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国民に夢を語った最年少の大統領~ジョン・F・ケネディ

ジョン・F・ケネディ
左がケネディ、右がジャクリーン夫人。
後方の円形の石に炎が灯され、埋葬日から今日まで半世紀も燃え続けている

2013年はケネディ大統領の没後50年。娘のキャロラインさんが新たな駐日大使として訪日したこともあり、ケネディ家が何度かニュースで紹介された。

ケネディは歴代最年少の43歳で大統領に就いた。銀行家の父を持ち、太平洋戦争では24歳で海軍に志願。魚雷艇の艇長として日本軍と戦うが駆逐艦・天霧に撃沈された。この際、負傷した部下をロープで繋いで近くの島まで6キロ泳ぎ、自らも6日後に救助されたことが報道され英雄となった。

戦後、29歳で下院議員に初当選。6年後に上院議員に選出され、39歳で副大統領候補の1人となった。
 
1960年、リベラル派として大統領選挙に名乗りをあげる。選挙期間中にキング牧師がアトランタで人種差別反対の座り込みデモで逮捕されると、直ぐさまキング夫人に励ましの電話をかけ、牧師を有罪にした判事に釈放を求めて2日後に牢から救い出した。この行動で黒人層にも支持者が増え、最終的に僅差でニクソンを破り大統領選に勝利する。

就任式でケネディは「国家があなたに何をしてくれるかをたずねるのではなく、あなたが国に対して何ができるかを自問してほしい」と情熱的な演説を行った。

翌年、ソ連がキューバに核を配備しようとした“キューバ危機”では、キューバへの爆撃を主張する国内のタカ派を抑えつつ、フルシチョフと交渉してソ連に核配備を撤回させることに成功した。

これを機に、ケネディは冷戦終結を呼びかけ、米ソにホットラインを設置。「他の国が核実験をしない限り、アメリカもしない」と訴えた。この言葉がソ連側を動かし、米英ソの部分的核実験停止条約が調印され、核軍縮への第一歩が実現する。

人種差別に反対していたケネディは、黒人を積極的に政府の幹部に任命し、司法省では黒人検事が10人から70人に増えた。企業には積極的に黒人を雇うよう働きかけ、白人のみを雇う求人活動を連邦雇用局に拒否するよう命じた。黒人学生の入学を認めない大学には、軍隊を出動させてでも受け入れさせた。

ケネディは暗殺の5ヵ月前、公共施設や学校での人種差別を廃止するため公民権法案を提案した。「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」。ケネディは「I Have a Dream」と演説を行ったキング牧師をホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と告げた。

暗殺の数日前には「ベトナムから軍を段階的に撤収させ、1965年末までに完全撤退させる」と発表。

1963年11月22日、遊説先のダラスでパレード中のケネディを凶弾が襲った。暗殺犯とされた容疑者は「身代わりにされた」と叫んでいたが、2日後にマフィア関係者に射殺され真相は闇に。

暗殺で最も利益を得たのは軍事産業。ジョンソン新大統領はベトナム戦争に突き進み、軍事産業は特需に沸いた。

ケネディの棺が首都に運ばれると、悲報を聞いた約25万人もの市民が弔問に訪れ、行列は40ブロック先にまで及んだ。人々は10時間も並んだという。

僕は巡礼時にアーリントン墓地の正門からケネディの墓前まで延々と続く人の波を見て、日本には墓地の入口から墓前まで巡礼者が続く首相がいるだろうかと思わず考え込んだ。


ジョン・F・ケネディ
南部ダラスにて撮影。この印の場所で凶弾に倒れた。後方のビルの6階から狙撃されたという

※『月刊石材』2013年12月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

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