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青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

  青空うれし
漫才師の青空うれし師匠の趣味は、なんと「有名人のお墓の写真」を集めること。
そんな師匠が全国各地にある有名人のお墓を紹介します。


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【左から】
・幕末末三周の一人 山岡鉄舟のお墓
・三遊派の大名人円朝師匠
・転々と職を変え名を変えた 吉川英治
・毒ある花は美しい高橋お伝のオハナシ

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【左から】
・学者で歌謡曲の詩を書いた西条八十  
・柔道ニッポンの父 加納 治五郎 
・元杢網(モトのもくあみ)生まれた元の地にねむる


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【左から】
・美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫
・希代の悪坊主 河内山 宗俊
・江戸文学 井原西鶴

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【左から】
・詩人で歌人の北原白秋
・俳優、演出家、そして「江戸むらさき」の三木のり平
・笑わせる事だけに生きた由利徹サン
・アメリカで最初のプロ野球人だった ジャップ・ミカド


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【左から】
・代表作「父帰る」を残した 菊池寛
・「長谷川平蔵」である  鬼より恐い鬼平さん
・今晩ワ 三波春夫でございます
・日本一高名な有名人 きんさんデス


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【左から】
・老人パワーの鏡 ぎんさんの墓
・将棋の名人は旅人サンだった 関根金次郎
・武蔵野に根を張った 小金井小次郎親分
・ヤセたい人は食べなさい 鈴木その子


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【左から】
・北方領土で名を売った間宮林蔵
・粋でオシャレでめっちゃイカス 吉田茂首相
・ニャンとも真面目芸人だった 江戸家猫八師匠
・ハワイアンミュージックの神様 バッキー白片


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【左から】
・日本のレオナルド・ダヴィンチ―小堀遠州
・傘をクルクルおめでとう―曲芸の海老一染太郎さん
・八代目三笑亭可楽サンは 酒と女と暇が好き
・ウン千万円?の画伯の絵が……東郷青児


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【左から】
・スーパーマンのはなし家――柳家金語楼
・明治大学の名物猪監督 島岡吉郎
・アブさんでお馴染みの 闘将 景浦 将 故郷の地に
・早咲きの詩人ミュッセ―早く散る


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【左から】
・詩人のアポリネールはパリのペール・ラシェーズにネールよ
・宗教画家として有名・ロマン主義の大画家 ウジェーヌ・ドラクロア
・生涯独身を通したエドガー・ドガ
・本物の大女優 サラ・ベルナール


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【左から】
・美人で暗く逝ったダリダ
・鬼気迫る画を描いたテオドール・ジェリコー
・ああ 切ない フランツ・P・シューベルト
・楽聖 ベートーベン


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【左から】
・仏の女流画家 マリー・ローランサンさん
・ワルツと言えばこの人 ヨハン・シュトラウス
・傷たらけの人生 井上 馨
・マッキンリーの山に消えた冒険家 植村直己サン


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【左から】
・二科会創立者の一人 梅原龍三郎
・神田お玉ガ池の親分若死に 大川橋蔵
・狂歌の蜀山人は食山人 太田南畝の墓
・パリの日本人 萩須高徳画伯


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【左から】
・虎退治の武将 加藤清正
・華やかな栄光 そして悲しい別れ 歌手 楠木繁夫・三原純子さん
・直木賞作家 胡桃沢耕史 直木三十五と並んで永眠
・日本の夜明けから歴史と共に歩んだ西園寺公望公


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【左から】
・サイパンの戦場跡に建つ戦死者の墓
・小指の思い出浪曲の相模太郎師匠
・情けが仇の入道 平清盛
・「冬ソナ」ブーム以前にブレイクした歌手 織井茂子さん


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【左から】
・永遠に歌い続けられる「リンゴの唄」の並木路子
・其角と俳句と破れし初恋 宝井其角
・94歳まで歌い続けた塩まさるさん
・タクアンの創始者沢庵和尚


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【左から】
・山椒は小粒で大物浪曲家三代目 玉川勝太郎
・水道の恩人 玉川兄弟
・アトムやレオでお馴染みの手塚治虫センセ巣鴨に眠る
・ポンコツおやじ。チンコロ姐ちゃんの富永一朗先生の円型墓


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【左から】
・オリンピックに出したい弓の名人 那須与一   
・戦国武将 新田義貞の不思議
・気品も自信もあった本阿弥光悦


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【左から】
・豪弓を射た為朝の最後に島民は号泣。源為朝、伊豆大島に
・恥ずかしながらとテレた横井庄一さん
・強運の我がオ父つぁん コロムビア・トップ家の墓石
・ヤクザ旗本 水野十郎左衛門

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【左から】
・歌謡曲にもなった侠客会津の小鉄(上坂仙吉)
・東洋のネルソン平八郎元帥のフンドシ
・侠客と十手の二束のワラジ祐天仙之助
・西部劇に出てくる保安官は実在の人だった

幕末三周の一人 山岡鉄舟のお墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京の台東区は数多くの有名人の眠っている所だが、鉄舟の墓は全生庵。三舟のうちもう一人髙橋泥舟も同じ台東区の大雄寺。勝海舟だけが大田区は手洗地畔の御松庵に眠る。友人のS君が海舟の描いた絵に鉄舟と泥舟が字を添えたという額を持っていた。しかしどうも不鮮明? S君の母親がホコリがかぶっていて汚いからと雑巾でふいたので変な物になってしまったという。

ある日、世田谷の区民会館で無料でお宝を鑑定してくれたことがあり、S君も恐る恐る持参したところ、くだんの鑑定師、首をひねりながら何かこの絵は変だなあとつぶやく。そこでS君、実はオフクロが雑巾を……と言うと、その鑑定師バカデカイ声で「ウーン、無智ほど恐ろしいものはない」。他の十人ほどいた人は笑う。本人はまっ赤になって額を受け取り早々に逃げ帰ったそうな。

鉄舟が勝安芳に頼まれて西郷隆盛を説得し、徳川家を救う道として江戸城の開城をあっせんしたのは有名なハナシ。

鉄舟の逸話は沢山ある。

明治天皇の側近となった時、天皇から相手せよと相撲を取ったとか(しかしこれは嘘っぽいネ)。

賞勲局から呼び出しがあってもそんなのいらんと出向かない。すると井上馨が勅使としてやって来て、勲三等の勲記と従四位の位記を持ってきた。鉄舟は見たから持って帰れと言う。井上は冗談じゃない、小僧の使いじゃないぞと気色ばむ。すると鉄舟は「小僧の使いではないか 」とタンカ。井上はこのままでは収まらぬとつめ寄った。そこで鉄舟、「お前の懸けてるのはそりゃ何等か?」「ウン、これは一等だ」「ホウ、お前のが一等でワシが三等か、馬鹿も休み休み言え」「ナヌ 」「明治の泰平を成したのは西郷ドンとワシじゃ、お前などフンドシ担ぎではないか。帰れ帰れ」と追い帰してしまった。

イヨー鉄ちゃんイカしてるぜ。

その時井上がそんな強がりを言って食うに困らんかと言ったのを、結構気だらけ猫灰だらけと大みえきって大貧乏生活に甘んじ、化物屋敷といわれた住居にボロ布団にくるまって寝ていた。

剣は名人達人の浅利叉七郎、千葉周に学んだし、自ら開いた道場にも沢山の門人が集った。他人の弱点を突くな、人を殺すな……が生涯の自戒で、無双の使い手の鉄舟は虫一匹殺さなかったというから立派。最近の十七、八のガキは訳も分らず殺したがる。鉄舟の墓にでもお参りして少しはリコウになれバカ !!

この全生庵には鉄舟と落語の三遊亭円朝の墓がある。何か関係が? 大いにあって、鉄舟が円朝を呼んで話を聞くと、お前の話は心でなく舌の先でシャベってるから人物が死んでると厳しく言った。円朝恐れ入って禅の修業をしたとか。そして鉄舟死の床にあった時に円朝を呼んで、何ぞ面白い咄をしてくれと頼んだ。終るとありがとうよと言った翌日、あの世へ旅立った。鉄舟さんと円朝さんの写真を撮った日に東京ドームでゲームを観たら、何と延長戦。

三遊派の大名人  円朝師匠

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

山岡鉄舟と同じ墓地(台東区の全生庵)に名人三遊亭円朝(1839~1900)が眠っている。先日、昔々亭桃太郎さんに会った時、落語家は頭が良いんですよ、頭が悪けりゃ落伍者なんですから……と面白い事を言ってた。なるほどこの円朝さんもズバ抜けて頭が良かったようだ。
 
  「エー毎度馬鹿々々しいお笑いで……」。
 
ただ客を笑わせるばかりが落語ではない。シットリとジックリと聞かせる人情噺もある。円朝は人情噺や怪談でつとに有名なのだ。

本名を出淵次郎吉といって、お蔦、主税の物語りでお馴染の湯島切通しで産声をあげた。
 
オジイちゃんは立派な武士だったのに、オ父っあんはオラこんな生活ヤだと刀を捨てて何と、ハナシ家の二世円生の弟子になっちゃたってんだから当時としてはケタ外れた奇談。何しろ刃物は庖丁見ても青くなったというから、とてもオサムライさんにはなれない。この親にしてこの子有り。次郎吉もオイラも噺家になって若いギャルにモテたいッ と同じ門下に入って小円太という芸名を貰った。次郎吉なんて名は、所詮ねずみ小僧次郎吉にかないっこない。芸人になって大正解。高座でシャべるとこれが中々センスがいい。これが親父より上手いのだ。
 
17才の時真打ちとなって円朝と改めた。この世界、今も昔も変らない。ヒトより目立たなけりゃ売れっこないと、顔に薄化粧をほどこし、ド派手な衣装をまとって高座に現われた。果してギャルはキャー円ちゃんとまるでキムタクですよ。

しかし今時の一寸TVでリポーターしたり、本業と別の事で売れて本来の落語をダメにしてしまう落語家とは訳が違う。面白いとか格好いいとかだけでは永世に名を残す事は出来ないと、話術に磨きをかけ芝居噺に力を入れた。

その時に人気役者の声色も使って話したというから落語と声帯模写を一人二役でこなしたのだ。
 また、ここぞという話の盛り上がりでサッと幕を下ろすとバックに今話している背景が描かれているという新しい演出に人々はビックリ。

創作力もすぐれていて外国の翻案物も手がけ人々に拍手で迎えられた。サルドウの「トスカ」に基づく「名人競」。また、中国の「牡丹灯記」は当りに当った。
他にも自作の名作「真景累ガ淵」、「荻江の一節」、「塩原太助」、「怪談乳房榎」、「鶴殺し嫉妬庖丁」などがある。
現在落語界は芸術協会と落語協会が新宿の末広亭や上野の鈴本で公演をしているが、三遊派は喧嘩別れして常席を追われ、円楽が柱となって独自の公演をしているし、立川派も談志が立川流を名乗って別行動。

「エー馬鹿々々しいお笑いを」なんて言っている場合じゃない。バカバカしい喧嘩をやめて本物の笑いを追求したらどうかね。韓国と北朝鮮だって積年の恨みつらみを捨てて歩みよったんだぜ。

噺家さんたちが皆で1889(明治22)年3月、三遊派繁栄の記念と初世円生の追善顕彰の三遊塚を建立しているのに。

転々と職を変え 名を変えた 吉川英治

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浪曲漫才のさがみ三太さんや春日三球さん達と青梅の方に仕事に行った帰りに、吉川英治記念館に立寄った。「オレも物書きになりゃよかったな」と三球さん。声帯模写の、はたけんじさんがすかさず、「物書きは無理でしょ。恥かきぐらいで」。英治の略歴を見たら三球さんが「ヘエ、家系は元武士なんだ」。すると三太さんが「私だって元ブシですよ」、「?」、「浪花節ですから」。どこへ行っても芸人が集まるとまともな会話が無い。


明治25(1892)年8月11日、現在の横浜市中区に生れる。本名は英次。父は海運業界で羽振りが良かったが、英次が小学校の時代に突如海運から悪運に見舞われ金運も悪くなって学校にも行けなくなってしまう。昨日までのお坊ちゃまが今日から丁稚奉公。こりゃ辛いよ切ないよ。


最初に勤めたのが川村印房。次に印刷所の少年工。行商からヨイトマケ、税務監督局の給仕の次が何と流しの按摩までしたという。そりゃアンマリな まだまだ続くよお客さん、雑貨商へ住込みから横浜船渠での力仕事。ここで高い足場から十数メートル下へ落ちて入院し、九死に一生を得た。この時にオラ、もうこんな生活ゴメンだと東京へ出る決心をした。


東京へ出たものの当てはない。又々手提金庫の店から金属象眼の下絵描きに。ここでやっと自分が好きでやれる仕事にありつく。大正2年頃から作家として活路がひらけてくるのだ。 処女作の「江の島物語」が認められた。同時に女の方もツイて、最初の女性が目の覚めるような美人芸妓の赤沢やすさん。イイ女は金持ちダンナが寄ってくる。次々に旦那を代えて英治に貢いでくれる。アー羨ましい。青空うれしに貢いでくれる女募集中!!


しかし女心はわからない。ある日大陸へ行ってしまう。英治も追うようにして大連へ行くが大恋愛も大連哀で終り。向うで書いた小説二編が共に一等という知らせ。日本に戻ってから製薬会社へ勤めながら作家へ。この先もいろいろ苦労はあったがとにかくヒット作に恵まれた大作家。代表作は勿論「鳴門秘帖」、「親鸞記」、「宮本武蔵」、「神州天馬侠」、「新平家物語」などきりがない。


英治はその名に落着くまでペンネームを19回変えている。噺家古今亭志ん生は借金取りに追われて16回芸名を変えている。オウムが何とかいうのに変えたなんてのはメじゃない。


吉川英治が授賞式のパーティーで、徳川夢声に「英治氏は結婚式も新婚旅行もしていない」とスピーチされ、「夢声氏から暴露されましたが、私は結婚式はしなかったが新婚旅行は致しております。この点訂正致します。イヤそれのみではありません。賞を貰ったのは実は今度が初めてであります。競争馬の賞は一昨日買いましたが、これは無知なる動物をそそのかして搾取したものでありまして、取ったのは馬でしてこれは私の克ち得た賞とは言えないのであります」。 実にユニークなスピーチじゃないですか。「この人は英語の新聞読んでましてね」と三球さん。「エージ新聞と言いたいの?」と三太さん。「この辺でヨシカワです」とはたさん。これ以上ははた迷惑!!

毒ある花は美しい 高橋お伝のオハナシ

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京・台東区の谷中霊園には沢山の有名人が眠っている。作家の獅子文六、円地文子。政治家・鳩山一郎。画家の横山大観。俳優・長谷川一夫などがズラリ。ところがこの中にどういう訳か、毒婦といわれた高橋お伝の墓があるのが妙である。
 

明治12年1月31日、市ヶ谷監獄の裏手にあった刑場で、お伝は首をはねられた。刑の執行前に首斬り浅右衛門が最後に言い残すことはないか!と言ったら「美味しいおでんが食べたい」。言う訳ないね。


群馬県利根郡にお春という女がいた。沼田城主土岐氏の家老・広瀬半右衛門の屋敷奉公に上がっていたが、いい女だったから好色ジジイの家老がレイプしてしまう。子供ができたら邪魔だと目腐れ金でポイ。家へ帰ったが、近所の勘左衛門て奴がこれまたお春に色目を。子供が腹にいるのを承知で、いい女抱きたいと一緒になった。生まれたのがお伝。金もないボンクラ亭主はご免だと、お春は二歳のお伝を残したまま家出してしまった。


昔は年齢制限なしだから、早熟だったお伝は14歳の時に宮下治郎兵衛の次男・要次郎を婿養子にとった。要さんがこれぞ養子の温和な男、ところがお伝は気が強く攻撃型。鉄の長火箸でメチャクチャにブチのめすので三カ月で逃げ出しちゃった。この後、お伝もこんな家にゃ居られぬと飛び出し、中山道の板鼻宿にあった仕出し屋に勤めたが、横浜の生糸商人・小沢伊平に口説かれて商売で泊まっている20日間だけ援助交際して貰ったゼニが30円。今の金に換算すると石文社の社員の給料一年分。


一旦養家へ戻り、も一度波之助という男を婿に迎えた。これが役者のようないい男だったから、お伝も今度は満足。だけど世の中うまくいかぬもので、この波さん、人の嫌う癪病におかされてしまう。そうなると村には居られず東京へ出た。以前金を貰った横浜の小沢伊平を頼り、伊平には波之助を兄だと偽った。小さな家を与えられたが、波之助が死亡。病名がバレ、兄だという嘘もバレて追い出されてしまったお伝。


しかしお伝はしぶとい女だ。この伊平の友人で小川市太郎という男がお伝にかねがね気があるのを知っていたので、そこへ訪ねていった。市太郎は大喜び。ところがこの市太郎、義母との二人暮しで何と義母とセックスしてたんだから家の中へ入れられっこない。この義母を殺して床下へ埋めて、お伝を入れたってんだから非道い奴。天モウ・カイカイ。そのカユイ吹き出物が全身に出てきて苦しむ。義母の祟りじゃ。


お伝は横浜の小沢伊平の店へ忍び込み生糸や帯地などを盗み出して、それを古着屋へ持ち込んだ。はじめは金を出し渋っていた後藤吉蔵、お伝の艶かしさに下半身ズキズキ。今夜金渡すからと下心。そば屋で待ち合わせ、浅草蔵前の旅人宿「丸竹」へ連れ込んだ。その時、お伝はフトコロに剃刀を隠し持っていて、吉蔵のノドをグサッ!哀れ吉蔵は凶蔵になって死に絶えた。


お伝の陰部は切り取られアルコール漬けにされているとか。果して『何でも鑑定団』に出したら幾らの値が付くか。

学者で歌謡曲の詩を書いた 西条八十

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今から何十年も前、そう40年近くはなると思う。上野の不忍の池畔に〝唄を忘れたカナリヤは…〟の歌碑が建立され、その記念碑の前で児童合唱団が歌い、作詞者の西条八十氏も列席し一言述べた。司会は若き日の青空うれし。その時カメラを持って行き、そしてサインをおねだりしてたら立派なお宝になっていたかも。西条八十は本名でもあり、ご両親は苦労のないようにと九を抜いた八と十で八十と命名したという。


フランス留学から帰国した八十は詩人として、早稲田大学の教授としてすでに一家を成していた。雑誌に「当世銀座節」という作品を載せたところ、当時売れっ子の作曲家・中山晋平が訪ねて来て、是非あの詩に私の曲をつけさせて欲しいと言われた。その事がキッカケで「唐人お吉」や「東京行進曲」の誕生をみることになった。


この「東京行進曲」にはいろいろエピソードがありましてねぇ…と歌手で作曲家の三鷹淳さん。このヒト、歌のことはもちろん麻雀、ポーカー、野球にゴルフ、世界史に女性史に詳しいという変な親友。


雑誌の「キング」に菊池寛の長編小説「東京行進曲」が連載され、これが日活で映画化されることになり、ビクターが主題歌をつくって歌ったのが日本の流行歌歌手第一号の佐藤千夜子。そしてこれが映画主題歌の第一号でもあった。この歌は四番まであって、一番は

〝昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知る ジャズで踊って リキュールで更けて 明けりゃ ダンサーの涙雨〟 

であるが、最初は「明けりゃ彼女の涙雨」だったそうな。それを作曲の中山センセがどうしてもダンサーにしてくれと言うので、折れたらこれが当たった。センセ、ダンサーにハマってたんじゃん?

更に四番の詩の

〝シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか〟

の歌詞に小田急電鉄会社からクレームがついた。何だ我社のデンシャは駆け落ちの電車か ところが歌の大ヒットがかえって小田急人気。ズーと後、終戦後になって、「あの節は…」と西条センセ、会社の顧問待遇になりましたとさ。メデタシ、メデタシ。


三鷹さんの奥さんはこれもコロムビアの美人歌手。西条センセの詩、市川昭介センセの作曲で「男って恐いわ」というレコードを出した。病床で亡くなるまでジーと聞いてた西条センセ。この娘は凄く可愛いんだよとセンセのお嬢様におっしゃっていたというが、今やゴルフのアマチュア大会で優勝したり、どこのコンペでも必ず上位。先生が今おられたらきっと「女って恐いね」という詩を書いたかもネ。


「東京行進曲」の原作者・菊池寛センセのラブレターもどきの手紙を貰ったのは二代目のコロムビア・ローズさん。これもお宝。


ところで今年10月26日に三鷹淳さんの歌手生活40周年の記念として軍歌のCDが発売(コロムビア)される。その中にたった一曲ではあるが「ラバウル小唄」を青空うれしさんが歌っているのだ。これは買うべし、求めるべし。お宝鑑定は30年後に…。


西条八十の墓は松戸の新八柱霊園デス。

柔道ニッポンの父 加納 治五郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

2000年のミレニアム。20世紀最後の年に巨人軍がセ・リーグの優勝を飾り、パ・リーグのダイエーが優勝したことで夢にまで見たO・N対決が見られた。ファンにとって待ちに待った夢が正夢になった記念すべき年となった。 


だが、しかし何といっても二十世紀掉尾を飾る一大イベントはあのシドニーオリンピックであった。そして幕開き早々ヤワラちゃんの田村亮子(48㎏級)、野村忠宏(60㎏級)、井上康生(100㎏級)らが早くも金メダルを獲って日本中が湧いた。


しかし、絶対これも金以外何ものでもない篠原信一(100㎏超級)は、ニュージーランドの主審モナハンの大誤審で敗れた。「ウッソー」という言葉はこの馬鹿モナハンのためにあった言葉だった。


世界中の人が呆れたこのモナハンの失態も最低だが、嘘の金メダルを誇らしげに持ち帰ったドウイエって奴も、ドウイエばいいかってえとクソヤローとしか言いようがない。投げられた自分が一番分かっている筈なのだから、自分から納得のいくようにもう一回ヤリ直しさせて下さいといえば、たとえ下った判定がヒックリ返らなくても惜しみない拍手を送ってやれたものを。こんなみっともない柔道をもし講道館初代館長で柔道の始祖・加納治五郎が見ておられたら何と言ったであろうか。やはり「カノウ事ならもう一回 」と…。イヤ、シャレを言うのもハラが立つ。


治五郎は1806年、兵庫県武庫郡の御影町に生まれた。11歳の時に上京し、塾生から二松学舎、外国語学校へと進み、この頃から柔術に興味をもち天神真揚流の福田八之助に学んだ。しかし福田が急逝したため起倒流の飯久保恒年についてエイ ヤツ と学問と柔術に励み、明治14年に東大を卒業したという偉い人。


更に大学に残って文学部道義学、審美学を研究しながら学習院の講師も勤めたってんだからスゴーイ。そして明治15年、下谷(現・台東区)の北稲荷町の永昌寺にわずか12畳の講道館が誕生。以来8回ほど場所が変って現在の水道橋の近くに至った。柔術を柔道とすることによってより人間形成の道を拓いたのである。


講道館四天王といわれた横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎、山下義昭らが加納を助けて講道館を隆盛させたが、あの姿三四郎はこの中の西郷四郎(墓は長崎の大光寺)がモデルであるという。


ちなみに柔道に関する歌は?と調べてみたら、村田英雄が「柔道一代」(昭和38年)、「姿三四郎」(昭和39年)、「柔道水滸伝」(昭和40年)を出しているが、何といっても大ヒットはあの美空ひばりの「柔」(やわら…昭和40年)であろう。

“勝つと思うな  思えば負けよ〟

と歌い出しにあるように、勝った と思ったのに負けた篠原クン、残念だろう。外国旅行が何より好きなこの俺だが、今回の件でニュージーランドだけは絶対行かないと心に決めているのだ。ナニ?行くゼニが無かろうって?生まれたばかりの産院へ行ってみろ。そこは乳児ランドだッ。


(加納治五郎の墓は千葉・松戸市の八柱霊園)

元杢網(モトのもくあみ) 生まれた元の地にねむる

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ボクはズーッと以前から狂歌をつくった人達の墓を訪ねてみたいと思っていた。野球狂であり、お墓狂であるボクは狂のつく歌づくりに興味を持った。四方の赤良ともいう太田蜀山人はあまりにも有名である。しかし他の人達はほとんど一般には知られていない。そのペンネームを紹介するだけで楽しくなる江戸末期の狂歌人の墓はどこにあるのだ 。


20世紀も終ろうとしている11月5日、埼玉県の嵐山町へ講演で招かれた。そこに狂歌師の元杢網の墓が在ったから仕事前に写真を撮りに行く。道から少し入った繁みの中の小暗い場所にそれは在った。町で力を入れてもっとアピールしてもらいたい人物であり墓だと、淋しくなったネ。


杢網は本名を鈴木喜三郎といい、この嵐山の杉山というところで生れた。江戸へ出てボクちゃんの才能を生かそうと、ある日ある時故郷を後にした。江戸は狂歌仲間が一杯居る。女房のすめもすめば都と大満足。このカミさんは頭もいい切れ者でありながら狂歌のペンネームは知恵内子といった。


内山賀邸門下の人達が口ききで、狂歌づくりの仲間が集まって楽しい会をつくろう!と、唐衣橘州、大根太木、太田蜀山人、頭光、宿屋飯盛、鹿都部真顔、大家裏住、浜辺黒人、酒上不埒、朱楽菅江、などがワイワイドカドカ集合。菅江のカミさんなんかも節松嫁嫁ってんだから恐れ入る。


このあたり漫才の芸名などと似ている。かつてダットサン・トラックとかサンプク・メチャ子。千太・万吉。てんや・わんやなどといった…。子子孫彦なんて狂歌師も居たらしいが、このあたり「孫」を歌った大泉逸郎のペンネームにピッタリかもネ。酒上不埒は元武士だったというから、酒クセが悪くて上司にからんだか、他人の女房にエッチしてセクハラでしくじったのではなかろうか。宿屋の飯盛はその名の示す如く旅館を経営していたし、元杢網は京橋で風呂屋を営んでいたという。

あな涼し  浮世のあかをぬぎすてて 西に行く身はもとのもくあみ

――は、辞世の歌であるが、さすがお風呂屋さんだけあってあかぬけてるじゃありませんか。


寛政三奇人の一人、林子平は「海国兵談」を自費出版するも幕府から出版禁止の命。「エロ本と違うぞ」と口惜しがった。印刷の板木までとり上げられてしまう。詠んだ歌が――、

親もなし妻なし板木なし  金も無ければ死にたくもなし

狂歌人の墓は新宿区に平秩東作、文宝堂文宝、絵馬屋額祐、紫ちちぶ、福隣堂鈴成、小餘綾磯女。江東区に手柄岡持、大家裏住。台東区に宿屋飯盛。豊島区は俵船積。文京区に鹿都部真顔、太田蜀山人。


彼らが今の狂った世の中を、どう狂歌で表現しようかと泉下で迷って(悩んで)いる事だろう。そこでバタバタ倒産してる大手の保険会社などに狂友うれしが捧げるウタ。

商いは一ツの道に精を出せ   無理にひろげりゃ元の杢網

前半のレースは当って  もうけたが  欲出し倍買い元のモクアミ

美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

毎日のようにテレビや新聞で殺人、強盗、ヒッタクリ、暴走族などによる事件が報道されている。心配いらんよ警察があるさと言いたいが、これまたエッチ警官や酔っ払い警官が後を絶たない。この何年か度々署のおえらいさんが報道陣のカメラの前に深々と頭を下げるという哀れな姿が目立った。こんな時に銭形平次親分が颯爽と現れて、目にも止らぬ投げ銭の早業でバッタバッタやっつけてくれたらと思うよ。あの投げ銭はかつての名投手・別所や金田、稲尾のモーションを研究したというし、「半七捕物帳」の時の十手さばきは王や長嶋の打撃フォームにヒントを得たとか。そういや野球も目明かしもどっちも捕り物だよね。


長谷川一夫は明治41年(1908年)京都市伏見区の造り酒屋に生まれた。すぐ近くに芝居小屋があって、叔父が経営していたからチョクチョク行っていて芝居大好き人間になってしまう。ある日その芝居の一座の子役がアクシデントで出られない。困っていた時、そうだいつも一番前で観ているあの子なら吃度できるよと勝手に決めて叔父(小屋主)さんに交渉。本人は言われて嬉しくて出たらこれがバカウケ。評判の芝居を観に来たお母さんが目の前で芝居している我が子にビックリ仰天 最初は猛反対だったが、いつしか自分の方がノリノリ。遂に初代中村雁次郎に弟子入りして林長丸という芸名をもらった。


昭和2年(1927年)長丸にとって大きな転機を迎える。雁次郎からお前は活動写真をやってみなさいと命じられ、松竹下加茂に入社した。これが長さんのツキの始まり。だって歌舞伎の世界じゃ名門の生まれでなけりゃ所詮端役でしか使ってもらえない。それがいきなり主役でデビュー。「稚児剣法」…モチのロンこの頃は無声映画、つまり活動写真でござんすよ。この長二郎の余りの美男ぶりに世の女どもはキャーキャーワイワイ。長さんならでは夜も日も明けぬという凄さ。昭和10年(1935年)の「雪之丞変化」は雪之丞、闇太郎、母親の三役をこなし記録的な大ヒットとなった。同じ三役でもウチのカミさんみたいに、妻と母と祖母の三役ってのはもう駄目だっちゅうの。


無声映画からトーキーへ移り変わる時は阪東妻三郎にしても誰もが不安だった。長さんも関西ナマリがあって大丈夫だろうか?とリズム感を良くするために小唄、端唄を習ったり、NHKのニュースを聞いて標準語の勉強をしたらしい。しかしトーキーになっても人気は益々上昇。だが好事魔多しのたとえ通り、松竹に嫌気がさして東宝へ移ることにしたが、そのため暴漢に襲われ(昭和13年)、役者の看板である顔を切られるという事件が起った。傷はひどい物で一カ所が左眼の下から上唇にかけて12センチ。もう一カ所は左耳の下から頬にかけて10センチ。深さが2センチもあり、二枚のカミソリで切っているので絶対に元のように上手く縫い合わせぬと言われた。もう駄目だ、役者稼業は続けられないという絶望感!しかし長さんは不死鳥のごとく甦ったのだ。昭和13年の頃では今のように化膿止めの抗生物質など無い上に、整形手術の技術も進んでいない時代にかなり良い状態で回復したのである。


といってもその傷跡はハッキリ分かるのでいかに化粧でゴマ化すかということになるのだが。手術後の東宝映画の第一回の作品が菊池寛原作の「藤十郎の恋」に決まり、監督が山本嘉次郎でお梶の役は入江たか子。だがここでまたまた災難がやってきた。松竹の方から林長二郎の名を返せと言ってきた。今まで長さん長さんで売ってきた芸名を返せとは…。ちなみに青空うれしを雨空かなしにするより難しいことだあね。側にいた友人で押絵画家の岩田専太郎さんが「長さん、あんたの本名は長谷川一夫だろ。それでいいじゃないか」という一言で決まり撮影開始。サァ、長さん(林長二郎)でなく長谷川一夫で果してお客さんが来てくれるだろうか?これが封切りの日から長蛇の列。長サマに会いたいのと顔の傷はどうなのかの興味とで押すな押すな。二カ所切られてもこれだ。俺なんざ切られてない顔でもモテねえやとフツーのオジさん達は口惜しがったが仕方がない。兵隊ものの映画では軍隊の方から軍人にあんないい男はいないとイチャモンつけられたっていうから大笑い。兵隊はゴツくてセコイ顔がいいんだね。


私生活の方は最初の女房たみ子との間にできた長男の林成年と長女季子、そして二番目の妻となった繁にできた稀世がいて、これも美男スターなら当り前。ボク許しちゃう。自分ができないのでヤケクソ。さあてテレビ時代になっても一夫さんの人気は素晴らしい。「赤穂浪士」では大石内蔵助を長谷川一夫。妻りくを山田五十鈴。蜘蛛の陣十郎を宇野重吉。吉良上野介が滝沢修。そして浅野内匠頭に尾上梅幸という豪華キャスト。だいたい長谷川一夫の相手役の女優さんがいい女ばかり。田中絹代、淡島千景、原節子、高峰三枝子、高峰秀子…まだまだいるけど、またヤケクソになりそうだからやめておこう。


特筆すべきは何といっても宝塚のあの「ベルサイユのばら」の演出だ。それこそ美女軍団の中で演出するなんてスゲー。昭和四十九年(一九七四年)秋の公演から昭和51年(1976年)夏の終演まで空前の大々ヒット。東京宝塚劇場の24公演で実に観客動員が58万人を超え、興行収入は八億四千万円。あのベル・バラでは鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨などのトップスターがステージを飾った。それまで全く宝塚に関心がなかったボクもカミさんが連れて行ってくれないなら別れるの一言で裏から手を回して二度も客席の人となったという甘い、苦い思い出…。


どんなに美男でも、どんなにお金持ちでも、どんなに有名人でも必ず死はやってくる。長谷川一夫とて例外ではなく、昭和59年に華やかな人生のフィナーレを迎えた。国民栄誉賞に輝く長谷川一夫の墓は京都は伏見の極楽寺と東京谷中霊園に分骨されているので「おのおの方、どちらでも近い方へ行って下され」。

希代の悪坊主 河内山 宗俊

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東京の青山通り…絶え間なく車が走り足早に人々が行く。そのメインストリートから一歩裏へ入るといきなり人影が薄くなる。そんな一角にある高徳寺の一隅に悪坊主として名高い河内山宗俊(または宗春)が眠っている。


「天保六花撰」という講談を演じていた二世松林伯円のものから河竹黙阿弥が脚色し、一八八一年(明治十四年)三月に新富座で上演して話題になった。これが歌舞伎になるとタイトルも「天衣紛上野初花=くもにまごううえののはつはな」(通称「河内山」)とくるからグッと重みを増すし、配役が凄いね。河内山を九世・市川団十郎、直侍を五世・尾上菊五郎、三千歳が八世・岩井半四郎というスター。


さて、宗俊は幼名を藤太郎といい父親はご本丸奥坊主を勤める河内山宗順。この宗順は人間的にも立派だったがその持っている一物もリッパ。ところがこの親父より凄かったのが宗俊。道端で立ち小便をしていたら通りかかった馬が下を向いて恥ずかしそうに通ったとか。


その宗俊が十八才の時、ある一軒の家からキャー助けてーという絹をさくような若い女の悲鳴。宗俊飛び込んでみると侍が今まさに女を犯そうという寸前。襟首つかんでドーンと投げ飛ばした。侍は慌てて褌を置いたままフリチンで逃げてゆく。女はお雪といって評判の美人。それが巨乳を出し関門海峡丸出しだから宗俊クラクラときた。お雪も助けてくれた恩と目の前に突き出た巨砲にこれまたクラクラでそれを受け入れてしまう。宗俊は早春となってウハウハ。


ところが女が尻軽でご家人片岡直右衛門の倅の直次郎(直侍)とも出来てしまう。間もなく宗俊の知るところとなるが、これがおかしなものでお互いに意気投合。貴様と俺とは同器のサクラ…とお雪を捨てて同盟を結んだ。二人が組んでゆすりたかりの数々。


ある日、直次郎は吉原の大口楼の花魁三千歳といい仲になり遂に掟を犯してまで連れて逃げ、宗俊のところへ転がり込んだ。宗俊は大口楼が役人に訴えていたのを、今清盛といわれ権勢を誇っていた中野碩翁に可愛がって貰っていたのを利用して、逆におどして役人をへこまし大口楼からゼニをせしめる始末。


そのうち上野池之端の上州屋の娘おなみが、麹町の松平出羽守のところへ奉公に上がったが、妾になれと無理難題をいわれ困ってるというのを聞きつけた。そこで上野の宮の贋使僧となって直次郎を供に乗り込んだ。そして「ご門主の碁のお相手をする者の娘が当屋敷でムリに側室にされそうとか。もしご門主が知ったら十八萬六千石はどうなりますかな」と凄んだ。すると雲州候慌てて、女は返しますと小判をワンサとつけて謝った。意気高々引揚げるところを玄関先で北村大膳に、見覚えのあるその高頬のホクロ と見破られるが、ハナの先で笑って「俺がこの話ブチまけりゃ松江候もお前らもフッ飛ぶぜ」と脅した。


しかしその後、水戸家の会計係大久保今助に美人局をやり脅して二百両をせしめたのが最後で召し捕られ、牢内で毒を盛られて死んだ。死体を埋めたところから一本の大きなキノコが生えた。もちろん毒キノコだったそうな。

江戸文学 井原西鶴

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江戸の文化を語る時、近松門左衛門と井原西鶴を外す事は出来まい。近松は1653~1724とその生死もハッキリしているし、生涯の活動もかなり明記されているのに対し、西鶴の方は1642(寛永19)年大阪の鎗屋町に生まれたという以外すべてわかっていないという。武士の出だというハナシもあるが、父は刀剣等の商いをしていたらしいとこれもオ噂の一ツ。両親亡き後、祖父に育てられたというこれも噂バナシ。

15才(明暦二年)の時西鶴は足袋屋へ奉公に出された。可愛い子にはタビを……違うってえの。しかし、このガキがまるでソロバン読み書き大嫌い。今ならさしずめバイクにでも乗って暴走族に加わっていただろう。ある日集金した銭を持ってトンズラ。銀子25匁とは今のお金で3万円だそうな。しかし、この西チャン、同じ逃げるにしてもチッとも悪びれず次の一首を書き残したのだ。

ここもたび(足袋)  又行先もたび(旅)なれば  いづくのあし(葦)か  我を待つらん

この狂歌を読んだ足袋屋の主人。なかなかやるじゃん、あのガキ案外大物になるかもなと許したってんだから……ダンナ! あんたもえらい


その点ウチの親父はダメだったね。財布からたった五万円盗っただけでカンカンに怒ったし、呑み屋のカミさん(人妻)を盗んだだけなのに出て行けと怒鳴ったんだもの。そこで天才うれしの狂歌一首。

ヒトの妻  つまんでつまみ出されたよ   つまらぬ事に   つまづいた吾

さて、西鶴16才の時女風呂で遊んだ。ソープランドの元祖である。もう天にも昇るいい気分、毎晩のように女にのぼせ、金の才覚(西鶴)に困ったという。


やがて30代…この頃は鶴永というペンネームで俳諧の道に志していたが、1673(寛永13)年、宗久が2月14日から天王子村の清水寺で松永貞徳を忍ぶ俳諧万句を催した。多くの俳人が招かれたのに鶴永はボイコット。頭に来たぞ、それじゃあこっちも考えがあると、3月に生玉神社の南坊で12日間の万句興行をやらかした。宗久をわざと外し西翁こと宗因を入れてドドーンとブチ上げ世間をアッと言わせた。更にこれを本にした(石文社があったらネ)。人々はこの本にのってる人達がいい俳人と思ってしまったわけ。鶴永すかさず大名人宗因(西翁)にヨイショして西の一字を頂戴して西鶴と改めた。


結婚し三人の子をもうけたがその後妻は死んでしまう。西鶴坊主頭になり浮世草子を手がけた。これが大当たりたちまち流行作家。「好色一代男」「好色一代女」「男色大鑑」等々。何しろ西鶴物は面白い。酒屋のご隠居は60才過ぎて吉原通い。余りの激しさに息子が1500両(一億円)やって親を勘当。ところが金も女に注ぎ込んででパア。魚売り乍らこの親父、「花紫太夫を揚げてないのが心残りだ、死ぬまでにヤルぞ。後30年生きてやるから、そうなりゃ息子が死ぬから息子の金は親の物だ 」イヤ立派。


墓は大阪の寺町、誓願時にひっそりと。

詩人で歌人の 北原白秋

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昭和15年(1940)に西条八十作詞、服部良一作曲による「蘇州夜曲」が発売されるやレコードはたちまち大ヒット。歌ったのは渡辺はま子であった。

♪君がみ胸に 抱かれて聞くは  水の蘇州の 花散る春を…

という一番の歌詞から始まって、

三番の

♪涙ぐむよな おぼろの月に  鐘が鳴ります寒山寺

で終わるこの歌に代表されるように、蘇州は水のキレイな所として古来より知られていた。


しかし、「蘇州夜曲」や漢詩を真に受けて彼の地を訪れた者は一様にガックリする。何とこキタナイ水、そしてこんなつもりでなかった寒山寺。そこへいくと我が日本国の水郷潮来や筑後柳川の水の清々しさはどうだ と胸を張って威張れちゃうよ。


この柳川出身の白秋は本名を隆吉といい大きな酒造の家に生まれた。幼き頃からナイーブで詩作をしたり読書にふけったりの日々。明治35年(1902)に初めて詩を投稿する。その頃からオラ東京さ行くだ!と心に決めていたらしい。その二年後に上京して早稲田大学英文科予科に入学したのである。1905年「文庫」に「全都覚醒賦」を載せ詩壇に知られるようになった。覚醒賦で良かった。覚せい剤だったらその時点で将来は無かったネ。


「明星」に参加したものの与謝野鉄幹への不満から脱会。1909年高村光太郎、木下杢太郎らと「パンの会」を始め、雑誌「スバル」「屋上庭園」などすぐれた作品を発表した。更に同年第一詩集「宗門」が話題を呼んで知名度をあげた。そして1911年の「思い出」という抒情小曲集は満塁走者一掃のクリーンヒット。ボクの好きな詩の一つは「初恋」…

♪薄らあかりにあかあかと  踊るその子はただひとり 薄らあかりに涙して  消ゆるその子もただひとり
 薄らあかりに、おもいでに  踊るそのひと、そのひとり…

詩作も歌作も精力的にこなした。1915年に歌集の「雲母集」を刊し21年には「雀の卵」を出す。

♪ヒヤシンス薄紫に咲きにけり  早くも人をおそれそめつつ 照る月の冷さだかなるあかり戸に  眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり

この歌にもある通り白秋は眼の病にかかってしまう。次第に薄れゆく眼……物書きにとってこれ程の恐怖あせりはいかばかりであったか。だが白秋センセ、カチンカチンのカタイお方だと思ってたら何と人妻と出来ちゃって、これが問題となり獄舎へつながれた事もあったというからホットしたネ。あんたも同じ人間!ハイ  ハクシュウ!


1934年(昭和9年)に歌集「白南風」を出し、文学運動として「多摩短歌会」を結成「多摩」を創刊し、1918年から手を染めた児童文学のジャンルとして日本に新しい童謡文学を打ち出した。大正7年(1918)にレコード発売された

♪雨はふるふる城が島の磯に  利久鼠の雨がふる…

という「城が島の雨」や、

♪からたちの花が咲いたよ  白い白い花が咲いたよ…

の「からたちの花」。大正13年(1924)は当時の人々に親しく歌われた。白秋は晩年芸術院会員に推されたが、58才という今だったら若すぎる年令を腎臓病の為に天に召されてしまった。


そして「多摩短歌会」をつくり、「多摩」を創刊した白秋の墓は「多磨霊園」にある。タマタマでも通りがかったらお寄り下さい。

俳優、演出家、そして「江戸むらさき」の三木のり平

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三木のり平さんとご一緒したのは、もう25年以上になるがライオンジャブジャブショウという歌ありお笑いありの公演で東北地方を廻った時である。作曲家の曽根幸明氏はまだサニー曽根で歌っていたし、脱線トリオ(由利徹、八波むと志、南利明~何れも故人)やこれも今は亡き佐山俊二さん達と賑やかに旅を楽しんだ。


のり平さんは一人でシャべるコーナー(20分)を任されていたが、芝居の役者は相手があってシャべれるものなので一人ではやれない。だから相手をしてくれと頼まれてボクが話の引き出し役をつとめた。 映画と芝居の話の一段落した所でのり平さんのパントマイムに入る。寿司折りをブラ下げて帰宅の途中ヤキトリ屋が目に入る。通りすぎようとするが誘惑に負けて中へ。酒を二本、三本と重ねノレンで手をふきながら外へ。


小用をもよおし(客席に背を向け)チャックをおろすしぐさ。そこへ人が来て慌ててやめる。また改めて…。イヤまた今度はご婦人が通る。愛想笑いでごまかし、女性が行ったの確かめて今度こそ…。


所が今度は警察官が!我慢しきれないのを足をよじり腰をひねりながら敬礼をしてやり過ごす。ヤットの事でチャックを…。だが限界を超えた我慢が持たず、ズボンの中をオシッコが流れる。


その表現力のおかしさに場内は爆笑。ベタベタに濡れたズボンを指で引っ張るしぐさ。そして右足を靴から外すと靴を前後に動かす。中にたまった小便をこぼして振ってまた履き、手についたオシッコをチラッとなめて終わる。


もう袖でこのシーンを毎日ハラを抱えて笑ったのだ。どこかでこれを使いなさいよと教えられ二度程使わせて貰ったが、あの名人芸はとてもボクのような底の浅い芸人ではこなせないと思った。


のり平さんは本名を田沼則子(タダシ)といい、この名前のお陰で女性と思われ徴兵検査を逃れたという。


1924(大正13)年、東京の日本橋に生まれた。日大芸術学科在学中から演劇活動をし、卒業して三木鶏郎グループに参加。東宝映画「のり平と三等亭主」や森繁久弥の「社長シリーズ」、「駅前シリーズ」で人気者になる。


舞台で有名なのはセリフ覚えが悪く、アチコチの小道具に書き込んでおいたのをかたされて困ったなんてハナシも。数ある出演の中でも「雲の上田五郎一座」は傑作中のケッ作。玄治店の場での八波むと志とのカケ合いは史上最高の笑いであった。


1999(平成11)年1月に74才で逝ったが、お笑いで売った人は案外若死にしている。鳳啓助(71才)、中田ダイマル(68才)、フランキー堺(67才)、瀬戸わんや(66才)、佐山俊二(65才)、ハナ肇(63才)、藤山寛美(60才)、東八郎(52才)、三波伸介(52才)。


そこで声帯模写で寅さんの漫談の原一平さんに電話して渥美清さんは幾つで亡くなった?と聞いたら、68才だったというので「あんたも気をつけな、寅さんの真似してゼニもうけしていると早いよ」と言ったら「イヤ、私はコピーだから長生きしますよ」。電話を切ったら今度は向こうから掛ってきて、「うれしさんも長生きしますよ、若死はスターだけですから!」。


墓は浅草田原町の清光寺。

笑わせる事だけに生きた 由利徹サン

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「チンチロリンのカックン」そして「オシャマンベ」の決め言葉で売った由利徹は1999年の5月20日にこの世を去った。喜劇人の多くがそうであるように、この人も外ヅラと内ヅラは全く別で、あの舞台や楽屋でのサービス精神は家庭では見られなく、家人とは必要最小限のオシャベリしかしなかったという。


大正10年(1921)宮城県石巻市で大工の長男として生まれた本名・佐々木清治は、子供の時にのぞいた旅回りの一座にハマッてしまい、オレは芸人になると心に決めてしまう。そして家出をするがその度に連れ戻されて怒られた。だが昭和15年、遂に脱出して上京、新宿にあったムーランルージュに入った。


しかし、憧れと現実とはまるで大違い。そこにはすでに益田喜頓、有島一郎、左卜全らが人気者としてもてはやされていた。一番のネックは何といっても丸出しの東北弁。他の人のようなスマートな言葉が出て来ない。通行人とか一言のセリフで終わってしまう役ばかり。だがある日その東北弁がウケてドッと大爆笑。以来、地のままでイケる自信ができ、やっと役者になれたと思っていたら昭和18年、22才の時に召集令状が来て、中国へ出征する事になってしまう。


運良く帰国できて再びムーランに戻ったら、早大を中退して入ってきた森繁久弥が彼の前に立ちはだかっていた。何をやってもかなわぬ気がしていたし、虫の居所も悪く、ある日新宿の飲み屋で口論となり、由利は森繁をブン殴ってしまった。そのうち森繁はNHKでラジオのレギュラーが決まってスターへの一歩を踏み出し、ムーランも昭和26年に解散になり、由利は横浜のストリップ劇場で細々と稼ぐ事になった。


ここで出会ったのが八波むと志と南利明。飲み屋で知り合った日本テレビのプロデューサー村越潤三氏に見出されて三人が組んだ「脱線トリオ」。お昼の生放送でのコントはたちまち彼らをスターにした。「脱線三銃士」などの映画も大当たり。だがこういったトリオや漫才が解散するのも当然、それぞれの個性が強すぎてケンカ別れになってしまう。


やがて八波はスター街道まっしぐら。南にも去られ由利はあせっていた。だがその絶頂時に八波は自動車事故で世を去った。早暁の神田で当時まだ走っていた都電の停留所(安全地帯という石のカベがあった)にモロに突っ込んで同乗のホステスらと散ってしまった。由利さんが「行ってみたらこの安全地帯は危険ですってハリ紙があった」と後に笑い話にしていたが、かなりショックを受けたらしい。


ショックといえば弟子のたこ八郎が神奈川県真鶴の海で溺れ死んだ時、我が子を失ったような悲しみであったという。ズッと後になって「たこが海で死ぬなんてシャレにもならんよな」って言っていた。


吉幾三の舞台に出ている時、身体の変調に気づいたが、時すでに遅く末期のガンであった。生涯ドタバタ喜劇に徹した由利さんは、もうドタバタは疲れたと世田谷区代沢の森厳寺で静かに眠っている。

アメリカで最初のプロ野球人だった ジャップ・ミカド

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野茂、イチロー、佐々木、長谷川、新庄と今や大リーガーとして本場のアメリカで野球をやってる選手は十指を数える。しかし、まだまだメジャーリーグを目指す選手は増えるに違いない。


これが日本人としてアチラでプロ選手となった第一号となると、ジャップ・ミカド(三神吾郎)という人物だというからビックリ。何故ビックリかというと、今から30年ほど以前に南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツのユニフォームを着て投げていたマッシー村上(村上雅則)だとばかりツイ最近まで思っていたからである。ボクはメジャーやニグロリーグのことを詳しく書いている佐山和夫さんの著書を読んで、その人物の存在を知っていたが、先日、日本テレビで放映された「知ってるつもり」でこのミカドを紹介されアリャーと思った方もいたハズ。当の村上氏もガックリきたかも?だってサインをするとき日本人大リーガー1号と書いていたのだから。


三神吾郎は明治22(1889)年山梨県の甲府で大地主の子として生まれた。甲府中(現甲府第一高)に入り野球を始めて早大へ進みここでもボールを握る。アメリカ遠征で本場の野球の凄さにビックラこいた。よしオレもアメリカでやる 思ったらすぐ実行。ノックスカレッジへ。人種ヘンケンの最も少ないところであったのが幸して伸び伸びプレー。ショートを守らせれば鉄壁。投手もイケル。外野もOKのオールラウンドプレーヤー。この頃は大リーグに白人以外の選手は入れない。黒人はニグロリーグを作っていた。


ここに人種ヘンケンなんてクソ喰らえと多人種を寄せ集めてチームを作ったのがJ・L・ウイルキンソンという人。その名も「オールネイションズ」チーム。ウイルキンソンは三神の評判を聞いて早速ウチへ来ないかと誘った。三神は学生、そこで夏休みの間だけの参加という条件で二年間プレーをした。その華麗な守りはほとんどエラーなし。今ならもちろんゴールデングラブ賞。三神はジャップ・ミカドの選手名で超有名人だったらしい。


しかし好きな野球にのめり込むのも早いが、見切りをつけるのも早い。サッサと二年でオサラバ。大正6(1917)年イリノイ大経済学部大学院を卒業すると、三井物産ニューヨーク支店に入り、大正10年に結婚し自ら中国へ転任を希望して渡った。戦後は進駐軍に関わる仕事をしていたが本場仕込みのペラペラの英語が役に立ったのである。昭和21年、日本のプロ野球再開。しかし三神は六大学の野球をたまに見に行くぐらいで、妻や家族にも自分が野球をしていたことを一切語らず、昭和33(1958)年68歳でこの世にゲームセットした。


ボクは以前からこのジャップ・ミカドに興味を覚え、その墓はおそらくアメリカの何処かにあるのでは?と思っていたら何と青山墓地にあると知り、勇躍カメラを引っさげて飛んだ。その帰りに赤坂で友人と一杯やりながら「ミカドっていや赤坂のミカドがなくなって何年経つかな」というと「いつも指名していたリンダも亡くなったよ…」。


ウチへ帰ると、カミさんが「イチローが大活躍よ。イチローは大したもんね」。すると91歳のオフクロ「田原さんの孫はサンローしてるってね」。

代表作「父帰る」を残した 菊池 寛

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菊池寛の「恩讐の彼方に」を高校地代に読んで感動し、芸能界に入ってから村田英雄ショウの司会で九州をまわった折その小説の地を訪れまた感動。帰京したら学校(駒沢大)へロクに行かずに芸人しているだと と父親の怒りを買って勘当。コリャいかんドウと思いながら今ではこの道48年ときた。


菊池寛は明治21年12月26日に四国の高松で生まれ、大正5年京都帝国大学英文科を卒業した。文学の流れも写実派、理想派(坪内逍遥、二葉亭四迷、幸田露伴、尾崎紅葉ら)から浪漫主義(国木田土独歩、泉鏡花、夏目漱石ら)に移り、さらに自然主義(島崎藤村、島村抱月、田山花袋、森鴎外、石川啄木ら)となり、新浪漫派となって(谷崎潤一郎、北原白秋、佐藤春夫ら)から人道主義時代には(倉田百三、有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉ら)となり、ここに登場する菊池寛、芥川龍之介、山本有三、斎藤茂吉らの新現実派時代となる。


菊池寛は「忠直卿行状記」「俊寛」「藤十郎の恋」「無名作家の日記」等の作品を残しているが、「父帰る」は最も人に知られた戯曲ではなかろうか。粗筋はというとザッとこんな感じ。


黒田賢一郎の父は20年前に情婦と家出してしまう。残された母子4人は途方にくれ築港から身投げをするが、幸い水の浅いところであったため助かったが、それからが大変、長男賢一郎はまだ八歳。子供ながら一家が生きていくために母、弟、妹の面倒を見ての苦労の日々である。それが20年の歳月を経て、ある日、父が老いさらばえて突然戻ってきた。あれほど恨んでいた母や弟、妹たちはそんな父を許すような様子。納まらないのは賢一郎、「俺たちに父親などいないんだ」。20年前に父親の権利を捨てたんだからと追い返してしまう。その後、弟や妹、母の賢一郎への冷ややかな眼差しを見て、親父を呼び返して来いと追いかける。このあたり、番場の忠太郎を呼び戻しにいくあのシーンに似てるよネ。


今は昔、ボクの高校時代、浅草のストリップ劇場に足を運んだ時、裸の踊りの間にはさまってコントが幾つかあってそれが面白くてハマっていた。ある一場面。明治天皇はじめ陸・海の将軍が会議中、その脇で裸の女が立っている。女はオッパイ丸出しで下の所に僅かの三角の布がついている。一人の将官が立ち上がり長い棒で女体を地図に見立て、「陸軍はこの丘(オッパイ)の陰から攻めて、海軍は(布の当たっているアノ部分を差して)この港から攻撃したいと思います…」。すると明治帝がおごそかに「侍従長、今何時であるか?」「ハ、今午前11時59分であります」「ウン、午前会議を終わる 」にドッ 。


またある日の劇場。カミさんが男と逃げて半年。男はカミさんのオッパイは世界一だったと毎日泣いている。そこへ「あんた、矢っ張りここがいい」とカミさんが戻ってきた。父チャン喜んで上衣を脱がし、巨乳にしゃぶりつく。「アー帰ってきたか、帰ってきたか」。すると袖から黒子が現われ、大きく書かれた紙の字を見せる。そこには「乳帰る」とあった。


その時、文豪永井荷風センセも客席にいたよ。そして菊池センセは多磨霊園でチチでなくツチに返っとるよ。

「長谷川平蔵」である  鬼より恐い鬼平さん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

少年時代に「真田十勇士」や「後藤又兵衛」「鞍馬天狗」の漫画や小説に夢中になったボクは、長じて太宰治の「斜陽」や「人間失格」を読み、島崎藤村の「夜明け前」や志賀直哉の「暗夜行路」。井上靖の「蒼き狼」、菊池寛の「無名作家の日記」などの純文学から松本清張の「ゼロの焦点」などの推理小説を経て、結局は池波正太郎のチョン曲げに戻ってしまう。「必殺仕掛人」や「剣客商売」を読んでコーフン。「人斬り半次郎」(箱根八里のじゃないよ )「幕末新撰組」にメロメロ。しかし何たって一番お気に入りはあの「鬼平犯科帳」だね。悪人共の所へ颯爽と乗り込んで「火付け盗賊改め長谷川平蔵である。神妙にいたせ 」。カッコ良すぎるってコノー。


長谷川平蔵宣以は延享3(1746)年、江戸は赤坂で生まれ、5才の時に鉄砲洲の築地湊町へ移った。とても少年とは思えぬ度胸と才智の持ち主で、町内のバクチ打ちのさがみの三太とその乾分なべの五郎八を相手に大立ちまわりをし、遂には謝罪文をとったってんだから正に ” 栴檀は双葉より芳し である。

明和元年、平蔵19才の時本所三ツ目通りの菊川町にまたまたお引っ越し。引っ越しのサカイに頼んだらしいよ。この屋敷が1200坪の広さで鬼平の役宅となった。世に捕り物の名人として名をなしたが何といっても石川島の人足寄場を成功させた事が大きな評価を得たのである。


「長谷川平蔵、鬼より恐い」と悪党らに恐れられてはいたが、反面庶民の暮らしの中に溶け込んで困っている者に手をさしのべ、一般庶民には「仏の平蔵」とウケが良かったそうな。中村吉右衛門のような美男だったかどうかは分からないけど、実際吉右衛門さんがあの重厚なフンイキでやってくれちゃうとボクら納得しちゃうから凄いね。


この平蔵さんの墓碑は新宿区須賀町のお岩稲荷からほど遠からぬ西光寺にあって、この寺では毎年6月26日前後の日曜日に法要を催しているので鬼平ファンの方は是非参加してみては如何?行くついでにこの辺も知名人のお墓が沢山あるのでこれものぞいてみて欲しい。顕性寺に落語家の古今亭今輔。宗福寺に四谷正宗と言われた名人刀匠の源清麿と水心子正秀。刀と言えば首斬りの6代目山田浅右衛門が勝興寺に。西応寺には幕末最後の剣客榊原健吉と初代花柳寿美。そしてどういう訳か狂歌師が多く、蓮乗院の筧亭文平。法恩寺は絵馬屋額祐。永心寺に小餘綾磯女などがあり、ついでにお岩様を祀ったお岩稲荷にも寄ってみたら。この裏の方でメシを食ったけど850円の玉子丼のまずいの何の。これが本当のウラメシヤー。


ところで鬼平さんの名を世に広めた池波正太郎センセのお墓は台東区の西浅草、西光寺にある。ついた師が長谷川伸で書いてもらったのが長谷川平蔵。吉右衛門サンもよかったが、早く長谷川一夫さんにもさせたかったネ。

今晩ワ 三波春夫でございます

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三波春夫ショーの舞台である。司会の荒木おさむさんが「素晴らしいお着物ですね、今回も何着もの衣裳を見せて下さるんですね」と言えば、「ハイ、この着物も皆さんのお蔭で買ったんです」。拍手が湧き起こる。さらに続けて「お客様は神様デス」で大歓声と大拍手。


三波春夫……本名が北詰文司。大正12年(1923)7月19日に新潟県の越路町に生まれた。13歳で上京し米屋や魚河岸で働きながら浪曲学校へ通ったという。16歳でデビューしたものの20歳で兵隊サン。終戦となり極寒のシベリアで4年の抑留生活。しかし運良く帰還し、再び浪曲の舞台に立った。


だが、仇討ちや軍記物を上演してはならぬというアメリカさんのお達しでまるで骨抜きストーリーの浪曲にげんなり。そんな折、歌手になってみないかとの話。早速テストを受けたテイチクで一発OK。ここに南条文若改め、三波春夫の誕生となる。時に昭和32年、三波春夫33歳の正月であった。


歌手にとって歌がヒットするかどうかは天と地の差であり、三波さん6月にはあの「チャンチキおけさ」が大ヒット。さらに「雪の渡り鳥」でダメ押し。12月には早くも国際劇場でのワンマンショー。そして昭和33年(1958)にNHKの紅白歌合戦に初出場し、以来18回連続出場し、通算31回勇姿を見せてくれた。


三波センセ、ドドーンとデッカク稼いだが、金銭面ではかなり渋く、殿様キングスがまだお笑いチームでやってる時に、地方公演で三波ショーの前座。1回目のショーが終わって三波センセの楽屋へ呼ばれた。冷房など無い学校の体育館だから裸同然で居たメンバーが慌てて服を着て恐る恐る伺うと、紙袋の中から飴玉を取り出して「おひとつずつどうぞ」。


また、ある年の正月公演の日劇楽屋。司会の玉置宏サンがくつろいでいると入って来た三波センセ。「玉置サン1週間お世話になります。これ私の気持ちです」と差し出された四角い封筒。受け取るとかなりブ厚い。アララ、世間で言う程センセはケチじゃない。どこかで早く中味を確かめたい。はやる心を押さえながらトイレの個室へ。封を開けてビックリ、何と三波センセのブロマイドが10枚入っていた。クソッやられた。しかし今思うにシャレがキツくて面白くいい話ではありませんか。


「大利根無情」という曲もヒットしたが、意外とその他にヒットの数が少ないのにも驚いた。だが何といっても「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」で国民歌手と呼ばれるようになり、芸術祭優秀賞や紫綬褒章、勲四等旭日小綬章などを貰えたのだから並みのセンセとは違う大センセ。


声帯模写のはたのぼるサンは今でも貴方の物真似で稼ぎ、落語家林家こん平サンもおらが田舎じゃこん平と三波春夫は出世頭と自画自賛。


いかに大ヒットがあってもガンという病気には勝てず、平成13年4月14日77歳で死去。東京・杉並区の妙法寺に本名北詰文司に戻って眠っている。


神様でなく仏様になって。

日本一高名な有名人 きんさんデス

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

誰もが金や銀を欲しいと思うし、スポーツの世界だって金メダルや銀メダルを獲るためにしのぎを削る。しかし名前が「きん」と「ぎん」で、しかも双子でその上100歳となりゃ、これは凄い。

「きんは100しゃあ」「ぎんも100しゃあ」というユーモラスな名古屋弁で一躍日本中の人々に親しまれたのが、成田きんさんと蟹江ぎんさんだった。そこで今回はきんさんのお墓をご紹介しておく。名鉄「笠寺」駅近く、名古屋市南区の「東宝寺」にお墓を訪ねると、門の前で工事をしていた人たちが「エッ、あのきんさんのお墓がここに在るんですか、オイ、俺たちも見よう」と五人さんがついて来た。


1892年(明治25)8月1日、名古屋市緑区に生まれたきんさん。その107歳の生涯は波乱の歴史の中で明治、大正、昭和、平成の四世代を生きてきたのである。


1900年(明治33)、尋常小学校に入学した時にパリで万国博覧会が開催され、1910年(明治43)、成田良吉さんと見合い結婚した年にハレー彗星が大接近。1912年(明治45)、成人の年に明治天皇が逝去され、そしてあのタイタニック号の沈没した年でもあった。さらに1942年(昭和17)、きんさん50歳の時ミッドウェー海戦、そして本土初の空襲があり、あの100歳ツインズとして国民的人気となったのが1991年(平成3)のことだった。


「きんさん、ぎんさん、健康の秘訣は何ですか?」とリポーターがマイクを向けるときんさん「お茶でしょうね。お茶が大好きでいつも飲んでいるからです」「ア、そうですか。お茶というとウーロン茶もそうですが、日本にはたくさんのお茶がありますよね」「そうですね。私の好きなお茶は加藤茶です」「アララララ……」。底抜けに明るい、本当に周囲の人達に勇気を与える存在であったし、日本中の人達から愛されたきんさんは2000年という区切りの、平成12年1月23日に長寿の素晴らしさの余韻を残しながら静かに旅立った。葬儀委員長を元首相の海部俊樹さん。知事や市長ら多くの名士が告別式に顔を揃えた。


きんさんはタレント顔負けのアドリブで人を笑わせたりしたが、「歳は幾つになったかねえ、役場に行って聞いてこな忘れちゃった」とトボケたり、「景気はええ、景気はええと言っておれば、商売やってる人に通じて良くなりますよ」と世の人を励ましたり、「106歳まで生きようと思っていたのでもういい」と言って、本当に107歳で逝ってしまったのも凄い。


双子にだけ通じる何かがあって、前日にぎんさんが「オレの身体がおかしいわ。きんがおかしいで電話してくれ」と言ったが、家人がそんな事ないよととり合わなかったという。


きんさん天に召される前に「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と布団の中で念仏を唱えていたそうな。青空クンは石文社の方に原稿用紙を振りかざしながら「何万ダ、何万ダ」…。

老人パワーの鏡 ぎんさんの墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

漫才の人気コンビ以上に人気のあったあのきんさんとぎんさん。その成田きんさんが平成12年(2000)1月23日に107歳の生涯を終えたが、蟹江ぎんさんは平成13年(2001)2月28日に108歳で姉の後を追った。ぎんさんは2001年という新しい世紀まで頑張って、きんさんが成し得なかった19、20、21世紀という3世紀をまたいでの大往生であった。


ぎんさん(もちろんきんさんも)が生まれたのが1825年(明治25)、芥川龍之介と同じ日にこの世にお目見え。翌年にエジソンが活動写真を発案し、29年に第一回オリンピックがアテネで開催されたってんだから古いの何の。1913年(大正二)に蟹江国次郎さんと見合い結婚をして五人の娘を出産。フツーのおばあちゃんから一躍スター並みの人気となったのは、百歳のお祝いに名古屋市長が表敬訪問しTVでその模様が紹介されるやソレ行けとCMに登場。新聞、雑誌、ラジオがあおり立てたちまちきん・ぎんブーム。カレンダーからキーホルダー。人形にテレカお菓子。アッチコッチからお声がかかり、お礼や出演料がガバッ  「沢山お金が入ってソレどうなさいますか?」「ハイ、老後の蓄えにします」と、お笑いのネタになったりした。


また、二人がシャべると本物の漫才以上に面白かった。宮沢りえが写真集でオールヌードをご披露すると、ぎん「目玉が飛び出るくれえビックリしたがね」。きん「わしらの時代には女子が肌を見せるなんて事せんだったわな」。ぎん「オッパイ見せるのはお医者サンの前だけ。それでも死ぬほど恥ずかしかったわ」。ちなみに宮沢りえのヌード写真集を見たボクは死ぬほどうれしかったのであります。


二人の残した数々の名言をご紹介。


ぎん「地獄、極楽はこの世にあるよ。それはにゃあみんな自分がつくっとる…」。イヤ、恐れ入る、まるで偉いお坊サンのおっしゃりようだ。きん「悲しい事は考えん方がええ、楽しい事を夢見ることだよ」。ご尤も。さすれば殺人事件や戦争は起こるまいに。ぎん「自分でできる事は全部せにゃいかん。甘えちゃいかんよ。時には人の言う事を聞かん方がボケせんでいいと違うか」。全くその通りですとも、さらにぎんさん「グチや不満を腹にためん事。パーパー言って発散せにゃいかん」。とまるで田中真紀子サンにエールを送っているよう。


貧農の家に生まれ、5歳頃から二人は畑や田圃へ肥桶かついで野良仕事。そしてリューマチで苦しむ母を助けて家事をし苦労ばかりの人生であった。それが超長寿のお陰で、双子のそれもきん・ぎんの立派なネーミングのお陰で大輪の花が咲いた。きんさん、ぎんさんのお陰で年寄りの基準が変わった。80代はお二人の子。60代はお二人の孫。してみりゃこのうれしサンは立派な孫、これからが青春。


名古屋市鳴海町のぎんさんの墓地を訪れたら、入り口の木札に「村営墓地」とあった。「昔の名前で出ています」。

将棋の名人は旅人サンだった 関根金次郎

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金次郎は千葉県葛飾郡二川村宝珠花(現関宿町)に生まれた。物心ついた頃から将棋大好き少年。12才の時にオラ将棋指しになるだ!と風呂敷包みを背中に上京し、十一世名人伊藤宗因の門を叩いた。だがその頃は将棋界は低迷していたし、世間では半端人、極道として見られていたのである。


金サンは20才から40才ぐらいの間に日本を三巡する旅をしたってんだから凄い。将棋の武者修行は正に武士が道場に立寄って試合を申し込んだり、侠客たちが土地の親分を訪れて一宿一飯の恩義にあずかるのと全く同じだったという。


腰に刀ならぬ駒袋を下げ、ワラジを脱ぐ折は仁義を切る。手拭いを紙に包んで差し出して、「私は○○の××と申す旅の将棋指しでございますがご当地初めての事ゆえ何分宜しくお願い致します。これはホンの土産のしるしです」と挨拶する。その時相手がまあ上がっておくれとくりゃその手拭いを受け取り、そうでない時は五銭か十銭程のワラジ銭を包んでくれた。


旅のエピソードにこんなのがある。まだ21ぐらいの時に東海道を旅し、伊三郎という土地の顔役から清水次郎長を紹介された。次郎長はもう70才くらいになっていたが悠り遊んでいきなさいといわれ、子分達に将棋を教えたりしたという。


大政、小政など映画でお馴染みの面々と過ごしたなんていいじゃん金サン。しかしその頃の金サンまるで金ナシ。仁義の手拭いも買えず川で六尺褌をはずして洗い、それを適当に切って手拭いの代わりに差し出した事もあるとか。これが大宮の顔役で玉金一家の貸元の所での話。玉金の所之睾玉包んでいた布を出すなんてイイ玉だあネ。


又、或る時川越の古道具屋の前でハラがへりすぎてブッ倒れそうになり店の中へ飛び込んだ。店の親父が「どうなすった?」と聞くと、金サン「ハラがペコペコで、何か食べる物が欲しいのですが」「じゃ何か売る物あったら買ってやるよ」勿論みすぼらしい身なりの彼から買う物なぞある訳ない。すると金サン例の褌を外して差し出した。親父は黙って天保銭を一枚くれた。イキだねこの親父。


1893(明治26)年師の宗因が死去しその後十二世名人を68才の小野五平が継ぐ事になった。サア金さん収まらない。しかも名人披露の宴である招待状がどういう訳か金さんだけ来ない。32才の若い金さんはプッツン切れた。小野にあんたと私とどっちが強いか勝負しようと果し状をつきつけた。しかし政界や各界のお偉いさんが仲介に入って何とか収まり、1921(大正10)年に十三世名人を就位した。


あの坂田三吉との対局はつとに有名で、三吉が如何に関根に対して生命がけ対局にのぞんだかは、映画や芝居で何度も紹介されて有名。あの「王将」の歌は作詞した西条八十、作曲の船村徹、歌手の村田英雄の三人が共に全く将棋を知らないで出来たのだから不思議だ。金次郎の墓は関宿の万福寺に。

武蔵野に根を張った 小金井小次郎親分

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あの宮本武蔵には子供が居なかった。武蔵小金井(JR線)と言って……漫才のネタにあったが、その小金井には江戸の末期に名のある親分衆の一人小金井小次郎(1818~1881)が縄張りを張っていた。


昭和50年頃はキャバレーやクラブで歌や演芸をショーに入れて大いに盛り上がったものだ。小金井にも外国女性をホステスにかなり繁盛していた店があって、そこへショーで仲間のジュン高田というのが出た。うれしさんの所から近いのだから遊びに来ないと電話があって、今は名古屋に居る青空星夫(弟弟子)と一緒に行って飲んでいるとやがてショータイム。ジュン高田が十五分程しゃべった所で、今日は私の兄貴分で青空うれしさんが弟分の星夫君と客席に見えていますのでと紹介。ステージに上がるハメに。一曲歌った後に星夫が「網走番外地」を歌ってよせばいいのに仁義を切った。


ショーが終わったら一人のホステスが俺を呼びにきた。ついていくとテーブルにいかつい男が二人座っていて、下からグッと凄みをきかせ「オイ、あんな所で舎弟に稼業の仁義やらせるのか!」。なるほど、その日のオレの服装が金ブチの眼鏡に白い上下のスーツ。おまけに黒いYシャツではヤクザ者に見えたのだろう。相手は小金井一家の分家で石家のSと名乗った。そこで小金井の六代目石井初太郎サンとは親しい者で……と嘘も方便。アチラは逆にこちらの席にビールや果実などの差し入れ。だがバレぬうちにとそこそこに帰ったコワーイ思い出。


小次郎には1200人もの子分が居た。安政三年に度重なる博奕が因で三宅島に流されたが、明治の大赦で12年ぶりに放免になって戻ってきてからは、その島帰りの顔を利用して大きく伸し上がったという。


西南の役の碑を建立するに当たり余興の大相撲を三日間催し、当時人気力士の大関境川と朝日嶽らを呼んで無料で人々にこれを観させたので、小次郎親分の株が一気に上がったとか。人と会うときは必ず折目のついた羽織を着て出たというから、白い服に黒のYシャツとはえらい違い。調布や府中の治安も小次郎のにらみがきていて平穏だったという。


明治14年8月5日、あの浅田飴の創始者で幕府の奥医師の法眼浅田宗伯が診に来て、寿命はあと二、三日と診断。果たしてその二日後、子分衆がつめかけていると、親分は着物を着替えると言い出し、仕立て下ろしの着物を着た。身内の者は揃っているかと言うと、襖を開け皆の顔を見渡したら「おらあもういくからな。お前らも体を大切に立派な男になれ。永えこと世話になった。お礼を言うぜ」と言ってその場へ座り大往生を遂げたのだから、ヤクザ者としてはいい死に方をしたのではないだろうか。


生まれ在所の小金井の前原にその墓があり、墓碑銘を山岡鉄舟が書いているのだから、やはり並みの親分ではなかったのだろう。並みの親分でないのは親父さん(オレの事)だってそうでしょ。じゃ並でなく特上の寿司でいきましょうと弟子の遊歩。

ヤセたい人は食べなさい 鈴木その子

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

2001年からスタートした元プロ野球選手の集うマスターズリーグ。野球ファンにとってまたあの懐かしい選手のユニフォーム姿が見られるのだからうれしい。雪降る札幌ドーム球場へ足を運んだのが2002年の1月12日。札幌アンビシャス(元巨人軍の選手と北海道出身の選手でのチーム)対名古屋チームの一戦である。アンビシャスの監督山内一弘さんが前日に野球殿堂入りをしたので、早速、使用ボールにその記念第一号のサインをしてもらった。感激 !


しかしもう一つの感激は久々に訪れた札幌の雪だった。えっ、雪ってこんなにサラサラしていたっけ?歩くのにも思ったよりサッサと滑らずに歩けて、アー、これが北海道だと妙にカンゲキ。そして白の世界の美しさ、荘厳さ。


白……ア、そうか、白で売った人がいたっけ。鈴木その子サン。ダイエット いつ頃からこんな言葉が出てきたのか。ハワイへ行ってみろ。ヤセてる女はノーチャーミング。ダンプ並みの大型女性こそ美人の誉れが高いのだ。パリコレなどに出てくるモデルは格好いいが、あのガリガリの骨盤から果して丈夫な子供が生まれるのだろうか。大きなお世話と言われればそれ迄だが。


独自のダイエット法を作り出し、「美白」ブームを起こした鈴木その子さんの急死は世の人々にかなりのショックを与えた。年商、実に九十億円で銀座、永田町など都内の一等地に自社ビルを持ち、田園調布にあった元ホテルニュージャパン社長の横井英樹氏邸宅跡地(約1914㎡)に30億円掛けての豪邸を建築中の急死だっただけに、その子さん、どんなに未練を残しながらあの世へ旅立ったのか。不動産は都内に10軒以上あったようで、トキノ銀座店(鈴木式美の総合館)や、アイスクリーム工場も併設していた港区浜松町の本社ビルなども…。


だがいくら金を作っても、いくら知名度を高めても、死んでしまってはハイそれまでよ。ヤセる薬やヤセる食べ物ができても、死なない薬や死なない食べ物がないのだから。西郷隆盛サンが言われたように「子孫のために美田を買わず」がよろしかろう。かくいうボクなど美田も美人もエンのない人生…。


その子さんは1932(昭和7)年東京生まれ、ボクは1935年に東京で生まれた。それがどうした と言われればそれ迄だが。その子さんの出身校は学習院女子短大家庭生活科食品化学専攻…イヤイヤ、こんなに長い名前の学科なんてあるのかよ。学科は長く、人生は短くなんてシャレにもならないしね。


それにしても残された遺産が数百億円というから凄い。千葉県成田市にある成田メモリアルパークにその墓を訪ねたら墓も白の世界。ガングロの若い娘が二人その近くをガムをクシャクシャかみながら歩いていた。


2000年…まるで白抜きの数字の年の12月7日、68歳でその子さんは白い雲に乗って天国に逝った。その死因は風邪がモトだったとか。「カゼと共に去る」なんて…。

北方領土で名を売った 間宮林蔵(1775~1844)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ


林蔵サンは常陸国(茨城県)筑波郡谷井田村(現伊奈町)の農家の子として生まれた。幼少の頃から頭が良く、殊に算数の才能は群を抜いてたとか。十代前半で江戸へ出て一際優れた才を活かして幕府普請役雇になった。

1800(寛政12)年、蝦夷地御用雇として千島に派遣された。丁度この地で測量中の伊能忠敬に出会い、測量技術を学んだ。

そして、まだ島なのか半島であるのかわからなかったのを、ハッキリ樺太(サハリン)は島であると発表したエラーイ人なのである。


タタール海峡は間宮海峡の名で世界地図上永久不滅の栄誉となっている。だが、この人は測量に優れていたが度量が狭く、人の集まる所へ行っては自分の業績を自慢したり、あのシーボルトがヨーロッパ諸国に間宮の偉業をたたえてPRしてやったのに、シーボルト事件の時に恩人の一人、高橋景保を密告して牢に送るなどして人々にうとまれてしまい、晩年は淋しい人生だったとか。アー、タタール(祟る)侮きようになるとは。


ロシアのゴロヴニン海軍大佐に、日本人は戦争にかけてはどの国にも負けんぞ と日本の兵法を自慢し、威嚇したのだ。外国人をおどした日本人第一号の林蔵。どこか鈴木宗男さんと似ているのである。一方は農家の子から、一方も同じような叩き上げの……ネ。


で、何故か北方領土に力を入れたあげ句、最後は淋しい人生を送る事になるのはどういう訳か?


もう一人探検家で幕臣の近藤重蔵も四度蝦夷地に赴き、千島列島を調査し書物奉行になったのに、晩年長男の殺傷事件に連座して流刑になり罪人として死んだ。


彼も強引な性格でエトロフ島にロシア人が建てた標柱をブッ倒して、大日本恵土呂府という標柱を建ててしまったのだ。この時から日本とロシアは植民地の争奪戦をくりひろげているのだから凄い。


そこへ鈴木宗男クンがまたまた悪行で名を売った。証人喚問でのテレビの視聴率たるやビックリ仰天。かつてのロッキード事件の時の証人喚問に次いで第二位で、長嶋・王対決の日本シリーズの時と同じ32.9%を記録したのだ。


国後島のムネオハウスやコンゴ人私設秘書のムルアカ氏の問題もさる事ながら、次々に疑惑の出るワ出るワ。自民党を辞めても議員は辞めぬと地元へ行って弁解の行脚。しかし地元民もウンザリ。


北方領土に力を注いだ宗男サン、近藤サン、そして間宮サン。いずれも華々しい功名を得て得意の絶頂から転落。北方領土は還らず、失った名声は還らずでは一寸淋しすぎますよ。


林蔵は探検家であると同時に幕府の密偵(スパイ)でもあったし、シーボルトもスパイとして日本に入り込んでいた。日本の重要な江戸城の秘密の地図他を大分持ち去ったとか。そのうち”鑑定団“のテレビに出てくるかもネ。


間宮林蔵の墓は東京の江東区平野町の道路沿いにあるが、生まれ故郷の茨城県伊奈町上平柳にある専称寺にもある。


宗男氏失墜後ロシアは困惑しているとか。でも私、そしてマジシャンのムッシュ品田はロシアの女性ばかりいる美人クラブで日ロ友好に精を出して国交を深めている所です。

粋でオシャレでめっちゃイカス 吉田茂元首相

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和服に白タビのいでたちに葉巻をくわえ、飲むのはスコッチウイスキー。これがワンマン首相と云われた故吉田茂氏の売りのスタイルだった。昭和28年の第4次吉田内閣の時、「バカヤロー」と怒鳴って第15回国会が解散したのだ。


伊藤博文が初代首相であるのは誰でも知っているが、では2代から順を追って名前を云えるかと云われたらこれは困る。第一、今の小泉さんの4代前は?と云われてもハテ?誰だったか? そこで歴代天皇や歴代横綱などを立て板に水でペラペラしゃべる講談の田辺一鶴さんに電話してみたら、即座に伊藤博文、黒田清輝、山県有朋、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、山本権兵衛、寺内正毅、原敬、髙橋是清……イヤイヤ恐れ入ったネ。それでも吉田サンは何代目?と聞いたら、これも32代目首相デスと即答。「ファイナルアンサー!」。「正解」である。


吉田サンは家中の時計を全部5分間進めておいたという。5分の余裕があったために人より一つでも多く物を考えたり、心のゆとりを持てたり出来るんだ…という持論。流石です。今の政治家はすぐ記憶にございませんとか、そんな事があったかも知れませんなど、バカすぎて話にならないものネ。


明治20年に高知県に生まれ、帝国大学法科大学政治科を卒業。イタリー大学やイギリス大学などを経て外交手腕を発揮。平和主義者の吉田サンは昭和20年4月に近衛文麿を中心に和平工作をしていた事が憲兵隊に知られ拘置されてしまう。しかし8月には終戦。昭和21年5月に第一次吉田内閣が成立し、戦後の混乱時に敏腕をふるって日本再建に盡くした吉田サン、あんたに生き返ってもらってもう一度世の中を変えてもらいたい。


東京大学名誉教授で経済評論家であった東畑精一氏が、広川弘禅農林大臣と対談のため訪問した折、狸和尚と云われた広川氏が「大磯のじいさん(吉田サン)なかなかいたずらしてくれるよ。今朝クリスマスプレゼントでこんな物贈ってくれたよ」と小さい玩具の狸、しかもその口が紐でくくってあったのを見せたそうだ。あまりおしゃべりはするなという謎だがイイネ。ユーモアもシャレも一流の首相であった。


その事を東畑サンが吉田サンに手紙で書き送ったら、当の吉田首相から返事がきて、「狸と座談の由、狸この頃人を騙すことに興味を覚え、時々騙し損ねて尻尾を出す。今にして反省せざれば狸汁にいたすべく。左様御戒告おき下されたく候」。


どうですこんなイキな首相が再登場し、大岡越前守か遠山金四郎が法の場に立ってくれたら、くされ切った日本が良くなるよ。


青山墓地に行ってごらんなさい。犬養毅、井上準之助、牧野伸顕らの大きなお墓の近くにエッ、これがあの吉田サンのお墓?とビックリ。フツーの大きさのお墓です。これが実に感じがいいのです。声帯模写の伏見知か志サンが今日もステージでしゃべっています。「今の政治は与党と野党と悪党が活躍してます」。云い得て妙 デスね。


写真:東京・青山墓地に建つ第32代首相・吉田茂さんのお墓

ニャンとも真面目芸人だった 江戸家猫八 師匠

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

2001(平成13)年12月10日、物真似で売った江戸家猫八さんが逝った。1955年から始まったNHKテレビの「お笑い三人組」で一龍斉貞鳳、三遊亭金馬とのトリオで一躍人気者になった。芝居の方は元々古川ロッパ一座で役者をやってたのだから上手い。だから晩年あの「鬼平犯科帳」での彦十役を見て、猫八って案外演技力あるよな、なんて言ってた奴がいたが当たり前だよ。ジャズ歌手でやはりドラマで活躍している尾藤イサオが、テレビのかくし芸で曲芸をやった時も知らない人は上手いなと感心してたが、少年時代は曲芸をやってたんだからこれも当たり前。


ところで猫八さん所は、息子の小猫さんとその妹のまねき猫が父の後を継いで寄席の舞台を続けるが、この父子のユニークな夫婦関係は芸人の我々も脱帽。親猫さんの奥さんが入院中親切に面倒を見てくれた看護婦さんに、私が死んだらこの人と結婚して後の面倒を見てくださいと頼み、その通りに……。そして息子の小猫がその看護婦さんの妹を嫁にしたってんだから世間はビックリ。


物真似も父子ソックリなら、嫁さんも父子でソックリなんて面白いやね。


1921(大正10)年に東京で生れた猫八さんの本名は岡田六郎。初代猫八の六男に生れたから六郎。こんなわかり易い名前は無い。この本名で古川ロッパ一座で役者をしてたが巡業先の広島であの原爆にやられた。だから被爆者の手帳を持っていて、春日三球さんに「どうだい、こんな手帳を持っているのは珍しいだろう。欲しけりゃ売ってやろうか」。云われた三球さん「ウチの親父の位牌と交換しましょうか」。イヤイヤ、芸人の会話は凄いですよ。


永年寄席で共演されている三笑亭笑三師匠は「普段はごく真面目な人でね、楽屋の評判もお客様の評判も良くて不思議なヒトでした」。アララそれじゃ不真面目な奴が芸人に向くのかなと思った瞬間、「うれしさんなんか芸人向きですよ」。ソレどういう意味?


笑三師匠から伺った猫八像。いつも周囲の人達に気を遣いリラックスさせていたそうな。あの伊丹十三監督のヒット作「お葬式」での演技は高く評価され、日本アカデミー助演男優賞! 撮影中スタッフを沸かせたエピソードで、「お坊さんのお礼はいか程で?」「何万だァ、ナンマンダー」。「明日お経をあげちゃダメだよ」「ハァ」「今日(経)読むってんだから」「アー成る程」。てな具合だったとか。


そして猫八家は日本橋の一等地にあったものの、間口一間半(約3m)に家を建てたが一階はガレージ、二階三階も狭く細長くウナギの寝床。階段も細くて大変。「じゃあ上り下りにも歩くにも気をつかいますね」と云ったら笑三師匠、「何の心配もいりませんよ。スイスイのヒラリヒラリですよ。何しろあんた、ネコですから」。アラララ……こりゃ話す相手が悪いや。


ウチに先代猫八サンのSPレコードがある。それを久々にまわしながらご冥福を祈ろう。墓は先代と一緒に、東京の雑司ヶ谷墓地にあるニャーン。

ハワイアンミュージックの神様 バッキー白片

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

毎年夏のビアガーデン等で軽快に流れるハワイアンミュージック。実際本場のハワイより日本の方がキチンとした編成で演奏していて、フラダンスにしてもそのチーム数は驚くほどあって、これも本場を凌いでいるとか。ところで日本にハワイアン音楽を広めたのがバッキー白片であった。父の白片民一は1890年(明治25)に一家を連れてホノルルへ移住。そして明治45年(この年7月から大正元年)4月16日バッキーさん(本名=力・つとむ)が誕生したのである。


力少年はマッキンレー高校でドラゴンズオーケストラを結成、ハワイ大学へ進んでからもホノルルシンフォニー・オーケストラに加入するなど根っからの音楽好き。医学部に入ったのに異学部?昭和八年には大学を一年休学してアロハ・ハワイアントリオを結成し、日本へ来て「アフカの滝」「フイ・エ」の二曲をレコーディングした。その後半年ほど国内の演奏活動でギャラもドカーンと入って上機嫌。医学より音楽の方が稼げるぞーとこの頃からバッキーを名乗って飛び回った。しかし一旦帰国して大学を卒業してから再来日したってんだからこれが分からない。昭和12年、日本に帰化し冨美子夫人と結婚して東京に新居を構えた。


昭和14年「竹の橋の下」「フラの天国」を録音、これがヒット 翌年、日本青年館での第1回アロハ・ハワイアンズ発表会が行われた。その時の司会があの太った喜劇俳優の岸井明とは意外でしたね。ある時、ホテルが用意した楽屋の名札に「板金白方」とあった。白方だけでも充分失礼なのに、よりによって板金…自動車の修理じゃねえやネ。バッキーさん達はラジオのディスクジョッキーや映画にも度々登場。あの鶴田浩二、岸恵子主演の「ハワイの夜」で岸が歌ったのは吹き替えで、本当はエセル中田が歌っていた。岸恵子って歌が上手いネ…とウチのおふくろもダマされた1人であった。


エピソードを一つ。バッキーさんの作曲でメンバーの石巻宗一郎が詩を書いた。しかしどうしてもタイトルが決まらない。石巻さんと三島敏夫サンがある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。そこに目元涼しく胸豊か、腰がくびれて足すらり…「ウ~ン、僕ああいう女性に弱いんだ」と、あの名曲は三島さんのつぶやきから生まれたのであります。その三島さん20周年の記念リサイタルではバッキーさんとアロハ・ハワイアンズがゲストに。そして客席の片隅にすこぶるつきの(俺はお前に弱いんだ級の)美女と共に鑑賞していたのが誰あろう、この私でありました。甘美な歌、夢誘うスチールギターの音色、連れの紳士の優雅さに女性はもうしびれまくり、その夜は…この先はとても読者の方にお気の毒で申せませんよ。


ところで麻布六本木に松村歯科医院を営む変な歯のセンセがいる。これが無類の音楽好き。ボクが行くと診療もそこそこにギターを持ち出し、歌いまくり弾きまくり。客も音楽出版関係の人たちが多く、とうとう病嵩じてハワイアンバンドを作ってしまった。メンバーは大作詞家の荒木とよひさ(ウクレレ)、大作曲家の三木たかし(ギター・ヴォーカル)、そしてバンド名がバッフィ松村とアロハ・クリニックス。大橋節夫さんや山口軍一さんまで顔を出すという凄いバンドである。もちろん治療中のBGMもハワイアン。チラッと見ると治療器具を持った右手が横に行ったり来たり、つまりスチールギターを弾いている手つきなのだ。助手の女性はと見ればこれまたフラの腰つきときた。何という医院なのだ。「よし、何か演奏会のある時はオレが行って司会しようか」と言えばくだんのセンセ、「いいのよ、僕は司会もやるから」「えっ司会も?」「そう、だってボクは歯科医(司会)ですよ」。


バッキーさんは1994年9月13日、82歳で逝去。墓は新宿区喜久井町の来迎寺に…アローハ

日本のレオナルド・ダヴィンチ――小堀 遠州(1579~1647)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

遠州…という人を知ってるかと、芸人仲間に聞いたら7人が遠州といやあ森の石松だろうと答えた。僅か1人が小堀遠州か?と云う。子供の夏休みの宿題を見ていたらその名があってね、だけど何する人かよく読まなかったけど…と情けないハナシ。


名古屋や静岡へ旅行した時にお城をご覧になりませんか。あの素晴らしい天守閣を見て一様に感銘を覚える筈。ハイ、あれが小堀遠州サンの作品なんであります。イヤイヤこの方、お城ばかりでなく、庭園を造らせたらこれまた素晴らしいものをつくっちゃう。例えば京都の南禅寺の庭や大徳寺の孤篷庵、名勝岡山の頼久寺など沢山の名園を造っているのです。


36才の時に遠州は、天皇を退位した後水尾上皇や東福門院(お后様)のために花壇のある庭を造った。なあーんだ花壇の庭なんざ珍しくないという方のために云っておくと、鎖国時代に西洋式の庭を考えるなんてヒトはおりゃせんじゃったのよ。遠州がこの庭を造って後に、フランスのベルサイユ宮殿がこれに似た庭を造ったってんだからいかに進歩的かつ優れた造園家であったか分かろうというもの。それに遠州サンは茶道の達人でもあって、ウチのオフクロ(明治42年生まれ)も遠州流の茶道をたしなんだというご縁!


遠州は豪族の長男として1579年(安土桃山時代)に生まれた。名を作介といい、父新介は大和国の郡山城で秀吉の弟秀長の家老をつとめていて、作介はその秀長の小姓として仕えていた。秀長が関白秀吉を招いて茶会を催した折に、千利休が来て堂々と秀吉と対座している姿に感動しオイラも将来は茶の道で名を成してやろうと心に決めたという。そして古田織部という利休亡きあと第一人者の師について学び、その才能をいかんなく発揮した。


利休も織部も共に切腹を命じられてしまうという悲しい結末であるが、この小堀遠州は69才まで周囲からも大事にされ、弟子も多く、茶道の遠州流を拓き、良き人生を送ったという。オ茶は鎌倉時代初期に栄西禅師が中国(宋の時代)より持って帰り、抹茶の栽培は九州の背振山の山麓などで始まったとか。大体オ茶はお坊さんの間で飲まれていたらしい。茶坊主ってのが居たよネ。


遠州の名は家康がその居城、駿府城の建築を小堀サンに命じた事に始まる。出来上がった城、殊にその天守を見てぶったまげた。何という美しさ、ワンダフルであるぞよと仰せられて、「諸太夫従五位下遠江守」という称号を与えられた事による。以来、略して遠州と名乗るようになった。


オフクロは今93才。耳もよく聞こえるし、足もまだ自分の足で歩ける。更に口ときたらハッキリ云いすぎるくらい。今ね、遠州について原稿書いてるんだけど何か習ったことでないか?と聞けば、エンシュウって、防火演習かい。違うよオ茶の方の、ホラ自分がやってたろ、遠州流の小堀遠州だよと云えば、「あゝ昔お前が、私の大事にしてたオ茶碗を割ってしまったっけね。あれは高い茶ワンだった」。黙れ!! この芸人の母め!


小堀遠州のお墓は東京・新宿区原町の法身寺にある。

傘をクルクル おめでとう 曲芸の海老一 染太郎さん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

「オメデトウございまーす!!  いつもより余計に廻ってまーす!!」


顔からこぼれ落ちそうなデッカイ目玉。そして人より目立つあの歯。そうあの大神楽曲芸師の海老一染太郎サンの陽気な声と、弟染之助の兄弟コンビは正にお正月の顔であった。


1932年(昭和7年)に東京・新宿で誕生した染太郎サンは芸能一家に生まれた。浪曲、落語、曲芸などの修業はメチャ厳しい。寒中でも外でバチをくわえ、マリをまわしナイフを投げる。辛い修業を積んで46年に新宿末広亭で初舞台を踏んだ。舞台でシャレを云って笑わせるのは兄の染太郎。弟の染之助は大汗かきながらドビンをくわえたバチの上でまわしたり空中に放ってそのツルをバチに通してみせたり。すると兄の染太郎は「アッ危ない! 胸がドビンドビンします」てな事を云って笑わせる。


だから普段も冗談が通じるかってえとこれが大違い。ある日、かつて有楽町にあった東宝名人会の楽屋で、先に出演の終わった声帯模写の鯉川のぼるが帰りがけに、「デバお先に!」と云ったとたん、弟の染之助が「無礼者、貴様今何と云った、謝れ 」と烈火の如く怒った。これには楽屋中シーンとなり、当の鯉川は軽い冗談のつもりがおお事になってただオロオロ。その時いつもより余計に怒ってまーすって云やよかったじゃねえかと云うと、「あのシラーッとした中でそれが云えたら凄かったろうな、あれから俺海老が大嫌いになってね」。


一般人の方と違って芸能界には業界用語なるものがあって、1・2・3といった数字をツェー・デー・イー・エフ・ゲーと云ったりする。だから1万円をツェーマン。5万はゲーマン。つまりギャラを決めたりする時に使う。ところが映画、TV、音楽関係と違って演芸の方はヘイ(1)、ビキ(2)、ヤマ(3)、ササキ(4)と云ったりするが、さらに曲芸の世界にはここだけしか通じないイン語があって、シコメル(盗む)、コザエモン(女房)、ハバ(女)、アマガリ(お乳)、テヘ(大きい)、コキ(小さい)、イシヅキ(お尻あるいは後ろ)。会話の中でイシヅキのハバ、アマガリがテヘだなと云えば、後ろにいる女オッパイがデカイとなる。まるでヒト様には分からないので覚えたらこれ以上便利なものはないね。


西武新宿線の新井薬師駅近くに住んでいた染太郎サンは、その線路ギワにあるグランドへ我々の野球を観戦に来た事がある。その時も盗塁をさせる時にセカンドをシコメルからと云うとビックリして、あれうれしさん大神楽のゴンピン(言葉)、チエル(わかる)んですか、と怪訝な顔をしてたっけ。僕が昭和28年に学生漫才で芸能界へ足を踏み入れた時、鏡味小鉄(故人)師匠率いる曲芸の野球チームに入った事があって、その時にイン語を覚えた。この小鉄門下に少年時代の尾藤イサオが曲芸の修業をしていたのである。


染之助、染太郎の兄弟コンビで売った伝統芸も骨身を削る辛い修業に耐えて後を継ごうという者も現れない。悲しさを抑え線香を供えると墓石の下で染太郎サンの声。


いつもより余計に煙っていまーす!!


平成14年2月没。70歳。墓は新宿区山伏町の常敬寺に。

八代目三笑亭可楽サンは酒と女と暇が好き


青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

昭和39(1964)年はいい噺家サンが次々に逝ってしまった。3月31日に三遊亭百生サンが68才で亡くなると、8代目三笑亭可楽サンが67才で逝き、2日おいた25日には二代目三遊亭円歌サンが死亡。そして11月8日には三代目三遊亭金馬サン……。


可楽師匠が一時協会との折り合いが悪く、暫く高座に出なかった頃があった。湯が原温泉でボクの妹(腹違い)が芸者の置屋をしていた時に、この可楽師がウチにズッと居ついていた。モチのロン女性が出来ての事でありますよ。チビリ、チビリと酒をやりながら、おっとりとした口調でヒマってのがいいね、好きだねと昔の話をしてくれたが、メモをしておけばそれこそ「お宝」になる話が一パイあったのだ。惜しい事をしたとつくづく後悔。「師匠、らくだを聞かせてくださいよ」。「らくだ?あれは高い噺だから駄目」。「味噌倉」か「笠碁」をやってほしいな。酒が程よくまわってご機嫌になると……


――ここに居る奴もヒトの噺をタダで聞こうてえケチな料簡の者ばかりだが……世の中には出すのは舌を出すのもイヤで、貰えるものはヒトのオナラでも頂くなんてケチな奴が居たりしましてな。

「今ここへ釘を打とうと思うんだがな。定、お向かいの家へ行って金づちを借りておいで。どうした借りてきたかい」

「いいえ。お向かいが言うには、金の釘を打つのか竹の釘を打つのかと申しますので、金の釘ですと言いましたら、金と金だと減るから貸せないと断られました」
 
「何てケチな野郎だ。借りなくていい、ウチのを使いな」――


可楽師段々乗ってきて、たっぷり40分もの熱演。イヤハヤぜい沢な事でした。


寄席文学の名人橘右近サンが可楽師匠の病気見舞いに行くと、

「ネエ右近サン、起きて歩けるようになったら、これまでに世話になったタレ(女性の意)の墓を訪ねて線香の一本もあげてまわりたいんだがね」

言ってみたいねこんなセリフ。モテた男のセリフだよ。若い時分苦労している時は小唄の師匠が面倒を見てくれたという。その後お茶子サンに手をつけ、義太夫の師匠と出来、他人の女房や未亡人……。そりゃルーズソックスの女子高生の援助交際のない時代にしてはド派手なウハウハ人生だったのでは?


この親にして……という言葉があるがお弟子サンの夢楽サンが師匠の上をゆく遊び人。何しろ家へ帰らず女の所を転々。楽屋へ弟子が下着等の着替えを持ってくる。洗濯物を抱えて弟子はカミさんに届ける。今日の泊りも言わず家の事も聞かず。久しぶりに世田谷の家に帰ってみたら、鍵は閉まってる表札は変わってる。近所のオバさんが「アラ夢楽さんのお宅とっくに引っ越しましたよ」。


女好きと酒好き、男であれば当たり前。だがなかなか大っぴらに出来ぬのが一般人。芸人なればこその自由気まま。そんな世界も段々狭まって、今じゃカミさん上位の芸能界。アー昔の芸人は良かったなあと言えば、昔の芸人サンて車のローンもなければビデオカメラ買ったり外国旅行したりしなかったってね、とのたまう謎の同居人。


可楽サンは台東区の興禅寺でヒマがあったらおいでと、タレの墓参りを待っている。


ウン千万円?の画伯の絵が……東郷青児

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京の豊島区にある雑司が谷霊園には数多くの著名人が眠っている。東条英機、小泉八雲、武久夢二、夏目漱石、泉鏡花や歌舞伎の尾上梅幸、市村羽左衛門といった方々がズラーリ。その中に画家の東郷青児の墓もある。


青山学院を出て二科展に出品。第3回の二科賞を受賞し、その後フランスに留学する。そして昭和3年ヨーロッパの作を発表(二科展)。昭和洋画奨励賞を受け会員に推された。このヒトの絵、美術名鑑で調べたら号280万円でありまして、実はこの方の絵を、しかも10号のモノをタダで手中にした幸運なヒトがいるってんだから口惜しいネ。その人の名はコロムビア・トップ、つまりこのうれしの師匠でありまして…。


大体この日本国では美空ひばり、雪村いづみ、江利ちえみの三人娘から始まって、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家、そして郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の新御三家などと命名するのが好きなのである。あのコロッケは旧御三家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だとネタで使って笑わせている。


かつて昭和30年代の初めに、親の七光り3人娘が歌謡界にデビューした。美人画を描いて第1人者の伊東深水の娘で朝丘雪路。新派の大女優水谷八重子の娘が良重。そして画家東郷青児の娘たまみ。話題としてはもう充分過ぎた。


あれは多分、千駄ヶ谷体育館で特設ステージを組んでの歌謡ショーの時だったと思うが、東郷たまみが歌い終ってステージ横の階段を下りようとして足を踏み外し、ドドーッと落ちてしまったのである。この時、折りよくというか悪運強くというか、階段の下に立っていたのがトップお父っあん。両手を広げてたまみサンを受けとめたのだ。幸い足にホンのカスリ傷で事なきを得たのです。


それから1ヵ月ほどして丁寧なお礼の手紙を添えて、何と東郷画伯の作品、それも10号の秀作が贈られてきたのです。イヤ喜ぶまいことか、当時何人もいた弟子の中に、東児と南児・北児というのがいて「ナア、東児だとか南児・北児なんてのはヒヤーもゼニにならんが、青児とくりゃ何百万だ、凄いなァ」「オイ、これからは水谷良重と朝丘雪路のステージにへばりつけ。階段の下でまってりゃ、またチャンスがくるかも知れんぞ」。弟子のAが「待ってて何か得するんですか?」といえば「バカ、雪路が落っこちてみろ、それを助けりゃ伊東深水の絵が貰えるじゃねえか」。弟子のBが「じゃ良重だったら何が貰えるんですか?」「そりゃ新派のチケットかなァ」。何ともしまらないハナシですね。


東郷サンといえば、ドイツ大使になって、東条内閣と鈴木内閣で外相を務めた東郷茂徳や、あの日露戦で連合艦隊総指令長官として指揮をとった東郷平八郎も青児サンと同様に鹿児島出身。ボクの友人の東郷クンは青森なので先日聞いたら、やはり父は鹿児島で事業に失敗して青森へ逃げたんだと。それじゃ東郷サンじゃなくて、逃亡サンじゃないの。

スーパーマンのはなし家――柳家金語楼(1901~1972)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

およそ落語家でこの人ほど多方面で活躍した人はおるまい。寄席の高座から始まって、芝居(劇団も持った)、映画、テレビ、そしてある時はジャズバンドもつくったりしたし、発明家としても有名だった。売り物のハゲ頭は大正10年に朝鮮羅南第七十三連隊に入隊してから、紫斑病にかかって九死に一生を得た代償としてなったモノ。災い転じて福となすってやつで、お笑いを売るのに誠に都合のいいご面相となり、軍隊の経験を生かした「兵隊落語」は大ヒットとなった。上官に名前は? と聞かれ「山下ケツ太郎!」と泣きべそをかきながらハゲ面をクシャ!! 客席に笑いの渦が涌く。


金語楼は明治34年3月、港区の茶屋の長男として生まれた。6六才の時に芸事の好きな祖母につれられ寄席に通ううち、小噺や踊りのカッポレを覚えてしまう。


ある日、高座に穴があいた。すると祖母が「ホレ、お前がシャベリな」と高座へ押し出してしまった。6才の坊ヤは何の臆する事もなく小噺を。するとこれがウケて2ツ3ツ。もっとやれ! の掛け声に「カッポレ」を踊ってこれまた大ウケ。翌日から出番が決まって天才少年ハナシ家が誕生。しかし小学校へ入って友達にせがまれ一席やったら学校からお達しがきて退学。


大正2年小金馬を名乗り、9年に19才で柳家金三となって真打ち。この金語楼師匠が何と見掛けによらぬもので、大の野球好きだったというからうれしいネ。初めてグラブとボールを買った金サン。もちろん大正時代の話。ボールはゴムボールでなく本物の皮ボール。相手が居ないのでボールを屋根に投げて落ちてくるのを下で受けていた。何回かやってるうち、ゴムボールと違ってはずまないのでトヨの中へ落ちてしまった。物干し竿でドンドン突いたらそのトヨがこわれて落ちて親父からメチャしかられた。


では、どこかで野球をしてないかと探したら芝浦の方に貸しグラウンドがあってチームが集まってる。1人足りなければ入れてくれないかなと少々期待してると、すみません手伝ってくれますかといわれシメシメ。ところが審判をしてほしいとの事。ルールも知らないのに? まあ当たってくだけろとキャッチャーの後に立った。面も初めての事でボールが見にくい。ピッチャー第1球! 恐ろしくて目をつむってしまう。何か言わねば、とストライク!! 「えっ、今のワンバウンドですよ」「それじゃボール」。面があるから見にくいと外して構える。第2球、バッター空振り。キャッチャーのミットもかすらずまともに金サンの顔を直撃! 気絶して寝かされて気が付いたら4回が終わった所だった。


自分のチームをつくって試合をしピッチャーを。上の方から山なりの大スローボール。大屋根ボールと名付けて、これが遅すぎて打てない。バッターボックスに立つと相手の投手が顔がおかしいとまともに投げられなかったとさ。


紫綬褒章、そして喜劇人協会会長を務め、勲四等も受けた金語楼師匠の墓は、東京・五反田の本立寺にある。


明治大学の名物猪監督 島岡吉郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

島岡サンは応援団出身の監督である。明治大学を卒業して六年間証券会社で働いていた。戦時中は海軍の特務機関に居たという。サラリーマンから請われて明治中学(現高校)の野球部監督になったのが昭和21(1946)年の事だった。三度の甲子園の土を踏んで、その後万年優勝候補であった明治大学の監督に就任したのである。28年秋には11年ぶりに六大学リーグで優勝を果たし、以来15回の優勝に貢献した。また大学選手権も五回優勝させたのだから敬服である。


しかし、この人ぐらい愉快なエピソードの多い人はいない。人間何処で倒れてもゼニを持ってなければ恥をかく、それに何でも1位にならねばと、縁起をかついでいつも毛糸の腹巻には一萬一千百拾壱円を入れていた。それと梅干の種をお守りとして入れておいたのだ。種を割ると中に白い物があって、昔の人は天神様と言った。だから監督は自分の守り神にしていた訳。


或る日、明大のグランドで社会人のチームとオープン戦を行った。試合途中でピンチになっていつもの守り神にお祈り……と腹巻の中に手を入れたが梅干サンが無い。「オイ、梅干が無い。探せ!」。部員が地を這いながら探す。一方相手のチームは何だかわからない。ハハア御大コンタクト落としたんだなと見ている。


どうしても見つからぬので4年生が1年部員に、「合宿のオバさんから梅干貰って洗ってな、泥をまぶしてこい」。1年生が戻ってきて上級生に種を渡す。「監督ありました」。「オウ、あったか」。手で泥を払い落とし親指と人さし指にはさんで眺めた島岡サン。「ウーン、これはワシの梅干じゃない!」。つまり監督の種は永年指でこすっているからツヤが出ている。それに新しいのは先がトガッていて痛いのでバレてしまったという。


阪神に入って活躍した平田勝男選手が4年の時、法政に負けたら「切腹して死ね」と言われたそうな。駒沢大が明治のグランドでゲームをした時、今日はワシが審判をすると面をつけて立った。2死で走者が1塁。駒大の4番栗橋(後近鉄へドラフト1位)がバッターボックス。第1球真ん中へストレート。すると御大「ストライク・バッターアウト」。「エッ? 監督さん僕まだ一球ですよ?」。「4番打者があんなド真ん中を見逃しやがって下がれ!」と1球で三振という珍プレー。島岡サンならではの一幕。


大洋の秋山・土井の名バッテリーや、鹿取(巨人)、広沢(ヤクルト)、星野(中日)等プロ野球へ多くの人材を送った島岡監督の決まり文句は、マウンドへ行くと「何とかせい」。打者にも「何とかせい」。投手の調子が悪いとマウンドへダッシュ。行こうとするのを鹿取が「監督ダメです、2度目です」「はなせ!」「2度目です」。2度行けば自動的に投手交代になるのなんかカッとなるとすぐに忘れてしまうのだ。その力のある身体を押さえるのに毎試合苦労したとか。だから君は押さえのエースになったんだろと言うと、「アッそうかも」。

平成元(1988)年4月11日、77歳で逝った。墓は故郷の長野県下伊那郡高森町の実家の前に在る。

アブさんでお馴染みの 闘将 景浦 将 故郷の地に

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

「おもしろお墓百話」PARTⅢの原稿〆切が二日前に迫った2003年1月18日、ボクは愛媛の松山空港に降り立った。出迎えてくれたNTTの本山義文君はかつて駒大野球部で元巨人軍中畑清君と同期。そしてボクのチームの助っ人としても活躍してくれた。

その彼がハンドルを握ってくれて、予め調べておいてくれたプロ野球草創期の大選手、景浦将の墓へ案内してくれたのは有難かった。松山の市街をぬけて伊台町という静かな山間の地に何人かの軍人サンと並んで建っていた。写真を撮ってその足で景浦の出身校である松山商業に向かう。名門の監督がニコヤカに迎えてくれた。沢田勝彦監督はオリックス・ブルーウェーブの石毛宏典監督と同期でこれ又ボクちゃんの後輩。寒い校庭で熱の入った指導をしていた。


ある高校で先輩が、お前らの打ち方は何だ、セコな夕立じゃあるまいし、パラパラ打ってたんじゃ点につながらんだろうが、もっと固め打ちせんかい。固め打ちせーよ。と言って監督室で話終わって帰りに見ると、皆が片目つぶってスイングしてる。「オイ、お前ら何してんのか」「ハイ、片目打ちの練習してます」。これにはズッこけたという話で大笑い。


景浦はこの松山商業(当時は中等学校)5年生で春の第九回全国選抜中等野球大会に、三塁手兼投手として出場し優勝を果たしている。そして立教大学に進み投手と外野手をこなして、昭和10年秋の東京六大学リーグ戦で2本のホームランを打ち、投げても3年間で8勝7敗の成績をあげた。当時は六大学の人気は物凄かったが、11年にタイガースが結成されるとぜひ君の力をプロで発揮してほしいと引っ張られて入団。そして投手・三塁手・外野手と器用にこなし戦力となった。


その肩の強さは正にオドロキで、遠投114mという凄さ。今計ったら150㎞/hは超えるスピードと、その豪快なバッテイングはタイガースファンは勿論、球場につめかけた野球ファンすべてが惜しみない拍手を送った。快速球の沢村対強打の景浦の対決は江夏対長嶋でありランディ・ジョンソン対バリー・ボンズであったのである。


昭和12年秋、3割3分3厘で首位打者をとり、12年春と13年春に打点王もとっている。投手としては11年秋に6勝0敗で勝率十割。防御率0・79というご立派サン。もし戦争がなかったならば(昭和25年第二次世界大戦中フィリピン戦線で死亡)あの沢村栄治と共にプロ野球の歴史はかなり変わったものになっていたに違いない。長嶋ミスターの背番号3は永久欠番だが、それをつけていたのが2002年の暮に亡くなられた千葉茂さんでこの方も松山商業の出身。


東京に戻って中畑清家へ立寄り、同期の本山や松山商の沢田が宜しく言ってたぜと報告し、以前貰った千葉茂さんのサインボールは貴重なもんになっちゃったな。ツイ先日マスターズリーグの開幕で始球式やったばかりなのにわからんもんだな。もし景浦のサインボールなんか持ってたら凄いだろうなと言えば、中畑クン「景浦サンのサイン欲しい?」「貰ってやろうか、ウチに来てる保険屋の景浦サンだけど」。

早咲きの詩人ミュッセ――早く散る

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

アルフレッド・ミュッセ。これで充分なのに大体フランスのお方はフルネームで呼ぶと長いんだねこれが。ミュッセもルイ・シャネル・アルフレッド・ド・ミュッセてのが正式の名前だってんだから凄いね。


ミュッセは1810年に高級官吏のセガレとして生まれた。14才の時に詩をつくって誉められた。「坊や幾つだい」「ジュウ詩!!」。


18才の時にヴィクトル・ユゴー家で会合するロマン派のメンバーに加わるようになってたってんだから凄い少年だ。しかし美男で頭がいい彼は人様を見下すような所があって、地方出身の仲間の詩人達は彼となじめなかったようだ。


20才で処女詩集を刊行したりしてその才能は充分すぎたが、パリっ子…つまりボクはシティボーイだから田舎のプレスリーは相手にしたくないというハナもちならぬ所もあった。


だが女に対してはやさしくしかも積極的で、ロマン派の女流作家ジョルジュ・サンドと出会ってたちまち恋の炎がパッパッ。サンドの方はもうサンドどころか5度も8度も男遍歴のベテラン。都会育ちのボンボンなんざ手玉にとるよう。


ミュッセが病いの床にある時、看てくれている医者とサンドがお医者さんゴッコをしてるんではなかろうかと嫉妬心メラメラ。もうあんたとは暮らせないわ、私出て行くからネ。ミュッセは翌日には「ボクが悪かった。謝るから出て行かないで欲しい」。また仲直りして暫くすると同じ事を繰り返した。そしてイタリアのベネツィアに旅し、水のベニスでまた喧嘩。水の都で2人の仲に水が入り、ベニスの夜を最後にペニスにも用が無くなったサンドは旅に出てしまった。たった二年足らずの恋だった。


残されたミュッセはガックリ落ち込んでしまって詩作も与作もしたくない。だがいつまでもこんな事しててはとそこはミュッセ。自伝小説「世紀児の告白」を書いた。また劇作家としても知られるようになったのはさすがである。


1857年5月2日にミュッセは47才でこの世にオサラバしたが、長い事深酒に溺れて無理したのがいけなかった。墓石にある胸像を見てもその端正な美男子ぶりがわかるが端正でも短命じゃイヤだよ。墓石には、


“したしき友よ われ死なば 墓に柳を植えてよや 優しく淡きその緑 わが奥津城の土の上に ほのかな影は軽からむ…”とある。この詩に忠実に柳は植えられ、我々の行った日も墓石をそっとなでるように揺れていた。


高校時代にミュッセの詩の本を貸してくれた有希子さんに何十年ぶりかで会った。「あの時借りた本返してなかったね」。「ええ、でも本はもういいの。それより貸した1万円返して!!」

詩人のアポリネール(1880~1916)は パリのペール・ラシェーズにネールよ

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

パリの市内に3カ所の大きな墓地がある。1番大きいのがペール・ラシェーズで2番目がモンパルナス。そしてもう1つがモンマルトルである。1995年と96年の2年続いてパリに飛んでこの3カ所の墓地で墓の写真を撮りまくった。


まず苦労したのが事務所で貰った案内図に記されている埋葬されてる有名人の名前がわからない。つまり英語読みするとジョージがジョルジュ。GEURGESのスペル。CHOPIN(ショピン)はショパンでDELACRIX(デラクリックス)などはドラクロアだと。墓地が広いの何の。ボチボチなんて言ってたらすぐ日が暮れちゃうしね。もし渥美(愛知県)の石屋さんで石仏などの彫刻で高名な鈴木興弓氏が一緒に行ってくれなければ恐らく写真撮りは諦めていただろう。というのはその墓地にある有名人で音楽家や芸術家の事をまるで知らないでほとんどが鈴木センセの解説に負う所が多かったのである。ああ何という無知と自分の心にムチ打っても今さら始まらない。


「あ、これがローランサンの恋人だったギョーム・アポリネールですよ」と指したお墓でボクも記念撮影。お墓を写す業務が今回の旅の目的だから。鈴木センセの解説は実に素晴らしいのです。「彼は私生児として生まれたのですね。イタリアのローマで生まれてその後モナコやニースを移り歩いてパリに来たんですって」。まるでその時に居たように淡々としゃべってくれる。


もとは貴族の血を引くもパリに移った頃は大変貧しい生活をするようになっていたそうな。いろいろ苦労もあったけどピカソや彼をとりまく人たちと知り合い、ヨッシャ俺も男だ国定忠治! と云ったかどうか知らぬが一念発起してお勉強。ついに一流の詩人として名を成した。また評論家としての名声も得た。その上絵画界のプリンセス、マリー・ローランサンと浮名を流すようになったのだからあんたはエラーイ。でも男好きのローランサンは五年の歳月が過ぎたらフリーエージェントに年数が足らないのにサッサと出て行っちゃったのだ。ガックリきたアポリネール。一人で寝るのは寝るんじゃないよ枕かついで横に立つ…という詩を作った。アレこれは都々逸の文句だっけ。そうそう「ミラボーの橋の下をセーヌが流れわれらの恋が流れる…」(そして質グサが流れる…)すぐ余分なチャチを入れるからいい詩も駄目になっちゃうんだよね。バカこの漫才屋! 反省。


この時墓撮りに行ったのは鈴木センセと同じ渥美にある潮音寺のお坊サンも一緒。3日間の墓歩きで苦労をした打上げに有名なムーランルージュへ出かけました。ショーを観ている最中、飲んでたワインのグラスを置いた瞬間バタンと鈴木センセが倒れた。ショーの最中だわ外国だわで大慌て。坊サンの宮本利寛さんがこりゃイカンと持ってたバッグから電子手帳を出して何とかフランス語でSOS。トイレの横で暫く寝かされてる石屋さんにお坊さんが付き添うという変な光景。エッ? お前は何をしてたかって? ボクは芸人ですよ、勿論ショーを観てました。ショーがないですか?


※写真はフランスのペール・ラシェーズ墓地にたつアポリネールのお墓と筆者

宗教画家として有名・ロマン主義の大画家 ウジェーヌ・ドラクロア

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

パリのペール・ラシェーズ墓地はさながら美術館の様相を呈している。実際どの墓を見てもみな個性的で飽きないのだ。だから若い女性も楽しそうに語らいながら墓地を散策している。ここに紹介するのは見る人の情感をあおり感動を呼び起こすロマン主義の画家ドラクロア。このドラさん、1798年にパリ郊外で産声を上げた。お父っつぁんは外交官であり政治家でもあった。1824年ドラちゃん26才の時にギリシャ独立戦争を取材したのを描いた「キオス島の虐殺」を発表するやスゲー新人が出たと話題騒然。サロン側からは悪評を受けたというが、なあーに世の中の人がいいと言えばザッツOK。ドミニク・アングルという古典派のセンセはしかめっ面したが、こちとらロマン派の代表としてフランス画壇を二分したのである。


彼が33才の時に有名な七月革命が起こった。この時も戦場まで行って焼け落ちた建物、くすぶる樹林、死骸ゴロゴロの中を駈けずりまわってしっかり場面を脳裏に焼きつけてきて描き上げたのが「民衆を導く自由の女神」(1831)であった。この絵もヒットしてヨッ、ドラエモンかなんか言われてスターダムへのし上がった。ロマン主義運動の見事な開花である。


ドラクロアの作品にはキリストを扱ったモノが多い。「聖母の教育」(1852)のように美しく輝く風景描写も素晴らしいが「カルヴァリオの丘」はキリストの埋葬の場面を描いて荘厳で重厚な作品で、メッツ市立美術博物館でこの絵を見た時は、日頃がさつで下品なボクも思わず十字をきって心静かに眺めたものでして。詩人のボードレールも絶賛したこの絵を載せている本を漫談家のイエス玉川君に見せて、あんたもイエスと名乗っている以上こういう絵を鑑賞しなくてはいかんぜと云ったら、ボクは浄土宗ですから。じゃ何でバイブルを持って牧師のコスチューム着て舞台に出てくるの? するとイエス様はこう答えてくれました。「すべては食わんがためです。キリスト漫談のおかげで稼がせていただいているのでボクはその恩を忘れず週3回は食べていますよラーメンを」。アリャー……浄土宗のキリスト漫談だなんて今に地獄に落ちるよと云えば、さらに答えて曰く―この間、階段から落ちましたよ。じゃケガしたの? それがねえ、イテエ!と起き上がろうとしたらそこに500円玉が落ちていてネ、主は私を見捨てなかったんですね。…勝手にしやがれ!!


晩年のドラクロアはルーブル宮殿の「アポロンの間」の天井画を手がけ、さらにブルボン宮殿の図書室の装飾や、サン・シュルピース聖堂の壁画などの大きな仕事をやり遂げた。元来あまり身体は丈夫な方ではないが仕事を頼まれると我身いとわず没頭するタイプだったらしい。だから彼は「自分にはこの先400年までの仕事が残っている」と云って制作に力を入れていたという。いい言葉ですね。


この青空クンも云ってみたいね。この先500年も仕事がつかえているよと。ナヌ? この先5年が危ない? 口惜しいが当たってるかも…アーメン。

生涯独身を通した エドガー・ドガ(1834~1917)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

愛知県の渥美に曹洞宗のお寺で潮音寺というお寺がある。ここの住職宮本利寛サンは駒大の後輩で、ここには芭蕉の弟子で杜国の墓があるし、田山花袋の「一兵卆」のモデルとなった人の墓もある。寺も檀家に恵まれるとウハウハで、先年亡くなられたが松野鎌吉氏という大財閥が居て、一寄進(一人だけ)で観音様を寄進、さらにデッカイ観音堂まで建ててくれた。山門は皇居の松が伊勢湾台風の折に折れた物を、特別のコネで宮内庁からお下げ渡しいただいて渥美まで運んで建てたという千代田門。この松野氏がその財力にモノをいわせて集めた刀剣、大名の道具類そして書画、洋の東西を問わず素晴らしい美術品がワンサ。そんな凄い人を紹介してくれたおかげで、我が家にも芭蕉、蕪村、崋山らの軸や、ユトリロの絵などが労せずして転がり込んだ。自然絵画に興味を持つようになって、時間を見てはブリジストン美術館やデパート等で開かれる展覧会を見に行った。


ドガの「踊り子」や「浴後」「踊りの稽古場にて」を観た後にパリに行って、モンマルトル墓地でドガの墓の前に立った。パリに30年以上住まわれて絵筆を握っている元村平先生とご一緒で、その折ドガについて教えて頂いたのは今こうして原稿を書くに当たって大助かりである。ドガの家は大変裕福だったという。父はパリの銀行家で芸術にも理解があり、ドガが一旦は大学の法学部に入ったのをやめてアングルの弟子になって美術学校に学んだが文句は言わなかった。しかしエドゥワール・マネと知り合ってからカフェ・ゲルボワに集まるモネ、シスレー、セザンヌ、ルノワール、ピサロ達と絵画の方向を論じたりしたのがドガにとって大きなプラスになった。エッ? 酒でも飲んで皆で騒いだのだろうって? ドガチャガ! 真面目な話だってんだ今回は!!


ドガは右の方の目の視力が良くなかった。気付いたのは普仏戦争に従軍した時、鉄砲を撃とうとして標的が定まらなかったのでコリャおかしいとわかったという。見えぬままに引き金を引いた。これが本当の無鉄砲!! マジメな話してんだぞ。


だがいくら真面目に素描をし様々な絵を描いても、左目までが駄目になってはダメージが大きすぎた。若い頃は街行く女がいい男ねえと振り返る程のダンディだったドガは口惜しくて仕方がない。遂に両目とも失明してしまった彼は手探りで彫刻を続けたというから精神力だけは溢盛だったらしい。ドガの残した作品にバレエの絵がかなり多い。優美なバレエの世界を流れるようなタッチで描いているのが素晴らしい、とこれは批評家うれしセンセの独り言。


マネはその夫人が美人である事を自慢にしていた。夫人がピアノを弾くのをドガ達は聴きに行った。むしろマネに会うよりその美しい奥さんに会うのを楽しみにしていたようだ。マネはドガ達が親しげに話すのを快く思わなかった。ドガが美人の奥さんとマネを描いた絵を贈ったらマネは奥さんの顔の方を切ってしまった。そんな勿体ないマネしないで欲しい。83才で死んだドガは余りマネーは無かったとか。


本物の大女優 サラ・ベルナール(1844~1923)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ターザンの映画を観た時、あんな生活してみたいなと少年時代に思ったのは、木の上の小屋である。そこまでいかなくても木と木に結びつけてゆらりとゆれるハンモックに横たわって本など読んでる女…映画の一シーンに憧れたものである。だがここに紹介するフランスの大女優だったサラ・ベルナールは何と棺の中でスヤスヤと寝ていたというからこれが驚かないでいられようか。16才頃から彼女は純白のリンスを張ったお棺の中に入って眠ったのである。ちょっと汚れて色が変わると又張り替えて。何処へ引越しても必ず棺を運んだというから黒猫ヤマトも引越しのサカイも気味悪がるよね。


サラは1844年にパリで生まれた。母はドイツ人のお針子で平凡な生活をしてたが、男に騙されてパリへ連れてこられて棄てられてしまった。その後すぐベルナールというフランスの学生といい仲になってサラを産んだ。しかし相手はエエとこのボンボン。身分が違いすぎると親が許さない。困った母はサラを里子に出してしまう。15才まで修道院で生活をしたのである。


ある日サラはコメディフランセーズへお芝居を観に行き、すっかり舞台に魅せられてしまう。私が求めているものがここにあったんだわ。と彼女は国立演劇院に入った。サラが他の劇団員と大きな差をつけたのはその声であった。一度彼女の声を聞いたら誰もが感動した。その声の美しさはたちまち評判になりアッという間にスター。有名な銀行家や大会社の社長、著名な作家、高名な詩人達、ミューシャ、プルースト、ワイルド…みんな彼女のとりこになってしまった。


コメディフランセーズを抜けて自分の劇団をつくり、イタリアやアメリカにも公演に出かけたが、何処へ行っても大入り満員。ミュッセの「ロレザッチョ」などの男役もこなして大向こうをうならせた。国王や皇帝さえも彼女にひざまずいたというからその人気ぶりは想像もつかない。豪奢な生活も彼女には当り前に似合った。一度結婚もしたが夫には先立たれている。声がよくその上容姿がよく、その瞳でジッと見られたらゾクゾクっとして3日間ふるえが止まらなかったという。だからスキャンダラスなお話も後を絶たなかったが彼女なら何でも許したくなったというからいかに人気があったかわかる。


1905年、南米へ公演に。そしてリオ・デ・ジャネイロで「ラ・トスカ」を上演中に怪我をして、この怪我がもとで1915年に右脚を切断する事になる。だがサラはサラなる飛躍をと立ち上がるのだ。アメリカへ行ったりロンドンで公演したり、ブリュッセル、オランダと巡業しフランスへ戻って1923年に映画「女占い師」の撮影中に倒れ、この年4月死去。


墓はペール・ラシェーズにあって年配の方が「この人は大女優だったな…」という口の動きをしてた。そう思えたのだ、何しろ仏語ときたらムッシュとボンソワールにボンジュールしか知らないもの。あ、もうひとつ、フランスパン!!


美人で暗く逝った ダリダ(1933~1987)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ダリダって知ってるか? 「それ誰だ?」。

いやシャレではなく超有名だというこのシャンソン歌手の名を知る人は少ない。実はこの私めも知らなかったというお粗末でして。モンマルトルの丘にあるサクレクール寺院を見学してから墓地へまわって、エミール・ゾラやアレクサンドル・デュマ(椿姫)、作曲家のオッフェンバック(天国と地獄)(ホフマン物語)などの墓をパチリ。その中にひときわ目立つ墓所が目に入った。ウワーッきれい! と思わず叫んでしまったその墓が「ダリダ」。同行の彫刻師・鈴木氏はあんた芸能界にいてこの人知らないの?と哀れむような眼差しでご覧になる。ああ情けなやと教えを乞う素直なボク。


本名ヨランダ・ジオッテイはイタリア人の両親から生まれた。お父さんはカイロのオペラ劇場のヴァイオリン奏者であった。1954年にあったミスオンデイヌ(水の精)というコンテストに出たら見事優勝してしまったというから美人なんですね。美しくて才能があればフツーの女で終わる訳は無い。ハリウッド映画にも出演した。


しかし彼女は演技より歌が好き。イヤ男も好きでロマンスのお話も数々でありましたが、とりあえずは歌手の道を選んだのでして。1955年にダリダは“カイロかなカイルのよそうかな”と歌いながらカイロを後にして花のパリへ移ったのでした。そして翌56年には早くも「バンビーノ」が大ヒットしてたちまち有名人。なのに青空クンはその名を知らなかったのであります。その帰りにモンマルトルにある彼女の旧居を急きょ見に行ったりしても遅いのですよ。


不幸な結婚生活があって1967年に自殺未遂を起こし、それからかつての明るさが無くなって何か悲しみをこらえながら歌っているようなステージだったという。カーネギーホールにも出て名声を博したのに実生活での幸せは得られなかった。もし彼女に子供がいたら人生観も変わっていただろうに。87年5月3日、モンマルトルの自宅で睡眠薬自殺をしてしまった。


ダリダは2度来日していて、1回目の1970年(昭和45)の時にウチでは長女が生まれ、2度目の来日1974年(昭和49)に2男が生まれたという、子宝に恵まれぬ彼女が来た時にウチでは子供が生まれるという因縁めいたお話はさておき、ズーと後になってカミさんがポツリと話した昔バナシ。甲府で知人に頼まれて喫茶店でアルバイトを3カ月ほどしてたそうな。その店の主人が大のシャンソン好きでレコードを何百枚も持っていて1枚1枚大事そうにそっとプレーヤーでかけて店へ音楽を流していたそうな。


その店の名が“ダリダ”だったという。しかし年の差のある若くて美人の奥さんが、東京のお客さんといつしか恋仲になり逃げてしまったとか。ご主人ガックリきて寝込み、もはや仕事にも身が入らず、遂には店を閉めて何処かへ消えてしまったんだって。ダリダの歌った「暗い日曜日」のタイトル同様その日も日曜日だったとか…。ちなみにカミさんのアルバイト料も貰えずだったというからこりゃダメダ!!

鬼気迫る画を描いた テオドール・ジェリコー(1791~1824)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ペール・ラシェーズでもモンマルトルでもとにかくその墓地を歩いて思わずタメ息をつきたくなるような素晴らしい墓が目に付く。


例えばここに登場するジェリコーの墓は見てわかるように青銅浮彫の美術館に展示でもされるような絵画墓。思わずこれを外して持って帰って何とか鑑定団にでも出したくなる。実際モンパルナス墓地にあるフランク・シーザー(作曲家)の墓は何と親しかった友人ロダンが銅板に彫刻したシーザーの顔が埋められているのである。本当に黙って失敬したくなる気持ちになるが、分からないのは過日あった王貞治さんの奥さんの骨ツボを盗んでいった奴。何を考えているのかねえ。


ノルマンデイのルーアンに生まれたジェリコー。間もなくパリに移り住むが世はダヴィッドの新古典主義全盛の時代であった。画家をやるからには何としてもこの筆1本で男を上げてやる この辺はこのバット1本で有名選手になってやる! と鋭いスイングで世界のホームラン王になった王貞治さんと似ていまして。ルーブルでラファエロやティツアーノ、レンブラントを模写して力強い線と表現力を身につけた。


彼は幼少の頃から馬に興味をもった。2―4か3―6で1000円はつく…違うの。


あくまで絵を描くために馬小屋へ毎日通って描きまくった。そして24才の時に近衛騎兵としてルイ18世に仕えベルギーのガンへの亡命にも従った。そうした騎兵での経験がものをいって馬を描かせたら人1倍ウマかったのだ。最初の大作となった「負傷した胸甲騎兵」はサロンの落選という結果に終わり落馬したより痛い胸の中。オイ頑張れ、男がそんな事でくじけてどうすると慰めてくれた伯父サン。その年老いた伯父サンの若い妻をこそこそ慰めちゃったジェリコー。羨ましいねこの人妻椿。しかもその人妻に子供をつくちゃったってんだから困るよねえこの芸術家も。恩を仇で返してしまったが伯父さんは太っ腹、若いアレクサンドニーヌの浮気をジッと耐えて絵を描く人に恥をかかせてはいけない  フランスいちの偉い人かフランスいちの馬鹿な奴。


ジェリコーは下の筆も健筆だったが絵筆を持ったら正に天才。そうだ歴史物を描こうと一念ボッ起…イヤ一念発起。メデューズ号がセネガル沖で起こした海難事故を題材として選んだ。1816年7月。長さ20m、幅7mの筏に150人が命を托した。その寒さと恐ろしさに発狂者が続出し、生者は死者の肉を喰らって命を永らえたという。正に地獄だ。その上嵐が来てアルゴス号に救われた時には僅か15名の生存者だったと言う。その後2年して生存者を探して取材し筏の模型を造らせ、病院の近くに居を移して死者の肌の色を研究したという。また友人達も協力して処刑された者の生首や手、足を持ってきたというから今の世では到底許されぬ事をやってまで真に迫力のある絵を描き上げたかったのだろう。


パレットを手にして身を横たえながら制作するジェリコーの銅像が墓石にある。こうなると墓石が高いのか、その銅像の絵が高いのか? ドウかねえ。


ああ 切ない曲 フランツ・ペーター・シューベルト(1797~1828)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ムッシュ品田というマジシャンから電話があって、「昔のSPやLPを2000枚もっている人が居るんですよ。今度の土曜日の夜それを聴きながら一杯やろう、というんですが行きますか!」。丁度何もないので一緒に行きましたよ、一応ツマミになる物を持って。ところがレコードかけてくれるのはいいがクラシックばかり。こっちは岡晴夫とか東海林太郎なんかがあるのかと思ってただけにブラームスやハイドン、シューベルトには参りましたネ。

しかも、その平沢保サンという保険会社の人は平然と焼酎に焼鳥、おでんにキムチをすすめながらレコードをかける。シューベルトと焼鳥や焼酎はどーも合わない感じ。それでも2時間程度我慢して帰ることになったら、「そうそう、いいチーズとハムがあったんだ」。口惜しいね、こんなの。帰りに品田さんと喫茶店に入ってコーヒーにシュークリーム食って憮然。「いや参りましたね。私も歌謡曲だとばっかり思ってたんで」としきりに恐縮。


シューベルトはウィーンに生まれた。父が小学校の校長センセ。子供に伸び伸びと生活させたから、素直な少年として近所でもシューちゃんシューちゃんと評判がいい。1808年、シューちゃん11才の時にウィーンの宮廷少年合唱団のオ受験に一発でパス。そして1841年に小学校の助教員になる。早くから声楽曲を作曲していたが、最初の傑作は「糸を紡ぐグレートヘン」でゲーテの詩であった。これは周囲の人々から中々やるじゃんと誉められた。彼はモーツアルトを愛し、ベートーベンを尊敬していた。一時オペラにも熱中してオペラ劇の曲を書いたりしたが、この方はあまりいいモノが無くリート(ドイツ歌曲)にすぐれた作品が多かったという。


1917年に当時名高い男性歌手のフォーグルに認められ、彼の歌唱によってシューベルトの名声も高まったのである。19年夏、フォーグルと共に北部オーストリア各地を演奏旅行した。「さすらいの夜の歌」「恋人のそばに」「笑いと涙」「美しき水車屋の娘」といった曲は各地どこへ行っても喜んで受け入れられた。


話変わってうれし宅。電話のベルが鳴った。受話器をとると、ムッシュ品田さん。あ、品田です。この間のね平沢君から電話がありましてね、先日は時間があまり取れなかったようなので、折角お呼びしたのに何曲も聴いて頂けなかったので、是非もう一度来て欲しいって言うんですよ。漫才のうれしさんがシューベルトやバッハがお好きだなんて感激したと言っているんですがどうします? バッハ?


バッハな事言ってるんじゃないってえの。ベートーベンより弁当の方がいいし、ブラームスよりブラウスでも女に買った方がいいよ。暫く仕事が忙しいし、来月はアメリカだとでも言っといて。すると今度は平沢氏自身から電話。受話器の向こうから聞こえてくるクラシック。ゾー!! 「品田さんからお聞きしました。アメリカから帰ったら是非来て下さい」。


久々に二男の所へ行ったら赤ん坊寝かせながら「シューベルトの子守唄」のCDが流れていた。もうイヤ。「赤城の子守唄」にしてくれ!!


写真:ウィーン中央公園墓地にあるシューベルトのお墓


楽聖 ベートーベン

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

かつてお笑いタレントのバラクーダが「正月は朝から酒が飲めるぞ 飲める飲める飲める飲める酒が飲めるぞ」(確かそんな歌詞だったと思うが)と陽気に歌って、一時的ではあったがヒットした。この歌の作曲が相棒の岡本八とコンビを組んでいたベートーベン鈴木である。勿体なくもかしこくもかの楽聖ベートーベンのお名前を拝借するなんて不届き千万立派な男よと感心。


昨年暮れ、テレビでベートーベンの第九を合唱している大勢の人が出演していて、その中にあの「大きな古時計」を歌って大ヒットの平井堅の姿もあった。日本中のあちこちでこの第九を歌う合唱団がいっぱいあるんだという事だ。いつだったかベートーベン物語をテレビでホンのちょっとだけ見た事があるが、その時の印象ではやたら我儘でカンシャク持ちの、妙に若いのに尊厳ぶったようにだけ見てとれた。ああいう人とお友達にはなりたくないなと正直そう思った。しかし考えてみれば大方の芸術家は我儘である。他人の意見や忠告にとらわれぬから独創性のある素晴らしい芸術が生まれるのであろう。ボクのような優しく他人の意見を尊重し、巨乳を崇拝する者には到底『芸術』などはあり得ない。


ベートーベンは美しいライン河畔ボン市の、貧しい家の屋根裏でテノール歌手の息子として生まれた。おやじはそれこそ「今日も朝から酒が飲めるぞ」の大酒飲みでどうしようもなかった。母が死んで酒飲みの親父も職を失ってしまい、残された弟達とこの父の面倒をみなくてはならないベートーベンの苦労は大変なものだったという。


彼が8才の時に初めて公開の場に出て演奏したら、大人顔負けの素晴らしい出来にヤンヤの喝采を受けた。


ベートーベンという名はフラマン語(そんな言葉あったのか?)で、ビート(beet)とホーヴェン(hoven)の合成で「蕪(かぶら)の庭」という意味だそうな。カブラで良かった。大根なら役者で失敗してたよ。


1782年13才の時には宮廷音楽のオルガン奏者として登場する。87年に幼友達のヴューゲラーと結婚した。ベートーベンは正規な中等教育を受けないのに、89年5月14日ケルン選挙候の大学である学生名簿に登録されているのをみても、並の人とは違ったのでしょう。才能はみるみる花を咲かせ、貴族や芸術愛好家のサロンでピアノを弾き名声を博した。そりゃ日本だってリヤカーを引き雑貨を売って歩いて苦労しながら今では大スーパーの社長さんになった人もいますよ。どっちが立派かというと……どっちも立派だよ。中途半端なボクが何を云っても始まらないが。


ベートーベン最初の公開大演奏会は1795年の3月29日、午後7時31分45秒。ブルク劇場で行われた作曲者自身によって行われるリヒノフスキー公の演奏会で、ハイドンの前でヨーイドンで演奏したのであります。


天才ベートーベン、彼をおそった最大の不幸は次第に聴覚を失ってしまった事。聞こえぬ耳でなお数々の名曲を作曲し続けました。そして「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」という言葉を残してあの世へ旅立ったのです。1827年3月26日激しい雷雨の中で。ウィーン中央公園墓地に墓がある。


写真:ウィーン中央公園墓地にあるベートーベンのお墓


仏の女流画家(1885~1956)マリー・ローランサンさん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

柳家小さんさん。ローランサンさん。どうも下にサンがつくとこうなるネ。


パリ生まれだがその出生にはさまざまな説があるとか。この辺からして謎めいているからいい。大体ボクは謎めいた女が好きだ。いい女だがあれは人妻か? いや囲われモノか? 案外風俗嬢だったりして…なんて想像の世界にいるのが好きなオジさんなのだ。


1983年の7月。マリー・ローランサン生誕100年の年に長野県蓼科高原のアートランドホテル蓼科の一角にローランサン美術館が建てられた。小淵沢でペンションを経営する、かつてコロムビアトップ門下で漫才をしていた後輩田畑廣氏から電話が入った。「モシモシ、タバタ(田畑)です。日暮里じゃありません」。この辺が何年たっても昔の芸人が抜けないのですな。しかし現在は大したものでステンドグラス工芸では第一人者で大勢のお弟子さんを抱えるセンセ様である。毎年各地のデパートでその個展を開くが、殊に名古屋の三越での展示会はレギュラーで、あの大打者イチローも必ず(オフの時期なので)顔を出して、その作品を買ってくれるお得意サマなのである。もっともイチローからサインを貰って得意になってる方でもあるが。


その田畑氏から誘われてこの美術館に出かけた。ここには初期から晩年までの作品、デッサンから版画、水彩、油彩などなど世界のどこよりもローランサンのモノで一杯。何でローランサンのモノが多いか知ってますか? 実はここにはローランサンのモノしかないのですよ。ピカソだのブラックといった画家や、詩人アポリネール達と華やかな交流のあった彼女。もっともアポリネールとは夜もネールという仲になっちゃったけどね。5年間の熱愛の末に「サヨウナラ左様奈良、元気でいてネ…」と都はるみの歌じゃないけど別れてしまった。その後ドイツ人の男爵様と結婚あそばしちゃってスペインへ亡命したりして…謎ですね女は。


しかしアポリネールのような名声の高い詩人から次々と芸術家達を紹介されたお蔭で彼女は大きく成長出来たのだから、いい人とのめぐり合わせがないと人間1人ではどの世界でも伸びませんよ。ピカソやルソー、ジャン・コクトーらの力添えもあってローランサンはサンサンと輝いた。モンマルトルの一隅に一名「洗濯船」と呼ばれたボロの木造長屋があって、1904年にピカソが住むようになって恋人のオリビエも移ってきた。モディリアーニ、ブラック、ルソーそしてアポリネールと恋人のローランサン達もここに出入りして芸術を語り夜の更けるのも忘れて過ごしたという。床はギシギシときしみ、まるでセーヌ川沿いの洗濯船のような感じからその名が付けられたらしい。残念な事に保存しようとした矢先に火事で焼けてしまったために今はもうその面影も残っていないとか。


さて、ローランサン美術館で至福の時を過ごした田畑氏とボクは甲府のイタリアンレストランに入って食事。この店の名が何と「ローラン」。こうなりゃ食べるのはスパゲティアポリタン。ちょうどTVで中日~巨人戦終了。中日の川上投手ノーヒット・ローラン!!


ワルツと言えばこの人 ヨハン・シュトラウス(1804~1849)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

オーストリアの作曲家でビールの販売と旅館を経営している家に生まれた。子供の頃からビール、いや音楽に親しんだ。楽器でも踊りでも子供の頃からやれば大抵は上手くなる。だがある一線まではというヤツで、それ以上は本人の努力と天分であろう。ヨハンちゃんは天分が人より余分にあって長じてミヒャエル・パーマーの楽団に入りヴィオラ奏者として活躍する。


この楽団で生涯のライバルとなったヨーゼフ・ランナーと知り合った。二人は気が合って何処へ行くのも一緒。1819年にランナーと四重奏団を結成する。どこで演奏してもアンコール。24年には弦楽オーケストラに発展した。仕事がバンバン入ってくる。ゼニもガチャガチャ入ってくる、夜半(ヨハン)までかかって金勘定。こんなに稼げるんじゃバンドを二つにして仕事の場を広げようというので、そのバンドを分けてもう一チーム編成した。そしてシュトラウスは一方のバンドを指揮するようになった。25年7月にスペイン貴族の流れをくむ旅館の娘、アンナ梅宮…イヤ違うね…そうアンナ・シュトライムと結婚した。アンナとヨハンは作曲と演奏の忙しい中を男4人と女2人の子をつくったというからご立派。


仲のいい友達も一旦こじれると修正が効かぬもの。25年にランナーと意見の食い違いを生じ分裂。シュトラウスは14人の独自の楽団を指揮してこれを人気楽団に仕上げた。33年には実に29人編成という大楽団にして演奏旅行に歩いた。37年から38年にかけてパリにお呼びがかかる。シュワちゃんならぬシュトちゃん人気で大入満員。ロンドンではヴィクトリア女王の戴冠式をワルツ「ヴィクトリア」を捧げて祝って面目を施したりした。


しかし長い旅の疲れと稼ぎ過ぎてバテこんでしまう。このままではイカンとウィーンへ戻った。帰ってすぐ生涯のライバルだったランナーが亡くなる。もっとも彼の方が先に逝くよねランナーだもの。ランナーが去ってしまうと後はシュトラウスの天下。舞踏音楽と娯楽音楽の両方でウィーンを支配するようになった。何事も順調でいっていたつもりが家庭の事情から妻子と別れて、愛人のエミリー・トラムプッシュと同棲。英雄イロを好むというが羨ましい限り。ボクの方は家庭の事情から妻子にしばられているのでありますが。しかしシュトラウスは結局この愛人に産ませた子供の猩紅熱が感染してあっ気なく他界してしまったのだから、天罰だったといえるのかもネ。


シュトラウスはワルツの曲を数多くつくった。彼の息子3人も作曲家として名を広め、殊に長男のヨハン・シュトラウス(父と同じ名前)もワルツづくりの名人で、人呼んで息子をワルツの王と言い、親父の方をワルツの父と呼んでいる。これに似た父子がボクのまわりにもいて、親父は幾度も刑務所を出たり入ったり。息子も暴走族で覚醒剤で捕まり世間様から嫌われ者。人呼んで息子をワルガキと言い、親父をワルの権化と呼んでいる。

傷だらけの人生 井上 馨

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

毎年大勢の人が海外へ観光旅行に出かけて行くが、必ず人気の3番目までに入っているのがハワイ。

明治元年4月に150名程の人が非公式渡航したというが、公式に国が認めてのハワイ移民としては1885年(明治18)2月17日のことであった。56名の人がシティ・オブ・トーキョー丸で横浜港を出帆したというから、まだ帆船であったのか?


このハワイ行が実現したのは外務郷井上馨とハワイ公使アーウィンとの間に移民条約が結ばれたお陰である。


井上馨は長州藩士井上光亨の次男で、早くから蘭学を学び砲術研究のため江川塾に入った。海軍研究のため英学を修業し、1862年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに留学する。


だが四国連合艦隊が下関を攻撃という報を受けて急ぎ帰国し、伊藤と共に和平論を唱え藩論を倒幕に転換させた。自分たちの目で見た外国の強大さに、このままでは日本は滅びてしまうという危機感が生じたのだろう。

大体「馨」(かおる)などという優しい名を持っていながら気性激しく、その顔や身体には幾つもの刀傷があった。一朝事あるや身命を忘れてこれにあたって何度も生死の巷を潜ってきたという。


もうじき維新の幕が切って落とされるという元治元年9月25日夜、毛利候の会議で反対党を向こうにまわし、幕府に対する武備を強力に主張した井上聞多は、湯田の自宅へ帰る途中で暴漢に襲われて背中にグサッと短刀を深々と刺し込まれた。知らせによって兄の五郎三郎が駆けつけたがもはや息絶え絶え。苦しい息の下で「兄上、介錯を!」。


兄もどうせ助からぬ命、せめてひと思いに死なせてやる方がと刀を抜く。


「待っておくれ」とこの時、母のふさ子が声をかけた。「さあ、斬るならこの母もろとも斬るがいい」と血だるまになっている聞多を抱きしめた。そして母の必死の願いが通じ一命をとり止めたのである。聞多30才、後に馨と改名して維新の元勲となったのだ。


維新後、新政府に入り、民部大臣、大倉大丞を兼ねて大阪造幣寮を創立した。そして廃藩置県の事に当たった。1885年(明治18)内閣制度が成立すると初めての外務大臣となった。その後、黒田内閣では農商務大臣、第二次伊藤内閣で大蔵大臣となり条約改正、行政整理、日清戦争後の経営の立直しなどに当たった。


毎年のようにハワイへ行っているボクも今度(2003年5月のこと)ちょうど20回目のハワイ旅行になるが、一行25人の中に2人の井上さんが居るのも因縁。


なお念のために言っておくと1人は女性で看護婦。もう1人は男性で建築屋さん。そして顔にも背中にも傷は無い。

マッキンリーの山に消えた 冒険家 植村直己サン

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京板橋区赤塚に乗蓮寺という立派なお寺さんがあって、ここの墓地にあのマッキンリーで消息を絶った植村直己さんのお墓がある。その遺体は遂に発見出来なかったが供養のための墓は建てられ、その正面には詩人の草野心平が讃える詩を書いている。この人も随分心平(配)したなんてシャレも今日はよそう。何しろ日本中がイヤ世界の方々もその無事を祈ったのに、1984年3月8日、マッキンリーの捜索隊から捜索を打切って下山するという連絡が入ったのだ。


マッキンリー。それは6194mの山で、この山そのものが本当の植村直己さんの墓といえるかも知れない。そう思えば植村さんこそ世界一大きな墓に眠っているといえるだろう。1984年2月1日に植村さんはマッキンリーのカヒルトナ氷河ベースキャンプ(2200m)を出発した。そして12日午後6時50分に厳冬期単独初登頂に成功したのである。だが喜びも束の間、13日にはその消息が……。


冒険家植村は1941年2月12日に兵庫県城崎郡日高町で、姉2人、兄3人の末っ子として生まれた。県立豊岡高を卒業し一時就職したが1年足らずで辞めて、明治大学農学部農産製造学科に入学した。そこで山岳部へ入部して山との出会いが始まる。次々と在学中に日本の山々を踏破。1964年、23才で明治大を卒業するやその5月、移民船のアルゼンチン丸で横浜からロサンゼルスへ渡った。しかしアルバイトの不法労働で米国退去命令。


それじゃとヨーロッパへ行っちゃう。アルプス、シャモニー、モンブラン。そのモンブランに登ってる時に滑ってクレバスへ落ちて危うく死ぬ所だった。マッターホルン(4478m)やケニア山(5199m)、キリマンジャロ(5895m)等々難しい高い山を次々に征服した。


登った山は数知れぬから省いて、ここにかつて「植村ですどうもすみませんです」という題名の本を読んだ時、厳冬の山でトイレをするという所をメモしておいたのでちょっとご紹介。バケツにダンボール箱を円形に切り、五枚ほど重ねてビニールテープをグルグル巻きつけて便座らしき物をつくったという。小屋の中に置いて、用を足す時はマイナス数十℃の外で足すんだと。便は中央にせず周囲にまき散らせとか、便座は必ず室内に持ち帰れとか、便がバケツに一杯になったら交替で捨てに行けなどが紙に書かれていたらしい。バケツの便座はシャーベット状で坐った時の冷たさ痛さはたまらないそうな。小便を中央に一点にすればヤリのようになるので散らすとか。アッという間に凍るので臭さは無く捨てに行く時はビニールの袋の端をつまんで肩にかついで行くんだそうな。クソまじめに。


北海道の帯広動物園の犬舎の前に、「植村直己記念館・氷雪の家」が1985年に完成した。何処の国へ出かけても何ひとつ奥さんにお土産を持って来なかった植村さんが、帯広市の方々に天国からお願いして公子夫人に贈ったたったひとつのデッカイ贈り物の記念館であろう。合掌


〔写真〕東京・板橋区の乗蓮寺にある植村直己さんのお墓

二科会創立者の一人 梅原龍三郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

あれはそうボクがまだ駒沢大学の2年生だったから昭和29年頃だろう。その頃毎晩のように渋谷の居酒屋で焼鳥を食い、塩豆をかじりながら二級酒をあおっていた。いまはビール1杯で赤くなるが、その頃は底無しに飲んでいたのである。


その店にいつも黒のベレー帽をかぶって来ていた自称画家のオッサンが居た。酔う程に饒舌になる上すぐノートを広げて「君の顔描こうか」とくる。そしてその代償は二級酒1杯で、グラスに注がれる酒が下に敷かれた小皿に溢れるぐらいになると「ストップ・アンド・サンキュー」といっていかにも嬉しそうな顔をした。


この人が梅原龍三郎の甥だといつも言っていたが誰も信じなかった。いやそのオッサンはどうでもいい。その店のママが色白でムッチリ型のメチャ魅惑的なすこぶるつきの美人だった。大学へ行くより真面目に店に通った甲斐があってそのママさんと密会を重ねるようになったのだから幸せモンでした。しかし所詮相手は人の妻、伊豆の旅館での思い出を最後に別れました。これで最後…一晩中燃えた朝の食事はもう箸を持つ手が重く感じた程でした。


それから半年して岡山の旅に出て倉敷の大原美術館で彼女と再会したのです。イエ、実はそこに飾られてある裸婦の油絵に、アッと息をのみました。ああ正に忘られぬ彼女がそこに居たのです。それは梅原龍三郎の「竹窓裸婦」という迫力ある絵だった。もう感激で目がクラクラ。


梅原龍三郎は京都で明治21年に生まれた。中学の時、病いに倒れ退学してしまう。だが絵の方の才能があると周囲の人に言われ、自分もその道に進もうと浅井忠の聖護院洋画研究所に入った。明治41年(1908)にフランスへ渡りルクサンブール美術館で見たルノワールの絵に驚嘆した。これだ、これこそ私が求めていたモノだ。龍三郎は78才になっていたルノワールの門を叩いたのである。数年間のフランス留学を終えて大正2年(1913)に帰国し、描きためた百点をこす作品を展示した。帰国した翌年に二科会が創立し梅原もこれに加わった。メンバーは津田青楓、石井柏亭、有島生馬、斉藤豊作、坂本繁二郎、山下新太郎、湯浅一郎それに梅原を入れて9名だった。そして後から浅井忠のところでの兄弟弟子の安井曽太郎、森田恒友、熊谷守一らが参加した。


大原美術館を出て川ベリの喫茶店に入ったら20名程の団体旅行で来ていた中の1人に声をかけられた。「アララ、こんな所で会うなんて」、お互いにビックリ。この人ボクの住んでいる清瀬市でお寿司屋さんをしているお父サン。梅忠寿司、別名気まぐれ寿司。大の旅行好きで好き勝手に店を閉めて旅の人となってしまうのでこの名がついた。梅原忠で梅忠寿司。あれ?こりゃ何と、梅原龍三郎の先生が浅井忠。梅原と忠をとってつけたような人にここで会うなんて。「梅原龍三郎の絵を見て感嘆してきた」と言うと梅忠さん「そうだなありゃ良かった、オッパイが大きかった」だと!


〔写真〕東京・多磨霊園にある梅原龍三郎さんのお墓

神田お玉ガ池の親分若死に大川橋蔵

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

“男だったら 一つにかける  かけてもつれた 謎を解く
 誰が呼んだか 誰が呼んだか 銭形平次 花のお江戸は八百八丁
 今日もきめ手の 今日もきめ手の   銭が飛ぶ”


テレビで放映された銭形平次の主題歌は舟木一夫が歌って、主人公の平次は大川橋蔵が颯爽たる姿を見せていた。どんなに画面で悪人めらをバタバタやっつける銭形の親分も病気にだけは負けてしまうのである。昭和58年9月頃から体調を崩して入退院を繰り返しながらテレビの「銭形平次」を演じていた。実に11年の長きにわたったのである。


テレビだけでなく東京と大阪で舞台公演をしたりして、少しぐらいの事では休まないのが命取りになってしまうのだ。逸見政孝さん、渥美清さんなどそのいい例である。その点ヒマをもてあまして外国旅行したり野球ばかりしているボクは長生きできますかね。橋蔵さんの病名は結腸ガンで肝臓にも転移していた。本人に伏せていたというが「俺は自分の病気は知ってるよ」と言ってたという。そしてお医者さんに「大酒を飲む訳でなく、煙草も吸わず食事に気を遣って、いつもおなかに健康帯を巻いていた私が、何でこんな病気になるんですかねえ」と口惜しさをもらしていたそうな。


1929年(昭和4)4月9日に東京で生まれた。そして1935年(昭和10)には市川男女丸の芸名で初舞台を踏む。1941年(昭和16)に六代目菊五郎の養子となって44年に大川橋蔵を襲名した。55年に東映に入社して「笛吹若武者」で銀幕デビュー。この時の共演が美空ひばりと大友柳太郎であった。橋蔵は翌年には「若さま侍捕物帖」に早くも主演し大好評。そして59年には「新吾十番勝負」に出演しこれも当たり役となった。66年(昭和41)にテレビ時代劇の「銭形平次」が始まってここに確たる地位を築いたのだ。67年には歌舞伎座で第1回「大川橋蔵公演」が華やかに幕をあけた。


こうして映画にテレビに引っ張りダコとなりこれからが楽しみという時に逝ってしまうとはね。「銭形平次」はギネス・ブックでテレビの1時間番組世界最長出演と認められたが、フジテレビのチャンネル数が8で水曜の午後8時から放送されたので888回をもって終了する事になったんだって。


勧善懲悪の時代劇は「水戸黄門」や「大岡越前守」もそうだが、日本人全部に共通する精神である。イヤ、そうあって欲しい。なのに最近は罪のない幼な児を平気で殺す親や、ホームレスの気の毒なオジサンを撲り殺す高校生。サリン事件、通り魔、無差別殺人はどうなっているんだ!と思わず投げ銭を取り出したが、500円はもったいないので慌てて引っ込めた。


1984年(昭和59)12月7日橋蔵は55才の若さで逝ってしまった。運命の日が近づいた時「俺の命はあと3日だ」と言ったのが12月4日で、本当に7日の午前1時29分に息を引き取ったという。ちょっと恐い話だが。


葬儀の時、未亡人となった奥様(真理子さん)は「主人はたったひとつの宝はお前だと言ってくれました。日本一の主人でした」と挨拶したのである。ウチの奥さんに俺の時にもそう言ってくれと言うと、「完全チョー悪!」だと。


〔写真〕大川橋蔵さんのお墓は東京・雑司ヶ谷霊園にある


狂歌の蜀山人は食山人 太田南畝の墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

芸名というのは落語家のように先代のものを名乗る人や、新しく生まれたものもある。漫才は大抵自分で勝手につくったものが多い。昔々亭桃太郎やトマトじゃないが上から読んでも下から読んでも同じ三笑亭笑三といった芸名は面白い。漫才でもてんや・わんや。天才・秀才。千夜・一夜。ピーチク・パーチク。ボップ・ホープ。ネオン・サインといった愉快な芸名をつけたりしているが、江戸時代の狂歌の世界もなかなかユニークなペンネームをつけている。大屋裏住。文宝堂文宝。鹿都部真顔。宿屋飯盛。俵船積。朱楽菅公。その妻で節松嫁々。元杢網とその妻智恵内子。思わず笑ってしまうようなネーミングではないか。江戸の人々はこれらの狂歌人が詠む歌に共感し、政治の不信や経済の不安やたまったストレスの解消に役立ったという。


こうした狂歌の世界でもとりわけ有名だったのは太田南畝である。寛延2年(1749)牛込(新宿区)で下級武士の子として生まれた。狂歌だからまともなヒトではないのかというとこれがご幼少の頃からオツム抜群。早くもオイラおさむらいには向かないやと漢学者の内山賀邸に師事。時に15歳であったというからしっかりしてますよ。もっともボクだって15歳でオトコになったんですがね、友人のお姉ちゃんに誘導されて。出世ならぬ出精ものがたりです。


さて、こちら南畝さん、他にも四万赤良とか蜀山人という名も用いていたし、寝惚先生とも言われた。19歳の時にはすでに知り合っていた天下の奇人、平賀源内に序文を書いて貰って「寝惚先生文集」という本を刊行している。これが思わぬ売れ行きで本人も出版社もウハウハ。石文社もしまったと思ったが後の祭り。しかし後に「おもしろお墓百話」という青空うれし先生の本を出して面目を保ったのであります。


この「寝惚」が売れて一躍文壇のスターとなった南畝君。若いから金をバンバン使って吉原などに通って遊びまくった。何の世界も一緒でチョイと有名になるとお旦那さんが付いて自分の金を使うヒマがない。うまい物食って大酒飲んでその上女遊び。糖尿病も出て来た。先輩の唐衣橘洲も同じく美食家で糖尿。エッ、あんたも? 実は私も、トウニョウ相憐れむ!


そろそろ真面目にと、23歳の時に18歳のカミさんを貰った。しかし生まれた子がすぐ亡くなったり病気になったりであまり幸せな家庭ではなかった。そこで又ぞろ女遊び、ついには遊女を身うけして女房に苦労をかけた。狂歌より女に狂ったりしちゃってネ。


世の中は酒と女が敵なり どうか敵にめぐり合いたい

なんて歌っているが、南畝ならずとも男ならみんなそんな気持ちだね。頭光なんて狂歌師もいて、

  ほととぎす  自由自在にきく里は  酒屋へ三里豆腐屋へ二里

なんて詠んでるが、今ならすぐ近くにあるコンビニで用が足りるが、のんびりした昔のいい歌ではないか。


そこで阿呆空嬉至先生も一ツ。

  馬鹿にして出した  掌の平ずばりっと  易者の図星酔いがちと醒め


蜀山人、太田南畝の墓は文京区白山の本念寺にある。


パリの日本人  荻須高徳 画伯

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

パリへ行くと必ず画家の元村平先生ご夫妻の世話になる。ショウのチケットを買っていただいたり、早朝のフリーマーケットのあるフォト・デ・バンブーへ連れて行ってもらったりする。またある時はパリから40分ほど走るオーベールの町まで行っていただき、ゴッホの墓に案内してもらった。この荻須さんの墓も生前にお付き合いのあった先生にご一緒してもらって説明していただいたので大助かりであった。


「荻須先生はとても物静かでね、誰に対しても腰が低く素晴らしい方でした」と語る元村先生も全く同様の方である。


明治34年に愛知県の千代田村(現・稲沢)に荻須センセは生まれた。大正9年に上京してそれから川端画学校で藤島武二の指導を受けた。そして東京美術学校を大正15年に卒業してパリへ渡ったのである。モーリス・ユトリロの作品に影響を受ける。


一旦は第二次大戦のために帰国するが、やはりフランスの地への憧れは捨て難く、大戦が終結するや再びパリへ渡ってついに彼の地で逝った。モンマルトルのその墓は実に奇妙で円柱が途中で折れている型。「何で?」と元村先生にお聞きしたら、志半ばにして亡くなった先生の気持ちを表しているのだとか。その朝まで筆をとっていて絵筆を洗う間もなく倒れてしまったそうな。


よく役者は舞台で死ねたら本望だと言う。だから絵筆を持ったまま亡くなられたら本望なのだろう。この時のことを話したら春日三球さんが言う。「ボクの学校の先輩がね、彼女とセックスの最中に腹上死したんですよ。あれも志半ばで死んじゃったんだから男性のシンボルが途中で折れた墓造ったらいいのかな」。何という不謹慎、何たる暴言。何という芸人らしいお言葉!!


荻須先生の墓にも下にパレットを石で造って置いてあるが、墓地を歩くと大抵の画家の墓にはそれがあるからわかり易い。奥さんは黒い石で造りたかったらしいが、やや赤味がかったこの石の方が汚れが目立たなくていいと、石屋さんに言われたのでそうしたとおっしゃったそうな。絵を描いていた時そこへ入れるサインのoguissという文字が刻まれているが、これをogisuと書くとフランス人はオギスと読まずオジュジュと読んでしまうんだと。オジュジュじゃお数珠みたいだもんね。


「荻須先生はパリの街角を好んでお画きになったんですよ。当時の市長さんでジャク・シラクって人が、荻須氏は最もパリ的な日本人とおっしゃったんですよ」と元村先生。なるほど、かつて「パリのアメリカ人」てな映画があったけど、荻須高徳は、藤田嗣治、佐伯祐三らと正しく「パリの日本人」なんだ。


帰り道入ったカフェで元村センセ。「ここでよく荻須先生にワインをご馳走になりましてね。いい方でした。うれしさんもいい人になりたかったらワインをご馳走することです」。いや元村センセはもちろん冗談でおっしゃったのです。でもボクは本当に一日お付き合いいただいたのでワインも食事もご馳走するつもりでした。なのに、ちょっとトイレへ立ったスキに、先生が支払っちゃったんです。志半ばでして!!


「ご馳走様」と腰を折りました。


〔写真〕フランス・モンマルトル墓地に眠る荻須高徳画伯

虎退治の武将 加藤清正(1562~1611)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

最近見かけなくなったが、以前はよく掛軸で、加藤清正が虎退治をしているのを床の間に掛けている家があった。20年以上も前になるが、山形県の鶴岡という所へ仕事で行った時に加藤清正の墓を撮りに行ったことがある。熊本にあってしかるべき墓が何で見当違いの鶴岡にあるのか。実は話はこうなる。


清正は永禄5年(1562)、秀吉と同じ尾張中村(名古屋市)に清忠の子として生を受けた。幼名が虎之助。3才の時に父が他界したので、5才の時、母は秀吉の母といとこであったから秀吉のもとへ預けられた。15才で元服して170石を与えられ、20才の時初陣を飾った。以後、各地に転戦してその力を発揮した。歴史上有名なのは天正11年の賤ヶ岳の合戦で、片桐且元、福島正則らとともに七本槍に数えられた。この戦いで300石を加増されて出世街道をゆく。続いて天正15年に九州遠征に行って大活躍。小西行長とふたりで半分ずつやると、肥後(熊本)の地を貰った。これでトラさん25万石になった。秀吉はサルと信長から呼ばれたが、サルとトラはウマが合ったのか秀吉が命を下し清正が戦地へ行けば大勝利。使用した槍は十文字槍という特注のもので、これを縦横無尽に振って敵をなぎ倒したのである。


文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮に14万の大軍を差し向けた。ツアーの旅行でなく戦争だよ。小西行長とともに苦戦しながらも敵を破って釜山あたりに城を築いて守備固め。ところが秀吉からすぐに日本に戻って来いとの命令。帰ってみればほめられると思ってたのが何と蟄居だなんて。実は石田光成が清正は小西のことをバカにして口汚くののしったことや、自分が豊臣であると名乗ったことや、清正の家来が明の正使からゼニを奪ったことなどを報告したため秀吉はカンカン。しかし講和を求めて来た明の副使楊サンと話は物別れ。再び朝鮮出兵となり、清正も汚名挽回と参戦した。清正が虎退治したという話はこの時できたものだろう。朝鮮で戦いが続いている最中、慶長3年(1598)8月に秀吉が死んでしまった。その死を秘して何事もなかったように日本軍は引揚げてきた。


慶長5年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった。小西や石田と合わぬ加トちゃんは徳川方にFAを宣言してついた。これがうまく当たって家康から肥後を全部貰う。そしてアッという間に51万5千石の大名となった。しかも家康のご紹介で水野忠重さんの娘をめとって徳川との関係をよくした。


この後、豊臣は滅び徳川の世となるが、一説には秀頼と家康を二条城で会見させての帰りの船の中で死んだとあるし、また一説にはソロソロ邪魔と豊臣を叩き潰してから城中へ呼び、毒マンジュウを食わせて殺したとか…。


ア、そうそう冒頭の清正の墓ですよね。死後、熊本城内に埋めてあったが、息子忠広の時にお咎めあって鶴岡へ母とともに流されてしまう。その時ソッと骨を抱いて流刑の地へ運んで誰にも明かさず隠し墓を造って供養したとか。ウソか本当か知りませんがね。警察が今は酔っ払い運転のトラ退治してます。ご用心!! 墓は東京五反田にもあるが、写真は鶴岡の天澤寺。


〔写真〕山形県鶴岡の天澤寺にある加藤清正さんのお墓

華やかな栄光 そして悲しい別れ 歌手 楠木繁夫・三原純子さん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

作詞佐藤惣之助、作曲古賀政男で日活映画「緑の地平線」の主題歌を歌ったのが楠木繁夫であった。


  何故か忘れぬ 人故に 涙かくして 踊る夜は
  濡れし瞳に すすり泣く リラの花さえ 懐かしや


楠木の芸名は当時のテイチクの商標が皇居前にある楠木正成の馬に跨った銅像だったので、古賀政男がこれにしようと名付けたものだったとか。

明治37年、四国の土佐に生まれた彼は坂本竜馬を尊敬していたという。そして斗酒尚辞せぬ酒豪であった。ボクは芸能界に入ってすぐ、昭和29年に2日間だけ茨城に旅してご一緒したが、もう声は出ず昔日の面影は無かった。今SPのレコード盤でこの曲を聴いているが実にいい。酒とするめで一杯やりながら。とにかくこの頃の歌手はあまり財テクする人は居なかったように思う。


昭和4年に「白い椿の唄」でデビューして13年の「人生劇場」までの11曲全てが古賀政男の作曲であり、その中での大ヒットが「緑の地平線」(昭和10年)と13年の「人生劇場」である。その後テイチクからビクター、コロムビアへと移り、昭和18年12月8日同じコロムビアの歌手・三原純子と結婚。この日は警戒警報のサイレンが鳴りひびく戦雲急を告げる日で、式に参列したのが作曲家の高木東六、吉田信そして古賀政男の3人だけという寂しさ。


三原純子(1920~1958)には昭和17年に出した「南から南から」という戦中にしてはほのぼのとしたヒット曲がある。同じ17年に「月の小島」という曲を歌っているが、これは「歌う狸御殿」の映画の挿入歌で、美ち奴や伊藤久男らも出ていて、実はボクがお坊っちゃん時代に映画館で観ておりますデス。旅の楽屋で伊藤久男さんにこの時の話をしたことがあって「フーン、楠木さんと一緒に酒飲んだんだけど、俺も強いけどあの人は強い。でもじっくり味わって飲む酒じゃねえんだな。ガバッ、ガバッとね。俺はチョッピリ味わいながらガバッ、ガバッ 」。あまり変わらないよね。


この「狸御殿」では楠木繁夫さんがソロで「どうじゃね元気かね」というのを歌っているが、この方がコミカルで観客ものってウケていた。


戦後混乱の世の中で誰もが生きていくのがやっとだった。かって大ヒットを飛ばした楠木繁夫は深酒がたたってノドをやられてしまった上に思うように仕事も無い。悪いことに妻の三原純子さんが肺病になってしまった。東京での療養はおぼつかなく、郷里の岐阜県高山の方へ引っ込んでしまった。「ハイ、さようなら」なんてシャレの言える状態じゃない。


戦時歌謡として昭和19年5月にコロムビアから出した「轟沈」という映画の主題歌を歌った彼が、自分で轟沈してしまうとは何とも切なく悲しいことである。誰一人相談する相手もないまま酒に溺れての日々であった。


昭和31年の暮れのことである。新宿牛込の楠木家…。愛犬が物置小屋の前で妙に悲しげに声を立てていた。そして中では梁に渡した縄で首を吊っている楠木さんの無惨な姿があった。


〔写真〕岐阜・高山の法華寺にあるお墓におふたりは眠る

直木賞作家 胡桃沢耕史 直木三十五と並んで永眠

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

平成3年(1991)東京晴海港を出航した新さくら丸は天津に向かった。ゆたか倶楽部という所で企画した船の旅で、ボクと春日三球サンとで往き帰りに2回ずつ漫才を演った。


この旅に講師として作家の胡桃沢耕史さんも同行。氏とは本名の清水正二郎で盛んに官能小説を書いていた頃に何回か会っていたが、今回は畏れ多くも直木賞をとった大センセになっていた。


胡桃沢耕史さんは「大正14年4月20日に東京の向島で9人兄弟の長男として生まれたけど、親父がダメ親父だったから苦労したよ」と語る。


―事業に失敗してイモばかり食わされてさ、俺がエロ小説書いてゼニがパカパカ入ってくると「金くれ」って来るんだよ。金がいくら入ったって三流作家じゃ仕様がないよ。俺と同じにスタート台に立ったモンが皆出世してさ。司馬遼太郎なんかトップスターになっちゃって口惜しいの何の。よし、俺だって負けちゃおれん、今から頑張って直木賞とってやる。そして一流の作家はみな鎌倉に住んでる。必ず目的達成と心に誓ってさ。版権を全部売っちゃって3000万円つくったよ。それをポンと2つに割って女房に、これで子供を育てながら10年間食いつないでくれ。俺は10年間世界をまわって勉強してくるからと言ったら、うれしさん家内は何と言ったと思う。「行かないで下さい…?」。そうじゃないよ。暫くその金見てたけど、「これで10年待ってればいいんですか。で11年目からはどうします?」って言いやがんの―。


話は続く…ホンダのバイクで世界中まわったんだけどある国の道端でヒッチハイクしている若い女に会ってね。その娘を乗せて走りまわった時は楽しかったな。ドイツの娘でスタイルはいい顔はいい。胸なんざ…。ところが国境で検問にあってさ。その時バイクの泥よけの所に覚醒剤の粉が隠されているのがわかってね。イヤもちろん俺じゃない。その娘が持ってて慌てて隠したんだな。2人が別々の所に連れて行かれて厳しく取り調べられたよ。でも俺は全く知らないから正直に知らぬと言ったさ。暗い穴ぐらに放り込まれて1日かたいパン1個だ。時々バアーンと銃声が聞こえて処刑するんだ。明日は我身かと毎日そりゃ恐ろしかったね。でもある日突然釈放されてね、その娘があの人は全く関係ないと証言してくれてね。「じゃ、これから何があってもそれに比べりゃ恐ろしくないですね」「そうさ矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ!」


その船旅から戻った次の年(平成4年)に鎌倉の自宅へファンだと名乗る女性が花を持って現れ、いきなり柳葉包丁で2カ所刺された。幸い命はとりとめたが、その2年後の平成6年(1994)3月22日に多臓器不全でなくなった。68才で遅咲きの作家は散ったが、崇拝していた直木三十五の墓の隣に、生前自分の墓を建てておいたので今はそこに安らかに眠っている。


昭和30年に「壮士再び帰らず」でオール読物新人杯。同58年にシベリア抑留生活を描いた「黒パン俘虜記」で狙ってた直木賞をとり、その後も「飛んでる警視」シリーズをヒットさせた。今は天国で好きなバイクで飛んでるのか。


〔写真〕横浜市金沢区の長昌寺にある胡桃沢耕史さんのお墓

日本の夜明けから 歴史と共に歩んだ西園寺公望公

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ボクの母は現在(平成15年)94才でして。明治42年の生まれですから大正、昭和、平成と4つの世代を生きてきて今でも元気なのであります。自分で歩けるし耳も遠くない。筆を持たせれば書道五段。詩吟も七段。ただし階段はもう勘弁してほしいそうです。


多磨霊園へ15年程前に墓の写真を撮りに行った時オフクロを一緒に連れて行った。ちょうど桜の花が満開で霊園の前の道がズッと甲州街道に出るまで見事な桜並木。「ウワー、きれいだね。今日は有名な方や偉人のお墓を見られたし、こんな見事な桜を見せて貰ったんだから大満足。これでいつ死んでもいいよ」と言ってから益々元気。基本的に嘘つきなのかも。


そのおふくろさんよりもっと凄いのが西園寺公望さん。嘉永2年に生まれてから安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と実に8つの年号を生き抜いたのでありますから。そして昭和15年11月24日にお亡くなりになった時の朝日新聞を図書館で読んで、アリャー昔の新聞て格調高すぎて読むのに疲れるわと思いましたよ。チョイとここにその記事をご紹介すると、『元老正二位大勲位公爵西園寺公望氏は二四日午後九時五四分静岡県興津町の別邸坐漁荘で薨去した、享年九十二。公は唯一人の元老重臣中の重臣として隠然政界に重きをなし、齢九十二閑雲野鶴の境涯にありながら政変毎に依然大きく浮かび上がってその光芒赫灼まさに国宝的存在であった』。どうです、死亡じゃなくて薨去ですよ。閑雲野鶴なんて聞いた事あります? ボクもどこかでこれを使ってやろうと思っておりますが。


嘉永2年に従一位徳大寺公純の二男として京都で生まれ、名門西園寺師季の家督を継いだ。安政4年僅か9才で元服昇殿して、右近衛少将に任ぜられたんだって。ショーショーご免なさいだ。普通の子はメンコをしコマをまわしチャンバラごっこだが少将は違うね。日本外史を読み武芸に励み同志と王政復古を唱えて日本の将来に目を向けたんだって。ボクらは近所のねえちゃんのお尻に目を向けたよ。


岩倉具視の力添えもあって戊辰の役には20才前だってえのに権中納言になっちゃって、山陰道撫史とかいって奥羽征討越後国総督として綿の旗をひるがえしてピーヒャラドンドンドン。その後10年程フランスへ留学したりしてたんだからその時パリジェンヌとも何かあったんじゃ?と下司の勘ぐり。


伊藤博文が西園寺サンをいつも連れて歩くという信頼度の厚さ。明治18年第一次伊藤内閣の時に駐墺公使。第二次の時は文相となり、のち外相も兼務したってんだからいかに有能かがわかる。そして第三次伊藤内閣でも文相を務め文教の改革に大きく貢献し、明治33年第四次内閣には枢密院議長に任ぜられ、34年伊藤首相辞表のあとを受けて臨時内閣総理大臣も兼任した。そして39年に第一次西園寺内閣を組織し、44年に桂太郎の後また第二次西園寺内閣を組織したのである。


偉大な政治家で英語、フランス語を話しいつも洗練された身のこなしであった西園寺サンにボクの母は年、イヤ齢だけは勝っているネ。この分では当分薨去もなし。


西園寺公望さんのお墓は東京・多磨霊園にある。

サイパンの戦場跡に建つ戦死者の墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

茨城県つくば市の塚越石材(塚越正章社長)の奥さんは肝っ玉かあちゃん。何でも言いたい事はズバズバ。3年程前に、通りがかりに寄ったら、今帰ってくると連絡があったから待っててくれと言う。そこへ社長に韓国の女性から電話が入った。「正章さん居ますか」「ナニ、正章居ねえよ」「社長さんお願いしますよ」「社長さん死んだよ」ガチャン。「韓国だの中国だのって全く何の仕事に行ってるんだかな」。そこへ「ただいまー」と正章氏。「ホレ幽霊が帰ってきたぞ」。


その石材店の皆さんと2003年1月4日からサイパンへ行って来た。この島ぐらい海を眺めてるか泳ぐか船遊びするか以外に何もする事のない島も珍しい。免税店と少々のショッピング店を除いては部屋でゴロゴロ。これ程のんびりした平和な島も1944年(昭和19)には正に惨劇の島であったのだ。


6月15日、7隻の米海軍戦艦と11隻の駆逐艦が上陸作戦開始2日前にサイパン、テニアン両島を砲撃し、16及び5インチ砲弾1万5000発と各種砲弾16万5000発を打ち込んだ。さらに2日後、戦艦8隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦5隻が合流し両島はムチャクチャな艦砲射撃にあった。建物は一瞬にして無くなり、岩石や鉄片が街路樹や車を砕いた。米軍の戦死者もガダルカナルでの2倍で、サイパンに上陸した兵員7万1034名の内、3100名が戦死し負傷行方不明者が1万3100名を数えたのである。


一方、日本の守備隊は3万1629名の内2万9500名が戦死して、2100名が捕虜として生き残っただけ。この生き残った兵士の1人が前出の塚越夫人和子さんの叔父さん。「なあ和子、飛んでくる弾丸、砲丸が俺に当たらずにこうして無事日本に帰れたのはこのお蔭だよ」と何やら汚いハンカチより小さい布切れ。そこに墨で『必勝! 万歳。無事帰還。我を守り給え睾丸の神』と書かれていた。「叔父さんこれ何だい?」と聞いたら「これか、これは俺の越中褌の切れっ端よ。な、だから大事な所をいつも守ってくれていたから睾丸の神」。ワー汚ねえと放り投げると「コラ、もったいない事するんじゃねえ。これを毎日拝んでいたから俺は助かったんだ。これを大切にしまっておけ。捨てたらバチが当たるからな。もしお前に何か困ったり大病したりする事があったら、これを拝めば必ずよくなるから」。


余り馬鹿々々しいので捨てようかと思ったがやはりバチという所が気になる。そこで紙にくるんで蔵の中の古ダンスの引き出しに入れておいた。それから幾星霜。叔父さんはとうの昔に死に褌の神様の事も忘れていた。昭和45年和子さん悪性の胃癌にかかり大手術という事になった。ハッと思い出したのが例の布。探し出して病院へ持参してズーッと握りしめて祈った。治ったのである。睾丸の布が抗ガン剤になって。


そして今回、うれしが主催した岡晴夫の三十三回忌追想記念パーティー(2002年5月椿山荘)に来て倒れ、悪性の脳腫瘍と診断。これまた大手術で絶対危ないと言われたのが奇跡の回復。そこで御礼のサイパン旅行。バンザイ崖から命を救ってくれた布を石にくるんで投げてありがとうございました。


「アッ、今度何かあったら困るよ。うれしさんのパンティおくれ!」


【写真】=サイパン島に建つ戦死者慰霊の碑

小指の思い出 浪曲の相模太郎師匠(1898~1972)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

浅草観音堂の裏、つまり言問通りに面した所に5656(ゴロゴロ)会館なる建物がある。雷おこしのビルだからゴロゴロ。そしてこの5階で毎月1日から5日まで寄席を催しているのだが、この席亭を仕切っているのが浪曲漫才で漫才協団常任理事のさがみ三太さん(相棒は良太さん)。今は亡き浪曲華やかなりし頃の人気浪曲家相模太郎は三太さんの師匠。師匠のお墓どこにあるのか知りませんかねと聞いたら、ずいぶん昔に行ったきりで気になっているので一緒に参りましょうとご夫妻で案内してくれた。


渋谷区広尾町にある祐浩寺は大通りにまるでお寺とは想像もつかぬ変わったビルで建っていた。1階には何軒かのテナントも入っているという…名も祐浩寺(ゆうこうじ)だから有効に使ってる訳だ。墓がなかなかわからない。そこでチャイムを鳴らして案内してもらって墓地へ行った。「お久し振りです。お元気ですか」と三太サン。元気な訳ないでしょ、とうの昔に亡くなってるんだから。だから芸人はイヤ!


三太サンが16才の時に弟子入り。ある日チンのピラというやからと大立回り。相手もケガさせたが自分の手もかなり痛めた。警察から連絡あって駆けつけた師匠。ヤレこれで帰れると思ったら「こんな奴2、3日放り込んでおいて下さい」。アリャー何という冷たさ。相模じゃなくて相模湖みたいじゃん。昔は旅から旅のドサまわり。ある時、出演時間が迫って師匠の着替え。オイ足袋よこせと言われてカバンから出すとこれが右と右。「馬鹿。右と右でどうやって履くんだ」。何とかせねばと窮余の一策。指を突っ込んでクルリと中をひっくり返してハイどうぞ。これには太郎師匠も呆れて怒るのも忘れた。とにかく遠くだからわかるまいと舞台へ。演し物はもちろん十八番の灰神楽三太郎。


「毎度皆様お馴染みのあの次郎長に乾分はあるが強いのばっかりゃ揃っちゃいない。中にゃ間抜けな奴もある。ドジで間抜けでデタラメでおまけに寝坊でオッチョコチョイ…」。


まるで自分の事をやられているようで三太サン居たたまれなかったとか。


その三太サンに負けず劣らずドジを踏んだのがこのボクちゃん。小河内村(ダムで水没)に行って小学校の講堂でのお仕事。合間の時間に楽屋でしゃべっていて、地まわりのヤクザもんもこんな辺鄙な土地にゃ居ないよなと相模師匠。イヤこの間旅先で列車に酔っ払いの田舎ヤクザが一人乗ってきましてねとボク。それが前の席に座って、酒ねえかとか少し金寄こせなんて薄いシャツの袖から入れ墨ちらつかせてからむんですよ。ハッと気がついたら網ダナにショーの中で歌手にからむヤクザの役をするので刀(模造刀)が載せてあったのを手にして「手前もこうなりたいか」と左手の小指を折り曲げて見せたら、アッすいません。そういう人たちとは思わなかったのでと慌てて他の車両の方に逃げましてね、次の駅で停車してる時に売店でビール買ってきて窓から差し入れして帰りましたよ。「アハハ、そりゃ面白いね。実は俺も指が無いんだけどね」と手を出された時はサーッと血が引きましたネ。


ちょうど時間となりました、お粗末でした。先ずはこれまで。チョーン!!


〔写真〕東京・渋谷区の祐浩寺にある相模太郎師匠のお墓。その弟子さがみ三太さんと

情けが仇の入道 平 清盛(1118-1181)

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源氏と平家。どうも一般的に源氏の方に人気がある。しかしよーく調べてみると、どっちかというと源氏は荒くれ武者の田舎っぺで、平家の方が常識人で温和な人が集まっていたようだ。


保元の乱で後白河天皇に味方して勝利を収めた清盛は播磨守に任ぜられた。そりゃねえべと源義朝は平治元年(1159)にクーデターを起こした。しかし清盛側の巻き返しであえなく義朝は敗れる。大体、敵将の身内は全部処刑されてしまうのがこの時代の常識であるのに清盛はそうしなかった。義朝の遺児頼朝を伊豆の蛭ヶ小島に流し、今若、二若、牛若、この3人の母である常盤御前のあまりの美しさに、お前が俺と寝てくれるなら許そうと寺に預けて命を助けた。オッパイは成功の元ならぬ、失敗の因(もと)になろうとは。


これが反対に源氏だったら片っ端から殺してしまったに違いない。義朝は自分の父親と四人の弟を何のためらいもなく殺しちゃったし、義賢は甥の義平に殺され、その子木曽義仲は従兄弟の頼朝に殺された。この頼朝も自分のために活躍してくれた最大の功労者の義経まで殺してしまう。


話は平氏に戻るが、高倉天皇8才の時に即位するが、清盛の妻の妹滋子が産んだ後白河上皇の息子だから清盛は遂に皇室の親戚になってしまった。清盛はさらに承安元年(1171)次女の徳子を女御として入内させる。これが後の建礼門院である。天皇11才、徳子15才。この頃から年上の女房ってのが良かったのかね。しかし11才の旦那と15才の女房で一丁前にセックスして翌年子供が生まれたってんだからお見事! こうなると清盛の平氏一門は天下に怖いものなし。一門みな栄え、世に平氏に非ざれば人に非ずなんて言われたがその陰でアンチ平家の者も居た。


クーデターを計画した僧西光を斬り、僧俊寛、平康頼、藤原正親らを流刑にして一応治まった。しかしくすぶった火種はやがて大火となる。清盛が情けをかけて殺さずに居た源頼朝が挙兵し、次いで木曽義仲も立ち上がった。頼朝追討に向かった清盛の孫惟盛(これもり)は、富士川で水鳥の羽音にビックリして逃げ帰ってしまうというお粗末。養和元年となり清盛は病気で倒れた。高熱が続き遂に2月4日に逝った。


一般に清盛は派手好みで女好き、酒池肉林の宴会野郎と思われているが、決してそうではなかった。むしろ経ケ島(神戸港)の改修や、音戸の瀬戸の開通とか、厳島神社の造営等々たくさんの業績もあるのだ。海の上に浮かぶ社殿の美しさは今も観光の目玉になっている。宝物館には国宝、重要文化財がもの凄い数あって平氏一門の繁栄が半端じゃなかったことを証明している。中でも平氏一門の奉納である「平家納経」は圧巻で、いかにも文化水準が高かったと想像がつく。


白河法皇は中古だが新車並みだぞと平忠盛に愛妾祇園女御をプレゼント。その時すでに白河さんの子(これが清盛)が宿ってたってんだから考えてみりゃひどい話だ。だがそれがあって清盛がてんこ盛りになってトントン出世したんだからしゃあないか。


【写真】=墓は神戸の兵庫区にあるが、写真は京都・嵐山の祇王寺にある清盛の供養塔と言われる五輪塔(右)

「冬ソナ」ブーム以前にブレイクした歌手 織井茂子さん

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今や韓流ブームでウチのカミさんも甲府に居る娘もヨン様以来韓国ドラマに夢中で、何と今まで食わなかったキムチやナルムを食っちゃったりして。


しかしよーく考えてみると「冬のソナタ」なんてズーッと以前日本でヒットしたドラマとよく似てるじゃん。ホレ、「愛染かつら」や「君の名は」がソレ。実際あの「君の名は」がラジオで放送されるや、その時間帯には銭湯の女湯はカラッポになったし、岸恵子の真知子が首に巻いたエリ巻きは「真知子巻き」として大流行したのである。


この主題歌「君の名は」と「黒百合の歌」を唄ったのが織井茂子さん。格調高い歌声は作曲者古関裕而センセもたいへん気に入ったとか。


数多くの軍歌を作った古関センセ。戦後何年もたって九州のある地方から電話がきて、「私たち元戦友が毎年集まって先生のお作りになった軍歌を合唱しております。今年はこの会を作って10年になるので是非先生をお呼びして歌おうじゃないかという事に……ついてはお幾らぐらい支払いをしたらいいのでしょうか」。「ハイ、私は100万円ほど頂いておりますが」。少々間があって、「実は90万円しか予算がございませんで」「アそうですか。でしたら90万円の方を頼んで下さい」。


いい放ったセンセも立派。ボクならプライドも何もなく二つ返事。でも一ぺんそんな事を言ってみたいネ。


ア、ところで織井さんは1926(大正15)年生まれで、何と童謡歌手でもありました。だいたい童謡歌手で大人になって成功した例はなく、安田章子の由紀さおりと増永丈夫の藤山一郎ぐらいしかいない。その織井さんは昭和22年にキングレコードから都能子の名で大人の歌手として再デビュー。そして昭和24年にコロムビアに移ってまた織井茂子に戻ったのである。


あれは昭和35年頃であったか。札幌へ向かっていた飛行機が乱気流でグラグラ。キャーッと織井さんがボクに抱きつき手を力一杯握る。そのうち少々揺れがおさまってきたら、ホレ胸がドキドキといいながら自分の胸にボクの手を持っていくのです。そのやわらかーな、チョー気持ちいい感触は今も忘れません。しかしその後に仕事で会うと、「この人あたしのオッパイさわってさ」とか「サワリ魔だから」ともちろん冗談ではありますが、言われ続けたのは、ひとえにボクの人格のなすところでありまして!


並木路子さんとトイレへ一緒に入ってお隣でチョメチョメしているアベックの様子をうかがったり、淡谷のり子さんとお風呂にご一緒して背中を流したり……。イヤ若き日のボクはそれなりにいい人生を送りましたのですねハイ。


塩まさるさんの元マネージャーであった八城幸吉氏から菊池章子さん、松島詩子さん、そして織井さんの墓が東京都の小平霊園にあると教えていただき行って来ました。冬枯れて墓地には枯れ葉が冷たく舞っていました。もうあの暖かいやわらかなお乳房はなく、冷たい石が立っているばかりでした。


霊園の入口近くで3人の女子高生が煙草を吸っていてお巡りさんに言われてましたよ、「君の名は?」って。


【写真】=東京・小平霊園に眠る織井茂子さんのお墓

永遠に歌い続けられる「リンゴの唄」の並木路子

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何曲もヒット曲があってもやがては人々から忘れられてしまうものもある。しかし1曲のヒットがその歴史上に欠くべからざる一大印象を植え付けて未来永劫に歌い続けられるものもある。並木路子サンの「リンゴの唄」は日本という国が存在する限り、毎年8月の終戦記念日にはテレビやラジオから流れてくるのだ。


昭和20年(1945)9月、松竹歌劇団出身の並木さんは松竹映画「そよ風」のヒロインに抜擢され、その主題歌「リンゴの唄」を歌ったが、これが爆発的な大ヒット。戦後歌謡曲第1号として日本歌謡史上に金字塔をうち建てたのである。


並木さんがこの「リンゴ」を歌うにあたって周囲も大変気を使った。というのは戦火の中で母に手を引かれながら逃げまわり、火の手のあまりにも早く強かったため隅田川にザンブと飛び込んだのだった。水の流れも早くしかも水深もあり、ふたりはアップアップ。「助けてー」と叫んでも皆自分の身を守るのが精一杯。とその時「早く掴まりなさい」と手をさしのべてくれた1人の男性。その手に必死にしがみついて生還した並木さん。しかし無惨にも母は大勢の人とともに流されて、ついに行方がわからなくなってしまった。

そんな辛い思い出をかかえている並木さんに明るい唄を歌わせるのは酷ではないかと心配したのだが、いざ吹込みとなると並木さんは元気に笑顔で歌ってくれた。


廃墟と化した瓦礫の中で生きる希望も失っていた人々の耳に、この「リンゴの唄」が町角からラジオに乗って流れてきて勇気を与えてくれたのだった。この唄がヒットした頃はリンゴなど人々の口に入ることはなかった。ダイヤモンドのように高値で食べるなんぞは夢の夢であった。今、リンゴは安くどこでも食べられるが、実際このリンゴから戦後の第1ページが始まったんだと感謝の念で手にしてくれる人が居なくなったのは淋しいことである。


並木路子……本名南郷庸子。大正10年(1921)東京・浅草に生まれた。幼少の頃から音楽の大好きな子であったという。昭和11年、松竹少女歌劇に入り、翌年国際劇場でデビュー。とてつもなく明るく気取らぬ人で、僕も司会者として永年お付き合いしたが一度も怒った顔を見たことがなかった。渋谷の道玄坂でスナックを経営していたが、もしかしてこうして来て下さるお客さんの中に、あの時私に手をさしのべて救ってくれた方か、その身内の人が居るのではないかと思うと、どんな方にも親切に明るく接したいのだと言っていた並木さんが、浴槽で死亡していたという悲しい知らせを受けた時のショックは今も忘れられない。


「リンゴの唄」で売れた並木さんには果物の名のついた「バナナ娘」や「パイナップルと私」といったタイトルの唄もあるが、他に「森の水車」「可愛いいスイートピー」といった唄もある。昭和26年にラジオから盛んに流れて耳にしていた三木鶏郎の作詞・作曲「ボクは特急の機関手で」も並木さんが歌っていたとは知らなかった。


昭和57年から二葉あき子さん、池真理子さんらとコロムビア5人会なるものをつくって活動していたし、昭和63年に台東区のスターの広場に映画監督の山田洋次、歌舞伎俳優の尾上菊五郎とともにサイン入り手形を収めた。また同年、長野県須坂市の市民グループからリンゴの女王の章を受けたし、平成4年には社団法人「芸団協」より芸能功労賞を受賞。日本歌手協会副会長も務め、平成6年に文化庁長官賞で表彰された。秋田県増田町や仙台にもリンゴの唄の碑があって正にリンゴひと筋の人生を全うしたのである。


東京・墨田区本所にある華嚴寺の墓前に立って線香を供え手を合わせると、軽くステップを踏みながら笑顔で歌っていた並木路子サンの人なつっこい顔が見えてきて、思わず墓石に手を当てながら「今よりもっとリンゴを好きになりますから」と約束しちゃったボクでした。


【写真】=東京・墨田区の華嚴寺にある並木路子さんのお墓

其角と俳句と破れし初恋 宝井其角(1661~1707)

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宝井其角とくりゃもちろん松尾芭蕉のお弟子さん数ある中で、まず筆頭にあがる名前である。其角は江戸に生まれ幼少の頃から頭がよく、1を聞いて10を知るどころか100の先までわかっちゃうってんだから凄い。並みの子と違う、つまり規格(其角)外だなんて言ったりして。殊に語学に通じていて今日でいうオ受験で親が心配する事なんざ何も無かったという。


松尾芭蕉に師事したのが14才で20才の頃はすでに弟子の中でもトップをいく若頭。芭蕉には10人の名だたる弟子がいてこれを芭門十哲と呼んだ。宝井其角、向井去来、杉山杉風、越智越人、内藤丈草、服部嵐雪、各務支孝、立花北枝、志田野坡、森川許六の10人を指していう。しかしこの他にこれ以上の弟子がたくさんいたのだから中には面白くない者もいた筈だ。内藤鳴雪が十哲の画賛にチョイと歌で皮肉って、

“このまどる凡兆の居ぬ寒さ哉”

と詠んでいるのでもわかる。


其角は性格が明るく豪放磊落。多少ちゃらんぽらんな所もあったがやる時はやったし、人を引っ張る力は持っていた。大酒飲みであったらしい。規格外…さっき言ったよ。

“五月雨の雲も休むか法の声”

“からかさに塒かさふよぬれ燕”

“土手の馬くはんと無下に菜摘むかな”

“山里は人をあられの花見かな”

“風ふかぬ森のしづくやかんこ鳥”

以上、もちろん宝井其角師匠サマの作品だが、

“夕虹に開閉橋の雫して”

“夕立来と沖舟しきり漕げる見ゆ”

“スタジオと雲と真白し夏来る”

“雨ついて着く急行や夏灯し”

“梅青し燈台官舎へ経急に”

“落葉山ここに展けて温泉宿かな”

と、これは若き日の青空師匠の作品でありますが、実は少年時代、近所に俳句の宗匠が居りましてね、そこへチョイチョイ行ってるうちに、大人達に交っていつしか少年は五・七・五とやるようになったんでありますよ。線香を半分に折って火をつけて、それが無くなるまで五十句つくらねばならぬというのをやったお蔭で難しい字や花の名などをたくさん覚えたんです。小学生の頃に馬酔木をあしびと教わり、子子はボウフリ(一名ボウフラ)。アッ、近所でボウフリのお父さんをもつ少女が居ましてね。つまり指揮者のお嬢さんですよ。この子に初恋のボクは自分の口に入れるのをその娘に渡したお菓子の数々。そしてある日俳句で送ったラブレター。

“春かすむ夕べに匂う百合の花”

つまり、その娘の名前が百合子チャン。すると次の日に百合チャンが紙切れをソッとボクに渡してくれました。胸ドキンコで人目に隠れてその折りたたんだ紙を広げてみました。そこには百合ちゃんのお母さんからたった一行。

「うちの百合子に近づかないで下さい」

何たるむごさ何たる空しさ。少年の心は深く傷つきました。今さら菓子返せなんて言えますか。俳句もやめましたよ。そのボクに今は美川憲一の司会をしている弟子がいて、名前が青空ハイク。

其角の墓は世田谷の烏山にもあるが、写真は神奈川県伊勢原市の上行寺のもの。

94歳まで歌い続けた 塩まさるさん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

最近の歌謡ショーは形態が変わって司会者はステージに出ず陰マイクでナレーションをし、たまに出れば主たる仕事はインタビュー。以前は司会者の名文句にのせて前奏が入り、そのいい雰囲気のままに歌うのが常であった。例えば“湯の香いざよう温泉の町に赤い椿の花咲けば伊豆はやさしき恋の里”「湯の町エレジー」ですってな具合に。それが最近は歌手が自分でしゃべって司会者の領域を侵し、本業の唄を極度にへらして楽をしているのだ。


司会の名人はかつては数多くいた。しかし最近の司会者でいいシャベリをする者にまったくと言っていいほど会わない。だが女性の歌手で自らがナレーションをしてこれは凄いと観客をうならせるヒトがいる。三枝万祐という歌手で殊に戦時歌謡や軍歌のナレーションは当時の緊迫した国家情勢を瞬時に理解させ、最大の盛り上がりをみせて歌に導入するという素晴らしいシャベリである。


昭和12年9月にキングレコードから塩まさるさんはデビューした。早大商科を出て千葉鉄道局に勤めていたという異色。鉄道の時の月給が85円で、キングの専属料が350円というのだから名前は塩でも砂糖ぐらい甘い汁だ。そのデビュー曲の「軍国子守唄」は大ヒット。そして翌13年に出した「母子船頭唄」も売れたので歌謡路線のレールを順調に走ったのである。ただ軍国時代であったため、「パーマネントはよしましょう」の標語や、落語、漫才などの芸人も戦地に「わらわし隊」(荒鷲隊)の名で戦地慰問。しかし塩さん歌が売れても贅沢は敵だ!


昭和14年無敵横綱の双葉山が安芸の海によってついに69連勝でストップ。この年キングからテイチクに移籍した塩さんは大ヒット曲「九段の母」を世に出した。平成9年(1997)の日本レコード大賞功労賞を受賞した塩さんは94歳まで現役としてステージに立ち、平成15年、96歳で世を去った。何回も訪れその山間の地を気に入ったご本人の希望通り、信州の浪合村にある堯翁院に永眠。


今年9月にはこの堯翁院の寺澤善周住職やマネージャーを務めた八代幸吉氏の盡力によって戦時歌謡史の公演が企画され、前出の三枝万祐さんの熱演が観られるのだ。この人のナレーションで静かに眠っている塩まさるさんは目を覚ましその魂は会場に飛んでいくに違いない。かくいう私めも今や万祐さんのステージにハマっていて、その日は入場料持って飛んでいくのでありますよ。


【写真】 長野県浪合村の堯翁院にある塩まさるさんのお墓

タクアンの創始者 沢庵和尚

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どんなに食文化が進んでも、どんなに高級な食事をしても最後はやっぱり香の物が欲しい。白菜の漬物よし、ナス・キュウリもいい。だが大根を漬けたあのタクアンのパリパリ音を立てて食べるのが日本の味なのだ。このタクアンの創始者が高僧沢庵和尚。東京の品川にある東海寺の末寺 〝春雨寺〟 には、デッカイ漬け物石を乗せた墓がある。


但馬(兵庫県)に武士の子として生まれたが10才の時、唱念寺という寺の小僧になった。19才の時に京都に行って紫野の大徳寺に入って名を宗彭とつけられた。この寺は信長や秀吉も信者だったくらいだから有名で、近隣のお金持ちもたくさん集まってきて坊サンも派手々々。まるで貴族のように暮らしている。


これじゃ僧本来の修業は出来んよと宗彭君は飛び出した。我が道を往く! 堺の小さな庵にこもっている地味な名僧古鏡禅師に弟子入りを申し込んだが「駄目です」と断られてしまう。近くに大安寺という寺がありここの文西和尚にお願いして学問をした。暫くして古鏡からおいでと許しが出て入門。慶長9年8月、よくぞ修業したと師から 〝沢庵〟 という道号を与えられたのである。その後は順風満帆、トントン拍子で本山の大徳寺に入寺。百五十三世の住職となった。ところが沢庵、何とたったの3日でヤーメタと最高位の地位を捨てちゃったのだ。3日ですよ、アー三日坊主ってのはこれから始まったんですかねえ。


この後、大徳寺の坊サンが幕府の命で大量にクビにされてしまうという事件が起こった。それを沢庵が不当であると幕府に抗議したため、上ノ山(山形県)へ飛ばされてしまう。流人とは名ばかりで高名なお坊さんが来たと土岐山城守は流人ではなく最高のお客さんとしてもてなした。侍達はこぞって教えを乞い、百姓達は野菜、大根をドンドン持ってきた。その数あまりに多く大根なんざしなびちゃう。そこでこれを塩で漬けたりぬかでつけたりして保存して食べたがこれが抜群に美味い。侍や村人に食わせたらこんなバカウマな物食ったことない。村おこしに大々的にコマーシャルうって宣伝しようかという騒ぎ。そうこうするうちに寛永9年正月に2代秀忠が死去。大赦となって再び江戸へと戻る事になった。峠で村人は大根振って別れを惜しんだ。


江戸では柳生但馬守が首を長くして待っていた。3代将軍家光の剣道指南役となれたのはこの沢庵の口利きがあればこそである。家光も噂に高い沢庵に是非会ってみたいと言い、ある日ある時ご対面。少しトークしただけで家光すっかり沢庵の人柄に惚れてしまった。以後チョイチョイお城へ呼ばれて行く。


家光はいつまでも沢庵に江戸に居て貰いたいと思い、新しい寺を造って住むよう言ったが故郷の但馬へ戻ってひっそり暮らしたいと断った。だが1年ばかり旅に出て戻って来たら品川に5万坪近い土地に立派な寺ができていて、もうここに暮らすより仕様がない。羨ましい話。東海寺と名付けて開山第一世となったのである。家光がこの寺へ時折出かけてくる。その時、例の漬け物を出したらショーグンがバツグンと言って誉めた。「以後これを沢庵漬けと呼べ」。


正保2年2月11日、73才で世を去った。


【写真】東京・品川の東海寺にある漬け物石をのせた沢庵和尚のお墓

山椒は小粒で大物浪曲家 三代目 玉川勝太郎

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“利根の川風袂に入れて月に竿さす…”

とはじまるあの「天保水滸伝」は二代目玉川勝太郎。三代目はもちろんお家芸の水滸伝もやったが「国定忠治」もの等を得意とした。この三代目に入門したのが牧師のコスチュームで特異なスタイルの漫談で売れたイエス玉川。玉川良一の紹介でその門を叩いたが出てきた本人を見てこれが今日から自分の兄弟子になる人?と思った。小さくて幼な顔の残ってる勝太郎さんを二十数年前に初めて見た人は、これが三代目とはすぐ判断出来なかったろう。これから浅草へ行く所だからついて来いと言われ、そこへ行って三代目に紹介されるものと思ったという。


ところがサテライトスタジオで歌の番組に着物に半纏をひっかけた先刻の小さい人が歌ってる。アレ? 襟の所に三代目勝太郎と名前が入っているぞ。アリャリャ、この人が本物の勝太郎だ! この勝太郎のマネージャーがかつては浪曲師であった寿々木米吉サン。ド近眼でラムネ瓶の底のような眼鏡をかけている。ある日浅草の仲見世商店街で買物。探す店がわからず立っていた女の人にその店を尋ねたが返事をしない。ヒトが丁寧に聞いてるのに返事ぐらいしろと怒鳴った。その店の主人が出てきて「あのう、それマネキン人形ですけど」。


雪の札幌へ飛んだ米吉サン、外へ出ようとしたらガツーンと何かに当たってひっくり返った。ガラスの大きなドアがまっすぐにこちら向きで開いてたのへまともに顔が当たりメガネは割れる、顔は切れて血が流れる。その頃ドアは人が近づくと手前に開いたのだ。ギャンギャンほえて怒り狂った米吉サンに職員平謝りでメガネの代金と治療代を支払った。それからすぐにドアが横へ開くよう改善されたのである。


一方、弟子入りしたイエス玉川(玉川勝美)は二代目勝太郎の世話係。下の始末もやらされこれも修業か、ウンがねえなと思った。ビニールで手をくるんで始末してたが間に合わない。とうとう手でクソをつかんで…。来る日も来る日もクソまみれ。師匠勝太郎とその仲間が麻雀してるその卓に、紙に包んだクソを叩きつけて「ヤメた! やってられるか!」。勝太郎が何をこのヤローと立ち上がった。仲間のひとりがマアマアと二人を分けた。もうひとりが立ち上がって「ちょうど時間となりました。まずはこれまで…」と浪曲調で収まったという。


二代目は身体が大きいので、イエスが抱えてやっと風呂へ入れていた。大きくて深い風呂だった。石鹸が無かったので持ってくるまでと、板を渡してオジイちゃんをそれに座らせておいた。戻って来たら姿が無い。アレ? ひとりで歩けたのかと探したが居ない、ア、もしかしてと慌てて風呂に戻ったら果たして大師匠中でグッタリ。危うく勝太郎が土左衛門になる所だった。


三代目が後を継いだのが東京オリンピックの年、昭和39年の時。昭和44年から始まった日本テレビの青島のワイドショー「人間シリーズ」のレギュラーで人気を得た。これに取り上げられるのは特別の人物で、ちなみに青空うれしサンは二度取り上げられている。ネ、大した番組でしょ。


墓は上野の寛永寺墓地で、写真はイエス様が撮影。

水道の恩人 玉川兄弟

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

人間が生きていく上で絶対欠かせないものは何だとある中学校で先生が聞いたら、ほとんどの子がお金と答えたそうな。なるほど現代の子ならそう答えるのも当たり前だし、決して間違ってはいない。だがその前に水と空気が無かったら生きられまい。空気は自然に吸えるが水はそうはいかない。


だから徳川家康が江戸にお引越しをなさる時、1番心配したのがこの水であった。江戸城に入る前にプランを立てすぐに神田上水を作ったもののこれは規模が小さくて江戸の庶民に行き渡らない。そこにきて不動産屋や土地ブローカーが今買っておかなきゃ損だよ。江戸は今に日本一の繁栄をみるよ…てな事言ってドンドン人口を増やすからたまらない。家康じいさん何とかせねばと老中松平伊豆守(水のカミ)に命じて対策を依頼する。そこで清流の多摩川の水をひくのがいいと決断してこの川の水理に詳しい者を探した。


その結果、西多摩の福生に住む庄屋の福多長兵衛に白羽の矢を立てた。ところが長さん年寄りすぎてワシゃ駄目だと、息子庄右衛門と清右衛門に託した。兄弟は江戸の人々を救うためならとドスンと胸を叩いて引受けた。


時に応永2年(1653)の事で予算の六千両が下げ渡された。多摩川の水を羽村地区から引く事になり、四谷大木戸までの間の工事が始まった。大変な難工事を夜も寝ずの交替で工事。しかし六千両という大金も高井戸辺で資金切れ。幕府にお金下さいと言ったが立替えておけとおっしゃる。玉川兄弟は吉田兄弟やみちのく兄弟と違って歌ったり三味線ひいて稼げない。仕方なく自分達の家をうっぱらって三千両の金をつくったっていうんだから並みの偉さじゃないね。


昭和6年に帝劇でこの兄弟を扱った歌舞伎が上演された。人足が兄弟に金をくれなきゃもう仕事しねえや。サア金を出せとからんでいるところへ通りかかった按摩サン。検校になろうとして貯めた金をこの兄弟に上げてしまう。人生意気に感ずってヤツだ。兄弟はその三百両のお蔭で工事を進める事ができた…とまあこういう筋書きですがね。


とにかく水道は完成して幕府も市民も大喜び。幕府はさらに半蔵門から吹上御苑までの工事を命じ、これも兄弟やり遂げた。キレイな水が吹き上げるのを見て吹上御苑の名がつけられたのである。以後玉川姓を名乗るよう言われたのだ。


その後も幕府は2人に上水の修理や管理を頼んだが、立替えている三千両チョーダイと言うと、一応請求書を送ってくれ後で振り込むから…。管理するも修理するも費用が掛かりますよと言うと幕府もしっかりしている。大名はその禄高に応じて、一般の武士はそれなりに、そして町民たちは家の間口一間に幾らと定めて水料金を取り立てるよう決めた。これが現今の水道料金の始まりである。


浪曲の三代目玉川勝太郎さんの弟子玉川勝美(イエス玉川)サンが舞台で、今皆さんが毎日飲んでいる水は私のご先祖玉川兄弟が苦労して…とシャレで言ったら寄席にたまたま水道局のお偉いさんが居て、楽屋へきて是非ウチでご講演を!


墓は台東区の盛徳寺にある

アトムやレオでお馴染みの手塚治虫センセ巣鴨に眠る

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

「千と千尋の……」でもわかるように今や日本のアニメは世界に冠たるものである。宮本武蔵の五輪の書や、古事記、純文学と違って漫画の本やアニメの映画は誰でもわかるという最大の利点がある。


手塚センセの作品も数ある中で先ず誰もがファンであったのはあの「鉄腕アトム」に違いない。手塚センセとボクには幾つかの共通点がある。先ず若い女性が大好きだという事。虫プロで社員を採用する時は必ずセンセが立会ったとサ。だから虫プロの女性社員は美人が多かったというお噂。そしてオシャレだったというからそれも似てるじゃん。その上クモが大嫌いという。ボクもクモが嫌いだから蟹も姿そのままで出てくると駄目。酒と煙草をあまりやらぬかわりに1日5食ペロリとこれも似ている。ところがまったく反対というのが、トイレが長くて2時間も座り込んでいる時もあるとか。ウン勢が良くなるんですかねえ。


あーそれから仕事場の冷蔵庫にはなぜかゴキブリホイホイが入っていたという。ゴキブリと聞いただけで気分悪くなるボクはとてもついていけませんねえ。それに聞くところによると「ジャングル大帝」のレオは西武ライオンズのトレードマークとなっているが、あのレオの使用料が約3000万円だなんて口惜しくて羨ましくてハラが立つよ。ああ何でボクは才能無く無駄に人生を送ってるのか。


センセは1928年(昭和3)大阪府豊中に生まれ治と命名された。1938年(昭和13)頃、昆虫採集に夢中になって、平山修次郎著の「原色千種昆蟲図譜」を見てオサムシという虫がいるのを知り手塚治虫というペンネームにした。1946年(昭和21)にデビュー作の四コマ漫画「マアチャンの日記」の連載が「少年国民新聞」(後の毎日小学生新聞関西版)で始まった。そして1951年(昭和26)に「アトム大使」を「少年」に連載。その翌年から脇役であったアトムを主人公にして「鉄腕アトム」で長期連載された。この年に大阪大学を卒業する。1952年(昭和27)に仕事の場を東京に移し四谷に下宿。次の年に豊島区椎名町の「トキワ荘」へ引越した。「リボンの騎士」を少女クラブに連載したのもこの時である。1959年(昭和34)に岡田悦子と結婚し新居を建てた。手塚丸順調に海原に乗り出し1961年(昭和36)医学博士の学位も取得した。そして手塚治虫プロダクション動画部を設立し、翌年12月から㈱虫プロダクションとして正式に発足。1963年(昭和38)に国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」をフジテレビで放送開始し高視聴率をあげた。


1964年(昭和39)にニューヨーク世界博に行った時、ウォルト・ディズニー氏と会って大変感激したという。大分以前にディズニー氏の墓の写真を撮りに行ったが、グランデールにあるフォーレストローン・メモリアルパークの墓地は広大でしかも事務所でもプライバシーの侵害になるからと教えてくれなかった。ここにはハンフリー・ボガードやエロール・フリン、クラーク・ゲーブル等たくさんの俳優達が眠っているのに残念でならない。


数々の賞を受賞した手塚センセ。アトムやレオのように強くたくましくもっともっと長生きして欲しかったのに1989年(平成元年)2月9日胃癌のため死去。享年60才。墓は豊島区西巣鴨の総禅寺に。

ポンコツおやじ。チンコロ姐ちゃんの富永一朗先生の円型墓

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

写真家であり日本芸術出版社社長でもある星野小麿センセは、『AMATERAS』という太陽や海、空、雲、夕陽に題材をとった素晴らしい写真集を刊行して話題を呼んでいる高名な方。その小麿センセからのお電話…「モシモシうれしさん、うれしくなるお話でして。椿山荘であんたがやる岡晴夫三十三回忌追想ディナーショーにね、漫画家の富永先生が行きたいと言われてね」「エッ、あの富永一朗先生ですか?」「そう、先生はね岡晴夫さんの歌大好きなんですって」。


平成14年5月23日、ずうずうしくも厚かましくも天下の岡晴夫の歌を20数曲も歌いましたよ、世間の迷惑もかえりみず。そしてホントにおいで頂きました富永一朗先生! 「チンコロ姐ちゃん」大ファンのボクはもう大感激でありました。


以前、巣鴨近辺のお寺や霊園をまわって写真を撮っていて、この富永先生の心和むやわらかな感じの墓石をパチリとやっておいたので、PARTⅢ(『青空うれしのおもしろお墓102話PARTⅢ』小社刊)の中に錦上花を添えて頂くべく星野センセからお願いして頂いたら心より快諾して下さったのであります。尚ご自筆のお手紙と略歴を頂けたのでそのまま載せて頂く事に…。


……墓は10数年前すがも平和霊苑の鎮魂の碑に原画を描いたお礼に建ててくれたものです。平和、円満を願って円型にしました。本院は大分庄内町にあって、そこに吊鐘(しあわせの鐘)を寄進しまして毎年暮れに鐘きに行きます。私の墓のすぐ後ろに遠山金四郎、千葉周作の墓もあります。(本念寺)


◎ライフワーク…昭和58年から限定本の漫画集を自費出版して(日本芸術出版社)今も描き続けています。『一朗ミステリー』『一朗忍者考』『一朗魔女抄』『一朗夢幻抄』『一朗鬼千里』『一朗河童抄』『一朗サスペンス』『一朗女忍譜』『一朗人魚図鑑』『一朗異星人』『一朗鳳雲郷』『一朗狐狸幻郷』


◎代表作…『ポンコツおやじ』『チンコロ姐ちゃん』『せっかちねえや』


◎著書…『快老人生』『一朗歌ごよみ』『ボクの愛する糖尿病』(平成元年に糖尿病、血糖値320を宣言され、その日から20数年飲み歩いていた酒をやめ今日まで1滴も飲んでいません。かっては山手線の各駅前に1軒づつ飲む店があり、1晩に5、6軒はまわっていました。1軒目銀座で2軒目千葉市。1軒目浅草で2軒目成田。1軒目銀座で2軒目京都などのハシゴも今は夢のまた夢です。)


◎富永一朗略歴…大正14年京都市に生まれ、母の里会津田島で育ち、父の里大分県佐伯市で小学校、中学校を終え18年台湾に渡り、20年台南師範学校を卒業。33年杉浦幸雄氏に師事して現在に至る。漫画集『一朗忍者考』(日本芸術出版社)にて昭和61年第15回日本漫画協会賞大賞受賞。平成4年紫綬褒章受賞。平成10年勲四等旭日小綬章受賞。


◎富永一朗漫画館…大分県鶴見町。岡山県川上町。三重県亀山市安全文化村。静岡県修善寺虹の郷。山梨県道志村。福島県塙町。富山県利賀村。長野県大町市昔々亭。群馬県吾妻郡東村。世田谷美術館(所蔵)。愛媛県城川町(所蔵)。別府市美術館(所蔵)。


お墓はすがも平和霊苑に建立済み(写真)

オリンピックに出したい弓の名人 那須与一

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

誰でもが知っている民謡の稗搗き節(ひえつきぶし)だが、たいていの歌謡曲がそうであるようにこれも1番の歌詞しか知らない。ましてこれが4番まであるなんて知らないし、源氏と平家が歌詞に出てくることなんざトーンとご存知ありませんでしたね。歌詞は二行詩でまったく短い。

“庭の山椒の木に鳴る鈴かけてよ 鈴が鳴る時や出ておじゃれよ”

“鈴が鳴る時や何というて出ましよよ 胸に水くりよというて出ましよ”

と、2番までは聞いたことがあるよ。しかしその後、

“お前や平家の公達流れよ おどんま追討の那須の裔よ”

“那須の大八鶴富捨ててよ 椎葉発つ時や目に涙よ”

となって、ああこりゃ源平の子孫の恋のオハナシかと分かる。この那須の大八の一族にかの弓の名人、与一宗高がいたのだった。


寿永4年2月19日、冬の風が厳しく吹くクソ寒い日であった。冬晴れの海に源氏に追われた平家の船が浮いていた。浜辺には源九郎義経の軍がズラーリ。すると1艘の船が船団を離れて浜の方に漕ぎ出した。そして100メートル程の距離につけて止まった。どうするのかと見ていると、長い竿の先に扇を結んでそれを船のへさきに立てたのである。そして白羽二重の着物に真紅の袴をはいた1人のいと美しき乙女が竿に手を添えて立ち、ニッコリと笑って扇のカナメの所を指している。つまりここを弓で射ち落せるかい!と源氏の兵士にチョー発したのです。この女が藤原紀香と高島礼子を足してもまだ足りぬ程の美女。しかも着物の上からハッキリわかる超ボインちゃん。


もう源氏の兵達はドタマグラグラ。義経もこうなっては後に引けない。「誰ぞあの扇を射る者はおらぬか」。心はやれど見れば高波にゆらゆら揺れている。とても射落とせる自信などない。この時那須の与市が進み出た。大丈夫か?と義経聞けば「何とか那須のみ」と言ったかどうだか。とにかくやらねばならぬと南無矢八幡大ボサツ、妙法蓮ゲキョーにアーメンと心に祈って矢を放てば見ン事扇のカナメへパチンと当たった。ウワーッとあがる源氏の歓声。流れる巨人の応援歌。


一方平家の武士や公家、女官もこの時ばかりは敵味方なし、船ベリ叩きオッパイゆすって大騒ぎ。与市は面目施し大ミエきって元の場所へ下った。義経もうれしくてたまらない。しばらく戦い休んで酒、ビール、ワインに焼酎、何でも飲み放題で大パーティー。


与市はその後軍功によって丹波信濃の荘園を領地としてもらったが、京都で病に倒れた時それを治してくれた霊験あらたかな伏見の即成院が忘れられず、地位も名誉も捨てて即成院に小庵を結んで入道となった。与市でなく本来は与一だが、11番目の子として生まれたので余一とされたのを後に与一にかえたという。余計な話ですがネ。そしてわずか34才で他界する。与一だものせめて41才までね。


弓の名人、那須与一さんのお墓は京都東山の即成院にある(写真)

戦国武将 新田義貞(1301~1338)の不思議

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

野球大好き人間のボクは冬になると野球を見れず、イヤーなシーズンとなる。しかし2002年からマスターズリーグができて、かつての名選手達がまたユニフォーム姿を見せてくれて、お蔭で楽しいシーズンとなった。


あの村田兆治がまだ140キロの速球を投げるし、江夏、デストラーデ、中畑、土井、クロマティらも勇姿を見せてくれる。ボクらのチームに加わって助っ人として活躍している小川邦和(元巨人)や怪童と言われた尾崎行雄(元東映)も元気に参加しているからなお応援に行く楽しみが増える。こうした中に元西武ライオンズのエース渡辺久信投手もいて、彼の出身地が群馬県新田郡の新里村。実は今回登場の鎌倉時代の武将、新田義貞はここの出なのである。


義貞の生涯はライバルの足利尊氏とのせり合いに終始したといえる。義貞が敵の本拠鎌倉を攻めるべく猛進撃し、小手指ガ原で北条軍と戦った。西武ライオンズの地元である。久信クンも縁があるネ。小手指、分倍河原そして藤沢と進む。快勝で北条高時は一族と共に東勝寺において自刃し、鎌倉幕府はここに滅亡した。


「稲村ガ崎名将の剣投ぜし古戦場」と唱歌に歌われたあの場面…そう、荒れ狂う波の中に黄金造りの太刀を海へ投げ入れたらアララララ、何とスーッと波がおさまっちゃったなんてマジックみたいなお話は、この鎌倉攻めの時のものである。戦功に対して論功行賞、これで義貞プッツン切れた。足利尊氏に従三位武蔵守という高い地位をあげちゃって、義貞は越後守。つまり会社で言やあ尊氏は取締役常務ぐらいで、義貞は課長サンといった所。


その後も尊氏は征夷大将軍となり専務を飛び越えて副社長。そうこうするうち朝廷は尊良親王を上将軍、義貞を大将軍として尊氏追討の命を下した。任せてチョーダイと栄養ドリンクまとめて飲んで元気に合戦に臨んだ。いったんは敗走したが、すぐ盛り返して尊氏を九州へ追いやった。だがすぐに尊氏は四国、九州の大軍を率いてブリ返してきた。京都で敗れた義貞は福井県の敦賀へ落ち金ヶ崎城へ入った。しかしここも激しく攻められて義貞は転戦に次ぐ転戦。何とか盛り返したが燈明寺の戦いでついに38才の若さで戦死してしまう。墓(首塚)もある。


さて、これからが面白い。京都の嵯峨野に滝口寺というお寺があって、その山門をくぐるとすぐ大きな墓石があり、ここに義貞公首塚とある。


ところが神奈川県の小田原本町の城東高校という学校の近くにも首塚があるのだ。討死の時、家来の宇都宮泰藤がその首級を持って脱出。生国の上州新田を目指してこの地まで来たが、敵には追われ自分も病に侵されて、もはやこれまでとここに首を埋め、自分もハラ切って死んだという説明が石碑に刻まれている。


が、しかし、まだまだあるよ。首を埋めれば首塚、胴を埋めれば胴塚。もひとつ上州(群馬県)新田郡新里村の善昌寺に行ってごらん。そこにも義貞公首塚!


何? 義貞の首が四つあるだと? ヤマタのオロチじゃあるまいし4つも…。待てよ、4つあったらいいね。1つ会社で首切られても、あと3つ就職できらあネ。


写真:神奈川県小田原市内にある新田義貞公の首塚。ここ以外に、福井・京都・群馬と三つの首塚がある

気品も自信もあった 本阿弥光悦(1558~1637)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

字でも絵でも上手くないより上手い方がいいに決まっている。最近は芸能界でも五月みどり、八代亜紀、晴乃ピーチク、中尾彬といった人たちが絵画の方でも有名になっている。関西のお笑いタレント、ジミー大西などは芸能界からオサラバして絵筆で生活しているから凄い。字の方でも歌手の吉幾三、三島敏夫、亡くなった村田英雄といった方々……いくらでもいるけど、我ら悪筆族にとってはまったくうらやましい限りである。


時代はズーッとさかのぼり寛政の三筆といって字のメチャ上手い人がおりまして、公卿の近衛信尹と僧侶の松花堂昭乗、それに今回のお墓の主の本阿弥光悦サン。幼名が次郎三郎。次郎か三郎かハッキリしろと言いたくなるがジロサブローで一人前なんだって。


貧乏な家に生まれて幼い頃はボロをまとって散々苦労してとなると出世物語には付き物のお話だが、この次郎三郎クンは大違い。生まれた時からええとこのお坊っちゃん。家は室町時代からお金持ち。本阿弥家は代々刀剣の目利き、磨き、ぬぐいを家職としてきた名門中の名門であった。つまり光悦はサラブレッドなのでありますな。宮中をはじめ織田、豊臣、徳川の諸氏や前田公などの諸大名に出入りしてたんだから格が違う。大名武家の他一流文化人との交流ばかりで、漫才もミュージシャンもお呼びじゃない。


1615年(元和元年)に徳川家康から洛北鷹ガ峰にドデカイ土地を貰った。東京ドーム球場の6倍ぐらいの。一族郎党、親しき友や職人も連れてここに一大光悦村を築いたのであります。理想郷『光悦村』。今なら家族で一日楽しめる「光悦村」かなんかのふれこみで、お風呂へ入れて食事が出来てその上芝居や演芸が観られて、売店では光悦マンジュウ、本阿弥センベイや光悦センセ直筆の掛軸などが売られて…なんて事になったかも。光悦センセは書はもちろん陶芸、絵画、蒔絵が特に有名だったからこれらの作品を展示して特別コーナーで販売して頂いてね。


そうそう、ボクの友人で越谷市で工務店をしている水谷明氏が光悦の金銀泥下絵のある色紙を持っている。大地主のオジイちゃんから新築の家が大変よく出来た御礼にと頂いたという。お返しにうれしさんから貰った中畑清のサインバットをあげたんだと。つまり色紙とバットの交換。しかも先日鑑定してもらったらこれが本物の光悦で1000万円はするだろうと言われてウハウハ。相手のジイちゃんはその後すぐ亡くなってしまって、残っている家族はそんな事も知らないというからツイてるね。中畑のバットだけに「絶好調」。正に満塁ホームラン10本叩き出したかのよう。その友人で厚川某もホンアミを持っているというのでぜひ見せてくれと言ったら、何と川で鯉やフナなどを獲る投網の事だってんだから大笑い。


ある日、近衛信尹が自邸に光悦を呼んで話している時、信尹が「今の日本で最も字が上手いのは誰だろう」と尋ねた。そりゃあんただろうと言うのが当り前。ところが光悦、「2番目があなたで3番目は松花堂サンでしょう」。「ホウ、では1番は?」「勿論私です」。寛永14年2月3日に光悦は逝った。墓は鷹ガ峰の光悦寺に。


京都・洛北の光悦寺にある本阿弥光悦さんのお墓(写真)

豪弓を射た為朝の最後に島民は号泣。源為朝、伊豆大島に

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

男と生まれたからにはひ弱より逞しい方がいいに決まっている。昔は竹棒持ったガキ大将が突っ込めーとか云って戦争ゴッコやったり、鞍馬天狗や近藤勇になってチャンバラゴッコに興じたものである。今は家でパソコンやったりテレビを見て高級菓子を食ってるホシガキばかり。何でホシガキ? 何でも物を欲しがるガキだからさ。


豪傑といわれた武士がゴマンといた昔の話……。先日、伊豆の大島へ久し振りに行って来た。行けば必ず立ち寄るのが、伝説の豪弓を射た大力の源為朝の住居跡と、ビックリするほど小さく粗末な墓。だがこの墓の前に立つたびに身が引き締まり自然と背筋がピンとなるのだ。


為朝は源氏の嫡流為義の八番目の子であったから通称を八郎と云った。つまりこの辺は歌手の大下八郎と変わらないが、変わっているのは小さい時から大きかった。大人が引けない弓を軽く引き片手で50キロの石を持ち上げた。乱暴で手がつけられず、こんな奴は家へ置いておけぬと九州の豊後(大分)へ追放してしまった。為朝13歳の時である。


ところが行った先の九州でもおとなしくしていない。肥後(熊本)の豪族阿曽忠国のムコになると近隣の豪族を攻めて従わせてしまうといった具合。何とかしてチョーダイと朝廷に調停を申し入れ、何とか静かになる。


じゃこんな田舎にいたって仕様がないよと京都へ戻って来た。その2年後に保元の乱が起こった。崇徳上皇と後白河天皇が皇位争いをした。為朝は為義に従って上皇方について得意の豪弓でバッタバッタ。だが戦いに利あらずして敗れ、崇徳上皇は讃岐(香川)に流されてしまった。京都で懐石料理食ってたのにうどんばかり食うようになったとさ。一方、為朝は本来なら断首されるところを、その武勇を惜しまれ大島配流ということになった。この時、万一また反逆したらと恐れ、肘の筋を切断してしまったという。


保元元年(1156)伊豆大島に着くと代官藤井三郎太夫忠重に預けられた。為朝はすぐにリハビリにとりかかった。大きな石を持ち上げ、大木を担いだり岩を登り海中にもぐったりして、メキメキ回復して以前より長い弓を引くようになったというからロッキーも負けるね。代官殿もおったまげてこりゃいかん、今のうちに親せきになっておかにゃと、その娘をプレゼント。為朝も好みの女でゴッツァンです。2人の間に二男一女をもうけ、ただ呆然と暮らす島民に農耕や野牛の飼育をさせて島に活気をもたらした。


その間もジッとしていないで新島、神津島、三宅島、御蔵島へ出かけてこれらを全部自分の支配下に置いてしまったってんだからこの八郎、イチローより凄いよね。噂を聞いた旧臣達も御大将が元気でやってるらしい、それじゃ行こうよと集まって来た。伊豆の領主狩野介茂は慌ててヤバイですとデンポー。嘉応2年(1170)4月、兵船25艘を仕立てて攻めさせた。大力無双の為朝は心がやさしい。俺のために罪のない島民に迷惑をかけたくないと、部下にも知り合いにも形見分けして逃がしてから、見事に腹を切って果てたのである。時に32歳であった。


源為朝のお墓は伊豆大島にある(写真)

恥ずかしながらとテレた横井庄一さん

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ハワイもグアムも今は若いカップルや家族連れの人たちが心からエンジョイできるオアシスとなっている。グアムという島の名さえあまり人が知らなかった頃、終戦を知らずに27年もの永い間のジャングル逃亡生活からヒョッコリ日本に帰ってきたのが横井庄一さんであった。


昭和47年(1972)1月24日に島民に発見されて穴の中から出てきた横井さん。恥ずかしくて穴があったら入りたいとは云えないくらい永い穴居生活。そこではネズミは貴重なタンパク源で、可哀想だと思いながら食べていたという。その他ありとあらゆる小動物を食べ、草をむしばみながら生きながらえてきたのである。戦争が終わったということは大分たってからわかっていたが、出て行ったら殺されると思って恐くて出られなかったそうな。戦中は「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と骨のズイまでたたき込まれていた兵隊サンとしては無理もない。


2月2日に羽田へ降り立って「恥ずかしながら戻って参りました」といった時の本当に恥ずかしそうな顔を今でもハッキリ覚えている。日本へ戻ってあまりの変わりように本人はビックリしたろうが、名古屋の実家や友人知人だって驚きますよ。何たって死んだ筈の人が元気で帰ってきたんだから。墓だって立派にできていて英霊になっていたんだから靖国神社も困っちゃうよ。


2万人もの人が玉砕したグアム島で、自分だけ生命を永らえたという後ろめたさに生涯さいなまれたという。


庄一さんは1915年、愛知県佐織村で生まれたが、生後間もなく両親が離婚。母親が再婚して富田村(現、名古屋市中川区)に移り住んだ。そして41年に赤紙がきて召集。ジャングルの中にかくれた時は戦友と2人であったがやがて亡くなり、ついに1人で耐えたという。いっそ自分も死のうと考えたこともあったらしいが、とにかく1人で生きぬいたということは素晴らしいことだ。青春時代を空しくジャングルの中でただ1人過ごした横井さんは8月13日にお見合いをした。その日から1カ月半ほどしてそのお見合い相手の美保子さんと結婚し失った青春を少し取り戻したのである。


質素な生活から人々は急激にゴージャスな生活を経験し気分がたるんどる! ということで、横井さんに講演を依頼して耐乏生活のオ話をしてもらうイベントが引きもきらない。自伝を執筆して刊行するやこれがベストセラー。耐乏生活評論家は多忙を極めた。そしてついには参議院選にも出馬したのだが、残念ながらこれは落選してしまう。しみじみいった言葉は「ジャングルにいた28年間は実に気楽だった。現地人とアメリカさんに気をつけていれば人に頼らんで苦労なかった」。本当ですね、選挙となると1人じゃできないし、やたらめたら気使って、その上、金も使ってね。


横井さんは晩年、病気がちになり大分苦しんだらしい。何しろ永いジャングル生活で無理があったのだろう。1985年胃ガンの手術をしたが、その後パーキンソン病にかかってしまう。そして97年9月22日、数奇な運命をたどった横井さんは逝った。魂は日本を離れ、輝く太陽と青い海原のグアムへ飛んで行ったのかも! 捧げ筒(つつ)!


写真は生きているのにつくられていた墓(名古屋市)。

強運の我がオ父つぁん コロムビア・トップ家の墓石

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

コロムビア・トップ(下村泰)センセは我が師匠。1922年(大正11)浅草に産声を上げた。お産婆さんが驚いた。この子は今に天下をとるようになるよ、ホレ手をごらん。右手を上げて天を指してるでしょ(お釈迦様じゃあるまいし)。その時左手がお尻の所を指してたんで長じて痔になったんだって。


でも右手の方も当たってたんですね。漫才界のトップになった上に1970年(昭和45)には芸術祭奨励賞を受け、その4年後には参議院選に出馬して当選。


トップ親父は幼き頃から芸事大好き。芝居に寄席にオイチョカブ。そして素人劇団をつくっての巡業。そのうち戦雲急を告げ遊び人の下村クンも招集されて仙台へ。1年足らずで郡山からビルマの戦場に送られた。所属したのが戦時歌謡でお馴染みの「加藤隼戦闘隊」でありました。そこでデングレスという厄介な病気になった。


熱が40度以上になって目がくらみ節々が痛い。1週間以上寝込むと大抵の人は天国からお迎えがくる。しかし下村サン、入隊する時持っていった吉原の女郎のあそこの毛を守り袋に入れたヤツを握りしめていた甲斐があって無事生還(性還)。


ところがイヤな上等兵に死ぬ程撲られたのである。何が何だかその理由がわからない。後でわかったのは熱にうなされて寝ている時に、そのイヤな上等兵の名を言いながら、あの野郎ふざけやがって爆撃の時覚えていやがれ、弾は前からばかり飛んでくると思うなよ。それじゃ上等兵殿怒って当り前。


やがて敗戦、そしてお定まりの捕虜生活。その1年間毎週土曜日が演芸会。こうなりゃ下村サンの出番で。戦友の池田喜作サンとのコンビで漫才を演ったがこれがバカ受け。ナコンナヨークという所へ集結した30万の捕虜の中でたちまち大スター。


バンコクへ移る間メコン河支流の泥水を濾過して兵に飲ませる濾過車があってキレイにするまで時間が掛かる。その間に河へ洗濯に来ていた女を選択する間もなく手を付けてしまった。それがイケない。ご当地の警察署長の娘で妊娠しちゃった。イヤ、させちゃった。村の娘に…。シモムラだから。


いやシャレてる場合じゃない、おっかない署長さんと部下が不埒な助平の日本兵を捕まえに来たんですぞ。慌てた下村サン、さすが元劇団で鍛えた腕の見せどころ、包帯を顔に巻き赤チンをにじませベットに横たわって難を逃れたという。そして1946年(昭和21)8月焦土と化した日本に無事ご帰還。しかも運良くいい弟子に恵まれ、さらにうれしの紹介で目黒区八雲の東光寺に立派な墓まで建立したのである。


そして、トップさんは2004年(平成16)6月6日終演を迎え、このお墓に永住することになったのである。


“これが 終の棲み家か 笑い塚”(元句 一茶)


写真=コロムビア・トップ師匠のお墓は東京・目黒区の東光寺にあります

ヤクザ旗本 水野十郎左衛門

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

徳川幕府に旗本八萬騎あり……と格好いい文句ではあるが、同じ旗本にも大名と同じで譜代と外様があって、譜代の方は見識もあり気風堂々であったが、外様の方は妬みや差別にゆがんだ心の持ち主が多かった。不平不満分子が集まってそれぞれ組をつくり、鉄砲組、旅籠組、吉弥組、六方組などと名乗っていた。とても1年B組といったようなかわいいものではなく酒と女と暴力のロクデナシ。


その筆頭が水野十郎左衛門の率いる白柄組で群を抜いていた。真夏のクソ暑い日に厚着して集まり、寒い寒いとグラグラ煮立つ鍋を囲んだり、冬に障子を開け放して裸で氷をかじり冷ソーメンを食らったりしてイキがっていたってんだから事件を起こす三流バカ芸人より始末が悪い。


この悪旗本らに対抗してこれも目立とう組の兄ちゃん達が居てド派手な着物で肩を突っ張らかして町を闊歩していたのが町奴であった。この両者は事あるごとにブツかって喧嘩となる。ある日芝居小屋で両者がモメた。火事と喧嘩は江戸の華! 「始まった始まった、白柄組と町奴の喧嘩だー」。人々は騒ぎが大きい程面白い。近所は勿論隣町からかけつけるわ、風呂屋も空っぽってんだからまるで「君の名は」や現今のヨン様の人気に迫る勢い。


しかし度重なる喧嘩沙汰に当局も黙ってはいない。いい加減にしないと加藤剛か北大路欣也サンに云いつけてやるからと云われて仲直りしようという話になった。しかしこれは水野方の仕掛けで、たった1人で乗り込んだ幡随院長兵衛は死を覚悟。食事の前に一風呂どうぞとすすめられ笑ってサウナへ。大体メシ食おうよと呼ばれて風呂に入るってのも不思議な話だよね。しかしここは素直に入ってくれないと小説にも映画にもならない。長サン湯舟につかって“いい湯だな”って歌い出す。ア、こりゃ長サン違いでいかりや長サンだった。


身に寸鉄も帯びぬ長サン、生まれる時は丸裸。今死ぬ時も丸裸。こりゃ気軽に冥途へ行けるわいとさすが度胸満点の男伊達。風呂場になだれ込んで槍と刀で斬殺してしまう。この後乾分の唐犬権兵衛らが水野らを待ち伏せて耳や鼻をそぎ落としたりして旗本達は大手を振って町を歩けぬようになった。


だが、少し落ち着くと又ぞろご乱行が重なって、長兵衛没後7年たった寛文4年(1664)3月に評定所に呼び出された。反省の色が少しでもあれば死罪を免じるつもりであったが全くその気配なく、むしろふてぶてしく余りにもお上を恐れぬ様子に老中土屋但馬守の命により切腹となった。加賀爪甲斐守、近藤登之助、小笠原刑部等57名の悪旗本が三宅島や八丈島に流された。


東京は中野の上高田にある万昌院の墓にはそれでも寂窓院殿一閑宗心居士という立派な戒名が刻まれている。水野重郎左衛門尉とあるが、十郎でなく重郎になってるが……ああそうか、重罪人だから“重”でいいんだよね。


写真=旗本・水野十郎左衛門のお墓(万昌院、東京都中野区)

歌謡曲にもなった侠客 会津の小鉄(上坂仙吉)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

小鉄こと上坂仙吉は生まれ年号も出生地も不祥であるが、実在した人物であることは間違いない。小さい頃、大阪の四天王寺辺りを母親と共にうろついていたらしい。母親に男が出来て、彼は11歳で家出し、どうやって江戸まで行ったのかは分からぬが、いつの間にか博打を覚えて17歳の頃には暴れ者で通っていた。何かの間違いを起して江戸にいられなくなって京都に行って、ここでも喧嘩とバクチに明け暮れていた。会津藩の仲間部屋に出入りし、小柄なのでいつしか小鉄と呼ばれるようになった。


2006年11月の漫才大会(浅草の公会堂)で真打に昇進するビッグ・ボーイズから聞いた話で面白いのがある。彼らの仲間の芸人Aが京都の方で会津小鉄会の新年会で司会を頼まれたんだそうな。ただでさえおっそろしいお兄さん達がズラリと並んでいる席だ。ビビッて上がってオロオロしながらの司会である。


「それではこれより会津コテキ隊の新年会を開催させて頂きます」。それを聞いた若い衆がスッ飛んできて「オイ、俺達は太鼓叩くんか!」とにらまれてチビッてしまった。もうシッコー猶予もなしで平謝り。


小鉄は会津部屋の者とモメ事を起し小指をつめ出入りも禁止となってしまう。大阪に行ったりもしたが、どこへ行っても必ず喧嘩して身体中キズだらけってんだから、果実や家具なら売り物にならない。ところがこの世界ではそのキズこそが金看板になるんだね。顔から全身80ヵ所近いキズで、左手の指は親指と人差し指しかなかったというから、これはもうゴルフは絶対できないね。


慶応3年に殺人の罪で牢屋に入れられ死罪になるところを、翌年、徳川慶喜が大阪から京都に上るというので恩赦になって放免された。


明治16年3月に博徒狩りがあって小鉄も服役し、同18年3月19日に京都洛北で死去したらしいが、これもハッキリどの場所で何歳で亡くなったというデータも残っていない。


ただ歌は鉄砲光三郎が唄っていて、


一 梅の浪花で 産声上げて 度胸千両の 江戸育ち

  何の世間が 笑おうとままよ やくざ渡世に 五尺の体

  かれた京都の かれた京都の 会津部屋

(二は省略)

三 引くに引かれぬ 男の意地で どうせ捨て身の 稲荷山

  咲いた花なら 一度は散るさ のぼる朝日が 草木を染めて

  男小鉄の 男小鉄の 晴れ姿


なお、「こてっちゃん」というCMとは関係ない…当り前だ。墓は京都府左京区黒谷町、西雲院墓地にある。


写真=京都府左京区黒谷町・西雲院墓地にある小鉄こと上坂仙吉の墓。 墓前の銘文「会津小鉄」によると、朝敵の汚名をかけられた会津藩士の遺体は、世人が後難を恐れたため戦場の雨露に晒され無残に放置されたが、小鉄の遺体は配下を動員し死を決して探索して収容、埋葬したとなっている

東洋のネルソン 平八郎元帥のフンドシ

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

かの田中角栄サンが、物をもらって喜ばない人間はいない、とおっしゃった。しかし、もらっても有り難くないモノもある。淋病だの、風邪だの、毛ジラミ(懐かしいね)だのはあまり有り難くない。洋服やセーター等は気に入ればうれしいが、下着の古いのは喜ばれないのが普通。ところが、普通の下着でない特別のモノだったらどうかね。


先ごろ、私めが出版した「野球のごっちゃ煮」なる本の中に書いたのだが、立教大学当時、長嶋茂雄サンの後輩で目を掛けてもらった小西秀朗サンが「オイ、これお前にやるよ」と脱ぎ捨てた練習用のユニフォーム、何とその中に今まではいてたパンツも入っていた。それを始末してしまったのだから、今考えると勿体ない。今保存していたら、それこそ鑑定団で大ブレークするに違いない。


話は遠く大正8年に遡る。静岡県は沼津の奥にひっそりと建っていた三島館という旅館に風呂番でシャレや冗談が上手く人気者の落合倉吉という男がいた。ここに東郷平八郎元帥が泊まられた折に古くなった褌を「君、これをすまんが捨てておいてくれ」と渡した。相手は日露戦争での大スター。その人の褌を捨てるなんてとんでもない。「閣下、これを私に頂けませんか。私の大事な宝物にしたいのです」。聖顔にあらわしてお願いする三助クン。おかしいのとその真面目な願いに思わずウン。物が物だけにウンのついた倉吉、そのフンちゃんを洗濯して特注の箱を作って収めておいた。


その話を聞いて、その後宿泊した子爵の小笠原長生海軍少将が、ワシが一筆書いてやろうと、「日本海クルクルまいて敵を諦めきつい手柄を欺くは下帯」と狂歌をしたためた。この評判が立って、俺も見たい、私も触りたいで人気上昇。中には金に糸目はつけぬから売ってほしいという人も出てきて大変な騒ぎ。たかが褌、されど褌…。


今やハワイは手軽に行ける人気観光地の常に上位である。しかし、このハワイに東郷サンは明治26年(1893)に行っているのである。とはいえ観光ではなく、軍艦でですがね。軍艦浪速(3709t)の艦長であった東郷サンはカメハメハ王朝という独立国がアメリカから迫害を受けているというので在留邦人保護のために行ったんだと。このハワイではいたなんて海水パンツはないのかね。


明治38年5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊三十八隻を全滅させたあの時「皇国の興発この一戦にあり。各員いっそう奮闘努力せよ」の御旗を旗艦三笠は掲げた。前出の立大(後に国鉄スワローズ)の小西サンも「立大の後輩これにあり。茂雄のパンツ頂き、いっそう奮闘努力します!」とやってほしかったね。


東郷サンのお墓は多磨霊園にある。


写真=日本海海戦でバルチック艦隊を撃破し「東洋のネルソン」と賞賛された東郷平八郎元帥のお墓(多磨霊園)。生誕が1847年で、没年は1934年。ネルソンはイギリス海軍を指揮した軍人で、アブキール湾の戦い(1798)で仏艦隊を、トラファルガーの戦い(1805)では仏・スペイン連合艦隊を破った

侠客と十手の二束のワラジ 祐天仙之助(生年不祥~1863)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

生まれたのは多分甲府のどこか。昔は良くあったことで、今じゃ考えられない出生。これじゃ今時パスポートも取れなきゃ、どこにも就職できませんよ。幼少の頃、行蔵院という寺に預けられて、その時、祐天の名を付けられたらしい。吉松が本名で祐天吉松。


これが真面目に坊さんの修行せず、ストーカーからのぞきに花札トバク…。行く道は自然にヤクザ稼業だ。大親分竹居吃安の用心棒で元は旗本の用心棒であったという桑原雷助を殺してしまう。だが相手は浪人でヤクザの用心棒。祐天は仮にも関東取締役の御用をつとめる十手持ち、お咎めもなしというんだから雷助サン、殺され損だ。


祐天は勝沼に住み、子分と縄張りを持って、吃安一家とにらみ合った。嘉永3年、博徒狩りで大勢が伊豆の新島に島流しになり、吃安もその中にいた。しかし、吃安が島を抜け出して戻ってきたので、SOSのデンポー打って江戸屋虎五郎や高萩万次郎といった当時売り出しの親分衆の応援を得て吃安を捕らえた。


この頃、幕府は急雲激しく、将軍徳川家茂の身辺警護のため、浪人や地方の郷士を集めたが、それだけでは足りず、祐天のような博徒にまで声が掛かったのである。どうだ浪士隊(新徴組)に入らんかと清河八郎に言われ、俺もサムライの真似がしてみたいと子分を40人ほど連れて参加した。


こんなのがいい隊の訳がない。山岡鉄舟、松岡万が先頭に立って京都に送り込んだものの、清河八郎の自分勝手な言動でお前らもいらないとお払い箱。祐天どころかフーテンの吉松になってしまう。


この時に同じ仲間だった近藤勇や土方歳三らは、京都に残って新撰組をつくって有名人になったのである。そして祐天たちは江戸で改めて新徴組に入る。山本仙之助と名乗って一応武士気取り。この祐天を新徴組に推薦してくれたのが、明治の女流作家で今や5000円札の顔になっている樋口一葉の両親の面倒も見てくれたという、昌平坂学問所につとめる松下晩菘であった。


だが、この新徴組に入るのをもう少し慎重に考えれば長生きできたかも…。というのは、大村達尾という男がこの組に入っていて、これが18年前に山梨の鰍沢で祐天に殺された桑原雷助の遺児であった。祐天が板橋の女郎屋へ行っての帰りに、親の仇!と斬りつけた。祐天はそのまま昇天した。生まれた日は分からないが、死んだ日は1863年(文久3)10月15日の夜とハッキリしている。


なお、東横線の祐天寺とこの祐天とは全く関係ない。お墓は東京・墨田区大平の報恩寺に。他には武将太田道灌、女優山岡久乃のお墓もある。


写真=祐天仙之助を主人公にした映画が『博徒ざむらい』(1964年・大映、監督・森一生)で、この時、市川雷蔵が祐天を演じている。お墓は東京・墨田区の報恩寺にある

西部劇に出てくる保安官は実在の人だった

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

最近の映画は西部劇が無くってつまらないと云い出したのは春日三球サン。すると同席していた漫才仲間のおぼんサンと昭和のいるサンも全くそうだと生ビールをあおる。ボクと4人でそれから2時間ウエスタン映画談義の花が咲いた。


そしてまず最初に登場したのはやっぱり「駅馬車」だ。娯楽西部劇の歴史を変えたと云われるこの作品でジョン・ウェインは一躍スターになった。三球サンがアパッチ・インディアンに馬車が襲撃されたシーンで脱獄囚のジョン・ウェインがパパーンと撃ちまくって馬車を守ってさ……とやると、すかさずおぼんサンが「駅馬車」のテーマ音楽を口ずさむ。さすが一流漫才の集い。パッパッと話がまとまる。おぼんサンが先日新宿駅からタクシーに乗ったらその運チャンが「私はずーっと10年もこの新宿で駅馬車してます」と云ったんだそうな。この一言が嬉しくて500円チップやっちゃったそうな。


西部の第1人者って誰かなとのいるサン。そりゃ松坂ですよと三球サン。どうしても真面目な会話にならない。のいるサンの1番のお気に入りはアラン・ラッドの「シェーン」だとか。悪役のジャック・パランスと0.6秒のガンファイトが格好良くてしびれたとか。するとおぼんサンがボクも昨夜足がつれてしびれたねとまたまた脱線。


そこで最も真面目なうれしサンが好きなウエスタンの役者は?と話をレールにのせてやる。のいるサンがヘンリー・フォンダ。バート・ランカスターだなと答え、続いて三球サンが私はスティーブ・マックインとジェームス・スチュアート。それにグレゴリ・ペック。ちょっと誰か忘れやしませんかとボク。ゲーリー・クーパーとアラン・ラッド。フランコ・ネロとカーク・ダグラス。のいるサンが西部劇の女優サンわかる?にアッ、意外に女優が出て来ない。ボクが「死の谷」のヴァージニア・メイヨと云うと、のいるサンがマリリン・モンローも「荒馬と女」に出てたよとさすがくわしい。モーリン・オハラって居たよねと三球サンが云うと小原庄助の娘?とのいるサンが先刻のお返しをする。意外と云えばあのモナコ王妃になったグレース・ケリーが西部劇に出ていた。「真昼の決闘」でゲーリー・クーパーとの共演。


そしてこの4人が一致してナンバーワンに押したのが「荒野の決闘」である(後にOK牧場の決闘として再登場)。この映画のテーマ曲「愛しのクレメンタイン」はウエスタン音楽の最高傑作ですねと音楽通のおぼんサン。保安官ワイアット・アープと結核病みのドク・ホリデイという実在の人物の伝記物で、単なる撃ち合いでなく詩情豊かに描かれていてもう一度見たい映画のひとつである。


このワイアット・アープの墓を偶然サンフランシスコのホリクロス墓地で見つけた時は感動のあまり拳銃を抜く格好をして、「愛しのクレメンタイン」を歌ってきた。帰国したら年のクレでメンタイが贈られてきた。

写真=サンフランシスコのホリクロス墓地にあるワイアット・アープのお墓

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