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アンネ・フランク~悲しみの中でも希望を捨てなかった15歳の少女

アンネ・フランク
ベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ)の跡地に建てられたアンネと姉マルゴットの墓。
墓参者のメッセージが小石や手紙に書かれている

「約束しましょう。どんなことがあっても、前向きに生きてみせると。涙をのんで、困難のなかに道を見いだしてみせると」。

2014年2月に『アンネの日記』破損事件が報道された際、人種差別の犠牲になった少女の悲劇と教訓が生かされていないことに衝撃を受けると同時に、筆跡鑑定で真筆が証明された原本が公開されているのに、犯人が日記を偽物と供述していることが残念でならなかった。

アンネは4歳の時に、ナチス台頭を恐れてドイツからオランダに一家で脱出した。だが11歳の時にオランダはドイツに占領され、反ユダヤの嵐が吹き荒れる。アンネは13歳の誕生日に父から贈られたサイン帳に日記をつけ始め、冒頭にこう記した。

「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです」。

やがて強制労働を目的にしたユダヤ人狩りが行われるようになり、危機感を抱いた父オットーは、4階建ての会社の建物を改築して秘密の部屋を作り、一家で身を隠した。後に別の3人家族と歯科医の男性が加わり、8人で潜伏生活を送る。

隠れ家の生活が2年目に入り、息苦しい日々の中で、アンネは共に潜伏している3歳年上のペーターと恋仲になった。アンネはファーストキスのときめきを日記に綴る。だがペーターとの永遠の別れは4ヵ月後に近づいていた。

1944年8月、密告を受けたゲシュタポ(秘密警察)が隠れ家に乗り込み、全員が逮捕された。8人はアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、到着すると男女に分けられた。アンネと父は今生の別れとなった。

すぐに労働能力による「選別」が実施され、一緒に送られたユダヤ人1,019人のうち549人がガス室送りとなった。アンネは丸刈りにされ、腕に囚人ナンバーを刺青された。11月、アンネ姉妹は伝染病が蔓延するベルゲン・ベルゼンの収容所へ送られ、新たな選別でアウシュヴィッツに残された母は餓死した。

アンネ姉妹は4ヵ月ほど生存していたが、1945年3月にチフスで絶命した。翌月に同収容所を英軍が解放しており、救助直前の死であった。オーストリアの収容所に送られたペーターもまた、米軍に解放されたその日に18歳で息を引き取った。

唯一の生存者となったオットーがオランダに戻ったとき、知人が隠れ家跡から発見したアンネの日記を手渡した。アンネの他界から2年後、みずみずしい感受性で記された日記は出版され大ベストセラーとなる。2009年、『アンネの日記』はユネスコによって「世界の記憶」に登録された。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は人里から離れた森の中にある。バス停から40分ほど歩いて敷地に入ると、野原に墓標が点在していた。個人の墓石がある一方、大きめの墓石には「ここに2,500人が眠る」「ここに5,000人が眠る」と記されており息を呑んだ。以前アウシュヴィッツを訪れた際は、徹底して火葬 されこのように千人単位の埋葬地を見かけなかった。

アンネの墓前には様々な言語の手紙があった。正確なアンネの埋葬場所は誰にもわからない。だが、この石の墓標がアンネを慕う世界中の人々を結びつけていた。

「いろんなことがあるけれど、私はまだ人間は心の底では善良なのだと信じています」(連行直前の日記)。


アンネ・フランク
収容所跡の資料館には世界中の言語で書かれたアンネへの手紙が。
これまで墓前に置かれたものが
ここで保管されているのだろう

※『月刊石材』2014年6月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。

大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社

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