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青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

  青空うれし
漫才師の青空うれし師匠の趣味は、なんと「有名人のお墓の写真」を集めること。
そんな師匠が全国各地にある有名人のお墓を紹介します。


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【左から】
・幕末末三周の一人 山岡鉄舟のお墓
・三遊派の大名人円朝師匠
・転々と職を変え名を変えた 吉川英治
・毒ある花は美しい高橋お伝のオハナシ

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【左から】
・学者で歌謡曲の詩を書いた西条八十  
・柔道ニッポンの父 加納 治五郎 
・元杢網(モトのもくあみ)生まれた元の地にねむる


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【左から】
・美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫
・希代の悪坊主 河内山 宗俊
・江戸文学 井原西鶴

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【左から】
・詩人で歌人の北原白秋
・俳優、演出家、そして「江戸むらさき」の三木のり平
・笑わせる事だけに生きた由利徹サン
・アメリカで最初のプロ野球人だった ジャップ・ミカド


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【左から】
・代表作「父帰る」を残した 菊池寛
・「長谷川平蔵」である  鬼より恐い鬼平さん
・今晩ワ 三波春夫でございます
・日本一高名な有名人 きんさんデス


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【左から】
・老人パワーの鏡 ぎんさんの墓
・将棋の名人は旅人サンだった 関根金次郎
・武蔵野に根を張った 小金井小次郎親分
・ヤセたい人は食べなさい 鈴木その子


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【左から】
・北方領土で名を売った間宮林蔵
・粋でオシャレでめっちゃイカス 吉田茂首相
・ニャンとも真面目芸人だった 江戸家猫八師匠
・ハワイアンミュージックの神様 バッキー白片


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【左から】
・日本のレオナルド・ダヴィンチ―小堀遠州
・傘をクルクルおめでとう―曲芸の海老一染太郎さん
・八代目三笑亭可楽サンは 酒と女と暇が好き
・ウン千万円?の画伯の絵が……東郷青児


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【左から】
・スーパーマンのはなし家――柳家金語楼
・明治大学の名物猪監督 島岡吉郎
・アブさんでお馴染みの 闘将 景浦 将 故郷の地に
・早咲きの詩人ミュッセ―早く散る


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【左から】
・詩人のアポリネールはパリのペール・ラシェーズにネールよ
・宗教画家として有名・ロマン主義の大画家 ウジェーヌ・ドラクロア
・生涯独身を通したエドガー・ドガ
・本物の大女優 サラ・ベルナール


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【左から】
・美人で暗く逝ったダリダ
・鬼気迫る画を描いたテオドール・ジェリコー
・ああ 切ない フランツ・P・シューベルト
・楽聖 ベートーベン


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【左から】
・仏の女流画家 マリー・ローランサンさん
・ワルツと言えばこの人 ヨハン・シュトラウス
・傷たらけの人生 井上 馨
・マッキンリーの山に消えた冒険家 植村直己サン


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【左から】
・二科会創立者の一人 梅原龍三郎
・神田お玉ガ池の親分若死に 大川橋蔵
・狂歌の蜀山人は食山人 太田南畝の墓
・パリの日本人 萩須高徳画伯


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【左から】
・虎退治の武将 加藤清正
・華やかな栄光 そして悲しい別れ 歌手 楠木繁夫・三原純子さん
・直木賞作家 胡桃沢耕史 直木三十五と並んで永眠
・日本の夜明けから歴史と共に歩んだ西園寺公望公


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【左から】
・サイパンの戦場跡に建つ戦死者の墓
・小指の思い出浪曲の相模太郎師匠
・情けが仇の入道 平清盛
・「冬ソナ」ブーム以前にブレイクした歌手 織井茂子さん


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【左から】
・永遠に歌い続けられる「リンゴの唄」の並木路子
・其角と俳句と破れし初恋 宝井其角
・94歳まで歌い続けた塩まさるさん
・タクアンの創始者沢庵和尚


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【左から】
・山椒は小粒で大物浪曲家三代目 玉川勝太郎
・水道の恩人 玉川兄弟
・アトムやレオでお馴染みの手塚治虫センセ巣鴨に眠る
・ポンコツおやじ。チンコロ姐ちゃんの富永一朗先生の円型墓


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【左から】
・オリンピックに出したい弓の名人 那須与一   
・戦国武将 新田義貞の不思議
・気品も自信もあった本阿弥光悦


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【左から】
・豪弓を射た為朝の最後に島民は号泣。源為朝、伊豆大島に
・恥ずかしながらとテレた横井庄一さん
・強運の我がオ父つぁん コロムビア・トップ家の墓石
・ヤクザ旗本 水野十郎左衛門

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【左から】
・歌謡曲にもなった侠客会津の小鉄(上坂仙吉)
・東洋のネルソン平八郎元帥のフンドシ
・侠客と十手の二束のワラジ祐天仙之助
・西部劇に出てくる保安官は実在の人だった

幕末三周の一人 山岡鉄舟のお墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京の台東区は数多くの有名人の眠っている所だが、鉄舟の墓は全生庵。三舟のうちもう一人髙橋泥舟も同じ台東区の大雄寺。勝海舟だけが大田区は手洗地畔の御松庵に眠る。友人のS君が海舟の描いた絵に鉄舟と泥舟が字を添えたという額を持っていた。しかしどうも不鮮明? S君の母親がホコリがかぶっていて汚いからと雑巾でふいたので変な物になってしまったという。

ある日、世田谷の区民会館で無料でお宝を鑑定してくれたことがあり、S君も恐る恐る持参したところ、くだんの鑑定師、首をひねりながら何かこの絵は変だなあとつぶやく。そこでS君、実はオフクロが雑巾を……と言うと、その鑑定師バカデカイ声で「ウーン、無智ほど恐ろしいものはない」。他の十人ほどいた人は笑う。本人はまっ赤になって額を受け取り早々に逃げ帰ったそうな。

鉄舟が勝安芳に頼まれて西郷隆盛を説得し、徳川家を救う道として江戸城の開城をあっせんしたのは有名なハナシ。

鉄舟の逸話は沢山ある。

明治天皇の側近となった時、天皇から相手せよと相撲を取ったとか(しかしこれは嘘っぽいネ)。

賞勲局から呼び出しがあってもそんなのいらんと出向かない。すると井上馨が勅使としてやって来て、勲三等の勲記と従四位の位記を持ってきた。鉄舟は見たから持って帰れと言う。井上は冗談じゃない、小僧の使いじゃないぞと気色ばむ。すると鉄舟は「小僧の使いではないか 」とタンカ。井上はこのままでは収まらぬとつめ寄った。そこで鉄舟、「お前の懸けてるのはそりゃ何等か?」「ウン、これは一等だ」「ホウ、お前のが一等でワシが三等か、馬鹿も休み休み言え」「ナヌ 」「明治の泰平を成したのは西郷ドンとワシじゃ、お前などフンドシ担ぎではないか。帰れ帰れ」と追い帰してしまった。

イヨー鉄ちゃんイカしてるぜ。

その時井上がそんな強がりを言って食うに困らんかと言ったのを、結構気だらけ猫灰だらけと大みえきって大貧乏生活に甘んじ、化物屋敷といわれた住居にボロ布団にくるまって寝ていた。

剣は名人達人の浅利叉七郎、千葉周に学んだし、自ら開いた道場にも沢山の門人が集った。他人の弱点を突くな、人を殺すな……が生涯の自戒で、無双の使い手の鉄舟は虫一匹殺さなかったというから立派。最近の十七、八のガキは訳も分らず殺したがる。鉄舟の墓にでもお参りして少しはリコウになれバカ !!

この全生庵には鉄舟と落語の三遊亭円朝の墓がある。何か関係が? 大いにあって、鉄舟が円朝を呼んで話を聞くと、お前の話は心でなく舌の先でシャベってるから人物が死んでると厳しく言った。円朝恐れ入って禅の修業をしたとか。そして鉄舟死の床にあった時に円朝を呼んで、何ぞ面白い咄をしてくれと頼んだ。終るとありがとうよと言った翌日、あの世へ旅立った。鉄舟さんと円朝さんの写真を撮った日に東京ドームでゲームを観たら、何と延長戦。

三遊派の大名人  円朝師匠

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

山岡鉄舟と同じ墓地(台東区の全生庵)に名人三遊亭円朝(1839~1900)が眠っている。先日、昔々亭桃太郎さんに会った時、落語家は頭が良いんですよ、頭が悪けりゃ落伍者なんですから……と面白い事を言ってた。なるほどこの円朝さんもズバ抜けて頭が良かったようだ。
 
  「エー毎度馬鹿々々しいお笑いで……」。
 
ただ客を笑わせるばかりが落語ではない。シットリとジックリと聞かせる人情噺もある。円朝は人情噺や怪談でつとに有名なのだ。

本名を出淵次郎吉といって、お蔦、主税の物語りでお馴染の湯島切通しで産声をあげた。
 
オジイちゃんは立派な武士だったのに、オ父っあんはオラこんな生活ヤだと刀を捨てて何と、ハナシ家の二世円生の弟子になっちゃたってんだから当時としてはケタ外れた奇談。何しろ刃物は庖丁見ても青くなったというから、とてもオサムライさんにはなれない。この親にしてこの子有り。次郎吉もオイラも噺家になって若いギャルにモテたいッ と同じ門下に入って小円太という芸名を貰った。次郎吉なんて名は、所詮ねずみ小僧次郎吉にかないっこない。芸人になって大正解。高座でシャべるとこれが中々センスがいい。これが親父より上手いのだ。
 
17才の時真打ちとなって円朝と改めた。この世界、今も昔も変らない。ヒトより目立たなけりゃ売れっこないと、顔に薄化粧をほどこし、ド派手な衣装をまとって高座に現われた。果してギャルはキャー円ちゃんとまるでキムタクですよ。

しかし今時の一寸TVでリポーターしたり、本業と別の事で売れて本来の落語をダメにしてしまう落語家とは訳が違う。面白いとか格好いいとかだけでは永世に名を残す事は出来ないと、話術に磨きをかけ芝居噺に力を入れた。

その時に人気役者の声色も使って話したというから落語と声帯模写を一人二役でこなしたのだ。
 また、ここぞという話の盛り上がりでサッと幕を下ろすとバックに今話している背景が描かれているという新しい演出に人々はビックリ。

創作力もすぐれていて外国の翻案物も手がけ人々に拍手で迎えられた。サルドウの「トスカ」に基づく「名人競」。また、中国の「牡丹灯記」は当りに当った。
他にも自作の名作「真景累ガ淵」、「荻江の一節」、「塩原太助」、「怪談乳房榎」、「鶴殺し嫉妬庖丁」などがある。
現在落語界は芸術協会と落語協会が新宿の末広亭や上野の鈴本で公演をしているが、三遊派は喧嘩別れして常席を追われ、円楽が柱となって独自の公演をしているし、立川派も談志が立川流を名乗って別行動。

「エー馬鹿々々しいお笑いを」なんて言っている場合じゃない。バカバカしい喧嘩をやめて本物の笑いを追求したらどうかね。韓国と北朝鮮だって積年の恨みつらみを捨てて歩みよったんだぜ。

噺家さんたちが皆で1889(明治22)年3月、三遊派繁栄の記念と初世円生の追善顕彰の三遊塚を建立しているのに。

転々と職を変え 名を変えた 吉川英治

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浪曲漫才のさがみ三太さんや春日三球さん達と青梅の方に仕事に行った帰りに、吉川英治記念館に立寄った。「オレも物書きになりゃよかったな」と三球さん。声帯模写の、はたけんじさんがすかさず、「物書きは無理でしょ。恥かきぐらいで」。英治の略歴を見たら三球さんが「ヘエ、家系は元武士なんだ」。すると三太さんが「私だって元ブシですよ」、「?」、「浪花節ですから」。どこへ行っても芸人が集まるとまともな会話が無い。


明治25(1892)年8月11日、現在の横浜市中区に生れる。本名は英次。父は海運業界で羽振りが良かったが、英次が小学校の時代に突如海運から悪運に見舞われ金運も悪くなって学校にも行けなくなってしまう。昨日までのお坊ちゃまが今日から丁稚奉公。こりゃ辛いよ切ないよ。


最初に勤めたのが川村印房。次に印刷所の少年工。行商からヨイトマケ、税務監督局の給仕の次が何と流しの按摩までしたという。そりゃアンマリな まだまだ続くよお客さん、雑貨商へ住込みから横浜船渠での力仕事。ここで高い足場から十数メートル下へ落ちて入院し、九死に一生を得た。この時にオラ、もうこんな生活ゴメンだと東京へ出る決心をした。


東京へ出たものの当てはない。又々手提金庫の店から金属象眼の下絵描きに。ここでやっと自分が好きでやれる仕事にありつく。大正2年頃から作家として活路がひらけてくるのだ。 処女作の「江の島物語」が認められた。同時に女の方もツイて、最初の女性が目の覚めるような美人芸妓の赤沢やすさん。イイ女は金持ちダンナが寄ってくる。次々に旦那を代えて英治に貢いでくれる。アー羨ましい。青空うれしに貢いでくれる女募集中!!


しかし女心はわからない。ある日大陸へ行ってしまう。英治も追うようにして大連へ行くが大恋愛も大連哀で終り。向うで書いた小説二編が共に一等という知らせ。日本に戻ってから製薬会社へ勤めながら作家へ。この先もいろいろ苦労はあったがとにかくヒット作に恵まれた大作家。代表作は勿論「鳴門秘帖」、「親鸞記」、「宮本武蔵」、「神州天馬侠」、「新平家物語」などきりがない。


英治はその名に落着くまでペンネームを19回変えている。噺家古今亭志ん生は借金取りに追われて16回芸名を変えている。オウムが何とかいうのに変えたなんてのはメじゃない。


吉川英治が授賞式のパーティーで、徳川夢声に「英治氏は結婚式も新婚旅行もしていない」とスピーチされ、「夢声氏から暴露されましたが、私は結婚式はしなかったが新婚旅行は致しております。この点訂正致します。イヤそれのみではありません。賞を貰ったのは実は今度が初めてであります。競争馬の賞は一昨日買いましたが、これは無知なる動物をそそのかして搾取したものでありまして、取ったのは馬でしてこれは私の克ち得た賞とは言えないのであります」。 実にユニークなスピーチじゃないですか。「この人は英語の新聞読んでましてね」と三球さん。「エージ新聞と言いたいの?」と三太さん。「この辺でヨシカワです」とはたさん。これ以上ははた迷惑!!

毒ある花は美しい 高橋お伝のオハナシ

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京・台東区の谷中霊園には沢山の有名人が眠っている。作家の獅子文六、円地文子。政治家・鳩山一郎。画家の横山大観。俳優・長谷川一夫などがズラリ。ところがこの中にどういう訳か、毒婦といわれた高橋お伝の墓があるのが妙である。
 

明治12年1月31日、市ヶ谷監獄の裏手にあった刑場で、お伝は首をはねられた。刑の執行前に首斬り浅右衛門が最後に言い残すことはないか!と言ったら「美味しいおでんが食べたい」。言う訳ないね。


群馬県利根郡にお春という女がいた。沼田城主土岐氏の家老・広瀬半右衛門の屋敷奉公に上がっていたが、いい女だったから好色ジジイの家老がレイプしてしまう。子供ができたら邪魔だと目腐れ金でポイ。家へ帰ったが、近所の勘左衛門て奴がこれまたお春に色目を。子供が腹にいるのを承知で、いい女抱きたいと一緒になった。生まれたのがお伝。金もないボンクラ亭主はご免だと、お春は二歳のお伝を残したまま家出してしまった。


昔は年齢制限なしだから、早熟だったお伝は14歳の時に宮下治郎兵衛の次男・要次郎を婿養子にとった。要さんがこれぞ養子の温和な男、ところがお伝は気が強く攻撃型。鉄の長火箸でメチャクチャにブチのめすので三カ月で逃げ出しちゃった。この後、お伝もこんな家にゃ居られぬと飛び出し、中山道の板鼻宿にあった仕出し屋に勤めたが、横浜の生糸商人・小沢伊平に口説かれて商売で泊まっている20日間だけ援助交際して貰ったゼニが30円。今の金に換算すると石文社の社員の給料一年分。


一旦養家へ戻り、も一度波之助という男を婿に迎えた。これが役者のようないい男だったから、お伝も今度は満足。だけど世の中うまくいかぬもので、この波さん、人の嫌う癪病におかされてしまう。そうなると村には居られず東京へ出た。以前金を貰った横浜の小沢伊平を頼り、伊平には波之助を兄だと偽った。小さな家を与えられたが、波之助が死亡。病名がバレ、兄だという嘘もバレて追い出されてしまったお伝。


しかしお伝はしぶとい女だ。この伊平の友人で小川市太郎という男がお伝にかねがね気があるのを知っていたので、そこへ訪ねていった。市太郎は大喜び。ところがこの市太郎、義母との二人暮しで何と義母とセックスしてたんだから家の中へ入れられっこない。この義母を殺して床下へ埋めて、お伝を入れたってんだから非道い奴。天モウ・カイカイ。そのカユイ吹き出物が全身に出てきて苦しむ。義母の祟りじゃ。


お伝は横浜の小沢伊平の店へ忍び込み生糸や帯地などを盗み出して、それを古着屋へ持ち込んだ。はじめは金を出し渋っていた後藤吉蔵、お伝の艶かしさに下半身ズキズキ。今夜金渡すからと下心。そば屋で待ち合わせ、浅草蔵前の旅人宿「丸竹」へ連れ込んだ。その時、お伝はフトコロに剃刀を隠し持っていて、吉蔵のノドをグサッ!哀れ吉蔵は凶蔵になって死に絶えた。


お伝の陰部は切り取られアルコール漬けにされているとか。果して『何でも鑑定団』に出したら幾らの値が付くか。

学者で歌謡曲の詩を書いた 西条八十

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今から何十年も前、そう40年近くはなると思う。上野の不忍の池畔に〝唄を忘れたカナリヤは…〟の歌碑が建立され、その記念碑の前で児童合唱団が歌い、作詞者の西条八十氏も列席し一言述べた。司会は若き日の青空うれし。その時カメラを持って行き、そしてサインをおねだりしてたら立派なお宝になっていたかも。西条八十は本名でもあり、ご両親は苦労のないようにと九を抜いた八と十で八十と命名したという。


フランス留学から帰国した八十は詩人として、早稲田大学の教授としてすでに一家を成していた。雑誌に「当世銀座節」という作品を載せたところ、当時売れっ子の作曲家・中山晋平が訪ねて来て、是非あの詩に私の曲をつけさせて欲しいと言われた。その事がキッカケで「唐人お吉」や「東京行進曲」の誕生をみることになった。


この「東京行進曲」にはいろいろエピソードがありましてねぇ…と歌手で作曲家の三鷹淳さん。このヒト、歌のことはもちろん麻雀、ポーカー、野球にゴルフ、世界史に女性史に詳しいという変な親友。


雑誌の「キング」に菊池寛の長編小説「東京行進曲」が連載され、これが日活で映画化されることになり、ビクターが主題歌をつくって歌ったのが日本の流行歌歌手第一号の佐藤千夜子。そしてこれが映画主題歌の第一号でもあった。この歌は四番まであって、一番は

〝昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知る ジャズで踊って リキュールで更けて 明けりゃ ダンサーの涙雨〟 

であるが、最初は「明けりゃ彼女の涙雨」だったそうな。それを作曲の中山センセがどうしてもダンサーにしてくれと言うので、折れたらこれが当たった。センセ、ダンサーにハマってたんじゃん?

更に四番の詩の

〝シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか〟

の歌詞に小田急電鉄会社からクレームがついた。何だ我社のデンシャは駆け落ちの電車か ところが歌の大ヒットがかえって小田急人気。ズーと後、終戦後になって、「あの節は…」と西条センセ、会社の顧問待遇になりましたとさ。メデタシ、メデタシ。


三鷹さんの奥さんはこれもコロムビアの美人歌手。西条センセの詩、市川昭介センセの作曲で「男って恐いわ」というレコードを出した。病床で亡くなるまでジーと聞いてた西条センセ。この娘は凄く可愛いんだよとセンセのお嬢様におっしゃっていたというが、今やゴルフのアマチュア大会で優勝したり、どこのコンペでも必ず上位。先生が今おられたらきっと「女って恐いね」という詩を書いたかもネ。


「東京行進曲」の原作者・菊池寛センセのラブレターもどきの手紙を貰ったのは二代目のコロムビア・ローズさん。これもお宝。


ところで今年10月26日に三鷹淳さんの歌手生活40周年の記念として軍歌のCDが発売(コロムビア)される。その中にたった一曲ではあるが「ラバウル小唄」を青空うれしさんが歌っているのだ。これは買うべし、求めるべし。お宝鑑定は30年後に…。


西条八十の墓は松戸の新八柱霊園デス。

柔道ニッポンの父 加納 治五郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

2000年のミレニアム。20世紀最後の年に巨人軍がセ・リーグの優勝を飾り、パ・リーグのダイエーが優勝したことで夢にまで見たO・N対決が見られた。ファンにとって待ちに待った夢が正夢になった記念すべき年となった。 


だが、しかし何といっても二十世紀掉尾を飾る一大イベントはあのシドニーオリンピックであった。そして幕開き早々ヤワラちゃんの田村亮子(48㎏級)、野村忠宏(60㎏級)、井上康生(100㎏級)らが早くも金メダルを獲って日本中が湧いた。


しかし、絶対これも金以外何ものでもない篠原信一(100㎏超級)は、ニュージーランドの主審モナハンの大誤審で敗れた。「ウッソー」という言葉はこの馬鹿モナハンのためにあった言葉だった。


世界中の人が呆れたこのモナハンの失態も最低だが、嘘の金メダルを誇らしげに持ち帰ったドウイエって奴も、ドウイエばいいかってえとクソヤローとしか言いようがない。投げられた自分が一番分かっている筈なのだから、自分から納得のいくようにもう一回ヤリ直しさせて下さいといえば、たとえ下った判定がヒックリ返らなくても惜しみない拍手を送ってやれたものを。こんなみっともない柔道をもし講道館初代館長で柔道の始祖・加納治五郎が見ておられたら何と言ったであろうか。やはり「カノウ事ならもう一回 」と…。イヤ、シャレを言うのもハラが立つ。


治五郎は1806年、兵庫県武庫郡の御影町に生まれた。11歳の時に上京し、塾生から二松学舎、外国語学校へと進み、この頃から柔術に興味をもち天神真揚流の福田八之助に学んだ。しかし福田が急逝したため起倒流の飯久保恒年についてエイ ヤツ と学問と柔術に励み、明治14年に東大を卒業したという偉い人。


更に大学に残って文学部道義学、審美学を研究しながら学習院の講師も勤めたってんだからスゴーイ。そして明治15年、下谷(現・台東区)の北稲荷町の永昌寺にわずか12畳の講道館が誕生。以来8回ほど場所が変って現在の水道橋の近くに至った。柔術を柔道とすることによってより人間形成の道を拓いたのである。


講道館四天王といわれた横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎、山下義昭らが加納を助けて講道館を隆盛させたが、あの姿三四郎はこの中の西郷四郎(墓は長崎の大光寺)がモデルであるという。


ちなみに柔道に関する歌は?と調べてみたら、村田英雄が「柔道一代」(昭和38年)、「姿三四郎」(昭和39年)、「柔道水滸伝」(昭和40年)を出しているが、何といっても大ヒットはあの美空ひばりの「柔」(やわら…昭和40年)であろう。

“勝つと思うな  思えば負けよ〟

と歌い出しにあるように、勝った と思ったのに負けた篠原クン、残念だろう。外国旅行が何より好きなこの俺だが、今回の件でニュージーランドだけは絶対行かないと心に決めているのだ。ナニ?行くゼニが無かろうって?生まれたばかりの産院へ行ってみろ。そこは乳児ランドだッ。


(加納治五郎の墓は千葉・松戸市の八柱霊園)

元杢網(モトのもくあみ) 生まれた元の地にねむる

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ボクはズーッと以前から狂歌をつくった人達の墓を訪ねてみたいと思っていた。野球狂であり、お墓狂であるボクは狂のつく歌づくりに興味を持った。四方の赤良ともいう太田蜀山人はあまりにも有名である。しかし他の人達はほとんど一般には知られていない。そのペンネームを紹介するだけで楽しくなる江戸末期の狂歌人の墓はどこにあるのだ 。


20世紀も終ろうとしている11月5日、埼玉県の嵐山町へ講演で招かれた。そこに狂歌師の元杢網の墓が在ったから仕事前に写真を撮りに行く。道から少し入った繁みの中の小暗い場所にそれは在った。町で力を入れてもっとアピールしてもらいたい人物であり墓だと、淋しくなったネ。


杢網は本名を鈴木喜三郎といい、この嵐山の杉山というところで生れた。江戸へ出てボクちゃんの才能を生かそうと、ある日ある時故郷を後にした。江戸は狂歌仲間が一杯居る。女房のすめもすめば都と大満足。このカミさんは頭もいい切れ者でありながら狂歌のペンネームは知恵内子といった。


内山賀邸門下の人達が口ききで、狂歌づくりの仲間が集まって楽しい会をつくろう!と、唐衣橘州、大根太木、太田蜀山人、頭光、宿屋飯盛、鹿都部真顔、大家裏住、浜辺黒人、酒上不埒、朱楽菅江、などがワイワイドカドカ集合。菅江のカミさんなんかも節松嫁嫁ってんだから恐れ入る。


このあたり漫才の芸名などと似ている。かつてダットサン・トラックとかサンプク・メチャ子。千太・万吉。てんや・わんやなどといった…。子子孫彦なんて狂歌師も居たらしいが、このあたり「孫」を歌った大泉逸郎のペンネームにピッタリかもネ。酒上不埒は元武士だったというから、酒クセが悪くて上司にからんだか、他人の女房にエッチしてセクハラでしくじったのではなかろうか。宿屋の飯盛はその名の示す如く旅館を経営していたし、元杢網は京橋で風呂屋を営んでいたという。

あな涼し  浮世のあかをぬぎすてて 西に行く身はもとのもくあみ

――は、辞世の歌であるが、さすがお風呂屋さんだけあってあかぬけてるじゃありませんか。


寛政三奇人の一人、林子平は「海国兵談」を自費出版するも幕府から出版禁止の命。「エロ本と違うぞ」と口惜しがった。印刷の板木までとり上げられてしまう。詠んだ歌が――、

親もなし妻なし板木なし  金も無ければ死にたくもなし

狂歌人の墓は新宿区に平秩東作、文宝堂文宝、絵馬屋額祐、紫ちちぶ、福隣堂鈴成、小餘綾磯女。江東区に手柄岡持、大家裏住。台東区に宿屋飯盛。豊島区は俵船積。文京区に鹿都部真顔、太田蜀山人。


彼らが今の狂った世の中を、どう狂歌で表現しようかと泉下で迷って(悩んで)いる事だろう。そこでバタバタ倒産してる大手の保険会社などに狂友うれしが捧げるウタ。

商いは一ツの道に精を出せ   無理にひろげりゃ元の杢網

前半のレースは当って  もうけたが  欲出し倍買い元のモクアミ

美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

毎日のようにテレビや新聞で殺人、強盗、ヒッタクリ、暴走族などによる事件が報道されている。心配いらんよ警察があるさと言いたいが、これまたエッチ警官や酔っ払い警官が後を絶たない。この何年か度々署のおえらいさんが報道陣のカメラの前に深々と頭を下げるという哀れな姿が目立った。こんな時に銭形平次親分が颯爽と現れて、目にも止らぬ投げ銭の早業でバッタバッタやっつけてくれたらと思うよ。あの投げ銭はかつての名投手・別所や金田、稲尾のモーションを研究したというし、「半七捕物帳」の時の十手さばきは王や長嶋の打撃フォームにヒントを得たとか。そういや野球も目明かしもどっちも捕り物だよね。


長谷川一夫は明治41年(1908年)京都市伏見区の造り酒屋に生まれた。すぐ近くに芝居小屋があって、叔父が経営していたからチョクチョク行っていて芝居大好き人間になってしまう。ある日その芝居の一座の子役がアクシデントで出られない。困っていた時、そうだいつも一番前で観ているあの子なら吃度できるよと勝手に決めて叔父(小屋主)さんに交渉。本人は言われて嬉しくて出たらこれがバカウケ。評判の芝居を観に来たお母さんが目の前で芝居している我が子にビックリ仰天 最初は猛反対だったが、いつしか自分の方がノリノリ。遂に初代中村雁次郎に弟子入りして林長丸という芸名をもらった。


昭和2年(1927年)長丸にとって大きな転機を迎える。雁次郎からお前は活動写真をやってみなさいと命じられ、松竹下加茂に入社した。これが長さんのツキの始まり。だって歌舞伎の世界じゃ名門の生まれでなけりゃ所詮端役でしか使ってもらえない。それがいきなり主役でデビュー。「稚児剣法」…モチのロンこの頃は無声映画、つまり活動写真でござんすよ。この長二郎の余りの美男ぶりに世の女どもはキャーキャーワイワイ。長さんならでは夜も日も明けぬという凄さ。昭和10年(1935年)の「雪之丞変化」は雪之丞、闇太郎、母親の三役をこなし記録的な大ヒットとなった。同じ三役でもウチのカミさんみたいに、妻と母と祖母の三役ってのはもう駄目だっちゅうの。


無声映画からトーキーへ移り変わる時は阪東妻三郎にしても誰もが不安だった。長さんも関西ナマリがあって大丈夫だろうか?とリズム感を良くするために小唄、端唄を習ったり、NHKのニュースを聞いて標準語の勉強をしたらしい。しかしトーキーになっても人気は益々上昇。だが好事魔多しのたとえ通り、松竹に嫌気がさして東宝へ移ることにしたが、そのため暴漢に襲われ(昭和13年)、役者の看板である顔を切られるという事件が起った。傷はひどい物で一カ所が左眼の下から上唇にかけて12センチ。もう一カ所は左耳の下から頬にかけて10センチ。深さが2センチもあり、二枚のカミソリで切っているので絶対に元のように上手く縫い合わせぬと言われた。もう駄目だ、役者稼業は続けられないという絶望感!しかし長さんは不死鳥のごとく甦ったのだ。昭和13年の頃では今のように化膿止めの抗生物質など無い上に、整形手術の技術も進んでいない時代にかなり良い状態で回復したのである。


といってもその傷跡はハッキリ分かるのでいかに化粧でゴマ化すかということになるのだが。手術後の東宝映画の第一回の作品が菊池寛原作の「藤十郎の恋」に決まり、監督が山本嘉次郎でお梶の役は入江たか子。だがここでまたまた災難がやってきた。松竹の方から林長二郎の名を返せと言ってきた。今まで長さん長さんで売ってきた芸名を返せとは…。ちなみに青空うれしを雨空かなしにするより難しいことだあね。側にいた友人で押絵画家の岩田専太郎さんが「長さん、あんたの本名は長谷川一夫だろ。それでいいじゃないか」という一言で決まり撮影開始。サァ、長さん(林長二郎)でなく長谷川一夫で果してお客さんが来てくれるだろうか?これが封切りの日から長蛇の列。長サマに会いたいのと顔の傷はどうなのかの興味とで押すな押すな。二カ所切られてもこれだ。俺なんざ切られてない顔でもモテねえやとフツーのオジさん達は口惜しがったが仕方がない。兵隊ものの映画では軍隊の方から軍人にあんないい男はいないとイチャモンつけられたっていうから大笑い。兵隊はゴツくてセコイ顔がいいんだね。


私生活の方は最初の女房たみ子との間にできた長男の林成年と長女季子、そして二番目の妻となった繁にできた稀世がいて、これも美男スターなら当り前。ボク許しちゃう。自分ができないのでヤケクソ。さあてテレビ時代になっても一夫さんの人気は素晴らしい。「赤穂浪士」では大石内蔵助を長谷川一夫。妻りくを山田五十鈴。蜘蛛の陣十郎を宇野重吉。吉良上野介が滝沢修。そして浅野内匠頭に尾上梅幸という豪華キャスト。だいたい長谷川一夫の相手役の女優さんがいい女ばかり。田中絹代、淡島千景、原節子、高峰三枝子、高峰秀子…まだまだいるけど、またヤケクソになりそうだからやめておこう。


特筆すべきは何といっても宝塚のあの「ベルサイユのばら」の演出だ。それこそ美女軍団の中で演出するなんてスゲー。昭和四十九年(一九七四年)秋の公演から昭和51年(1976年)夏の終演まで空前の大々ヒット。東京宝塚劇場の24公演で実に観客動員が58万人を超え、興行収入は八億四千万円。あのベル・バラでは鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨などのトップスターがステージを飾った。それまで全く宝塚に関心がなかったボクもカミさんが連れて行ってくれないなら別れるの一言で裏から手を回して二度も客席の人となったという甘い、苦い思い出…。


どんなに美男でも、どんなにお金持ちでも、どんなに有名人でも必ず死はやってくる。長谷川一夫とて例外ではなく、昭和59年に華やかな人生のフィナーレを迎えた。国民栄誉賞に輝く長谷川一夫の墓は京都は伏見の極楽寺と東京谷中霊園に分骨されているので「おのおの方、どちらでも近い方へ行って下され」。

希代の悪坊主 河内山 宗俊

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京の青山通り…絶え間なく車が走り足早に人々が行く。そのメインストリートから一歩裏へ入るといきなり人影が薄くなる。そんな一角にある高徳寺の一隅に悪坊主として名高い河内山宗俊(または宗春)が眠っている。


「天保六花撰」という講談を演じていた二世松林伯円のものから河竹黙阿弥が脚色し、一八八一年(明治十四年)三月に新富座で上演して話題になった。これが歌舞伎になるとタイトルも「天衣紛上野初花=くもにまごううえののはつはな」(通称「河内山」)とくるからグッと重みを増すし、配役が凄いね。河内山を九世・市川団十郎、直侍を五世・尾上菊五郎、三千歳が八世・岩井半四郎というスター。


さて、宗俊は幼名を藤太郎といい父親はご本丸奥坊主を勤める河内山宗順。この宗順は人間的にも立派だったがその持っている一物もリッパ。ところがこの親父より凄かったのが宗俊。道端で立ち小便をしていたら通りかかった馬が下を向いて恥ずかしそうに通ったとか。


その宗俊が十八才の時、ある一軒の家からキャー助けてーという絹をさくような若い女の悲鳴。宗俊飛び込んでみると侍が今まさに女を犯そうという寸前。襟首つかんでドーンと投げ飛ばした。侍は慌てて褌を置いたままフリチンで逃げてゆく。女はお雪といって評判の美人。それが巨乳を出し関門海峡丸出しだから宗俊クラクラときた。お雪も助けてくれた恩と目の前に突き出た巨砲にこれまたクラクラでそれを受け入れてしまう。宗俊は早春となってウハウハ。


ところが女が尻軽でご家人片岡直右衛門の倅の直次郎(直侍)とも出来てしまう。間もなく宗俊の知るところとなるが、これがおかしなものでお互いに意気投合。貴様と俺とは同器のサクラ…とお雪を捨てて同盟を結んだ。二人が組んでゆすりたかりの数々。


ある日、直次郎は吉原の大口楼の花魁三千歳といい仲になり遂に掟を犯してまで連れて逃げ、宗俊のところへ転がり込んだ。宗俊は大口楼が役人に訴えていたのを、今清盛といわれ権勢を誇っていた中野碩翁に可愛がって貰っていたのを利用して、逆におどして役人をへこまし大口楼からゼニをせしめる始末。


そのうち上野池之端の上州屋の娘おなみが、麹町の松平出羽守のところへ奉公に上がったが、妾になれと無理難題をいわれ困ってるというのを聞きつけた。そこで上野の宮の贋使僧となって直次郎を供に乗り込んだ。そして「ご門主の碁のお相手をする者の娘が当屋敷でムリに側室にされそうとか。もしご門主が知ったら十八萬六千石はどうなりますかな」と凄んだ。すると雲州候慌てて、女は返しますと小判をワンサとつけて謝った。意気高々引揚げるところを玄関先で北村大膳に、見覚えのあるその高頬のホクロ と見破られるが、ハナの先で笑って「俺がこの話ブチまけりゃ松江候もお前らもフッ飛ぶぜ」と脅した。


しかしその後、水戸家の会計係大久保今助に美人局をやり脅して二百両をせしめたのが最後で召し捕られ、牢内で毒を盛られて死んだ。死体を埋めたところから一本の大きなキノコが生えた。もちろん毒キノコだったそうな。

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