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ワルツと言えばこの人 ヨハン・シュトラウス(1804〜1849)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

オーストリアの作曲家でビールの販売と旅館を経営している家に生まれた。子供の頃からビール、いや音楽に親しんだ。楽器でも踊りでも子供の頃からやれば大抵は上手くなる。だがある一線まではというヤツで、それ以上は本人の努力と天分であろう。ヨハンちゃんは天分が人より余分にあって長じてミヒャエル・パーマーの楽団に入りヴィオラ奏者として活躍する。


この楽団で生涯のライバルとなったヨーゼフ・ランナーと知り合った。二人は気が合って何処へ行くのも一緒。1819年にランナーと四重奏団を結成する。どこで演奏してもアンコール。24年には弦楽オーケストラに発展した。仕事がバンバン入ってくる。ゼニもガチャガチャ入ってくる、夜半(ヨハン)までかかって金勘定。こんなに稼げるんじゃバンドを二つにして仕事の場を広げようというので、そのバンドを分けてもう一チーム編成した。そしてシュトラウスは一方のバンドを指揮するようになった。25年7月にスペイン貴族の流れをくむ旅館の娘、アンナ梅宮…イヤ違うね…そうアンナ・シュトライムと結婚した。アンナとヨハンは作曲と演奏の忙しい中を男4人と女2人の子をつくったというからご立派。


仲のいい友達も一旦こじれると修正が効かぬもの。25年にランナーと意見の食い違いを生じ分裂。シュトラウスは14人の独自の楽団を指揮してこれを人気楽団に仕上げた。33年には実に29人編成という大楽団にして演奏旅行に歩いた。37年から38年にかけてパリにお呼びがかかる。シュワちゃんならぬシュトちゃん人気で大入満員。ロンドンではヴィクトリア女王の戴冠式をワルツ「ヴィクトリア」を捧げて祝って面目を施したりした。


しかし長い旅の疲れと稼ぎ過ぎてバテこんでしまう。このままではイカンとウィーンへ戻った。帰ってすぐ生涯のライバルだったランナーが亡くなる。もっとも彼の方が先に逝くよねランナーだもの。ランナーが去ってしまうと後はシュトラウスの天下。舞踏音楽と娯楽音楽の両方でウィーンを支配するようになった。何事も順調でいっていたつもりが家庭の事情から妻子と別れて、愛人のエミリー・トラムプッシュと同棲。英雄イロを好むというが羨ましい限り。ボクの方は家庭の事情から妻子にしばられているのでありますが。しかしシュトラウスは結局この愛人に産ませた子供の猩紅熱が感染してあっ気なく他界してしまったのだから、天罰だったといえるのかもネ。


シュトラウスはワルツの曲を数多くつくった。彼の息子3人も作曲家として名を広め、殊に長男のヨハン・シュトラウス(父と同じ名前)もワルツづくりの名人で、人呼んで息子をワルツの王と言い、親父の方をワルツの父と呼んでいる。これに似た父子がボクのまわりにもいて、親父は幾度も刑務所を出たり入ったり。息子も暴走族で覚醒剤で捕まり世間様から嫌われ者。人呼んで息子をワルガキと言い、親父をワルの権化と呼んでいる。

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