“ピアノの詩人”ショパン ~ハートは祖国に戻った
最初に造られたパリの墓。台座にはショパンの横顔が刻まれている。赤と白のリボンはポーランド国旗
詩情豊かなピアノの名曲を次々と生み出したショパンは、1810年にポーランド・ワルシャワ近郊に生まれた。7歳で『ポロネーズ』を作曲し、翌年に最初のリサイタルを開く。ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、20歳の時にウィーンで本格的に活動を開始するべく故郷を離れた。
ところが、その直後に祖国で支配者ロシアに対する民衆蜂起が起きる。この反乱は失敗に終わり死傷者は4万人にのぼった。ショパンは家族や友人の身を案じ、「絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」と書き記し、動揺の中で『革命エチュード』を作曲した。
パリに移り住んだショパンは演奏会が評判となり、ハイネ、リスト、バルザックらと親しく交流。画家ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入しアトリエに置いた。やがて貴族の令嬢と恋に落ち婚約までするが、彼が病弱であることを理由に婚約破棄される。
深く傷ついたショパンを大きな愛で包んでくれたのが6歳年上の女流作家ジョルジュ・サンドだ。彼女はズボン姿で葉巻を手に持つ男装の麗人として社交界の注目を集めていた。2人の同棲生活は7年間続き、数々の名曲がこの間に書かれた。
サンドとの破局から2年後、ショパンは肺結核により39歳の短い生涯を閉じる。彼の日記にはサンドの髪の束が挟まれていた。亡骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、帰国を夢見ていたショパンの想いをくみ、心臓だけはワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。
第二次世界大戦ではナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。
2005年のワルシャワ巡礼では、路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが聖十字架教会へ案内して下さった。僕が停留所で彼女に最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と、方向を指差してもらおうと尋ねたのがきっかけ。
ヴィロンスカさんは英語をまったく話せないんだけど、僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“ついて来い”というジェスチャーがあったので、教会に向かうと思いきや、なぜか彼女のアパートでお昼ご飯を食べることになり、サンドウィッチや炒り卵、サラダを作って下さった(お弁当まで持たせてくれた!)。
教会への道すがら、ゴミが落ちていたら拾いあげ、道端でお腹を空かせている人には買い物袋からパンや果物を分けていた。ヴィロンスカさんにとってはすべてが自然な行為。僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手を振って立ち去った。なんて気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう!
教会内のショパンの墓に彼女のことを話し、「ポーランドには素晴らしい人がいますね」と語りかけると、ショパンが「そうとも!」と言ってる気がした。これもまた忘れられない巡礼となった。
心臓が納められた教会の柱には聖書の「あなたの宝の場所にあなたの心がある」が刻まれている(ワルシャワ)
※『月刊石材』2012年6月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ) |