときにヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で楽譜持ち出し禁止の秘曲『ミゼレーレ』を聴いた際は、この9つのパートが10分以上も重なりあう複雑な合唱曲をすべて記憶して書き起こし、人々を驚嘆させた。ローマ教皇はモーツァルトを呼び出すと、叱責せずにその才能を讃え、『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。

25歳でウィーンに移住し、オペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』、17曲にのぼるピアノ協奏曲、弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など傑作群を生み出し、3大交響曲の第39番、40番、41番『ジュピター』をわずか1ヵ月半で仕上げた。

モーツァルトはまず頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。

30代になるとモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれていく。求められたのは、心地よい音楽、聴きやすい音楽だったが、モーツァルトは芸術性を高める道を進み、「難しい」「疲れる」と敬遠されたのだ。次第に演奏会は不入りになり、経済状態は極度に悪化した。

「今時は、何事につけても、本物は決して評価されません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)

1791年、病に倒れたモーツァルトは死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「涙の日」を8小節書いたところで力尽きた。享年35歳。

一家は貧困から墓を建てる余裕がなく、亡骸は郊外のサンクト・マルクス墓地の貧民用共同墓地(ただの大きな穴)に、他の死者たちと一緒に投げ込まれた。現在、この墓地のどこかにモーツァルトは眠っているという認識の上で墓が建てられている。

「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)


モーツァルト
ベートーヴェンやシューベルトが眠るウィーン中央墓地に立つモーツァルトの記念碑。この女神像はもともと別の墓地にあったモーツァルトの墓石(没後約70年目にウィーン市が制作)で、没後100年目に墓石だけがここに移設された

※『月刊石材』2014年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

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