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江戸文学 井原西鶴

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ


江戸の文化を語る時、近松門左衛門と井原西鶴を外す事は出来まい。近松は1653〜1724とその生死もハッキリしているし、生涯の活動もかなり明記されているのに対し、西鶴の方は1642(寛永19)年大阪の鎗屋町に生まれたという以外すべてわかっていないという。武士の出だというハナシもあるが、父は刀剣等の商いをしていたらしいとこれもオ噂の一ツ。両親亡き後、祖父に育てられたというこれも噂バナシ。

15才(明暦二年)の時西鶴は足袋屋へ奉公に出された。可愛い子にはタビを……違うってえの。しかし、このガキがまるでソロバン読み書き大嫌い。今ならさしずめバイクにでも乗って暴走族に加わっていただろう。ある日集金した銭を持ってトンズラ。銀子25匁とは今のお金で3万円だそうな。しかし、この西チャン、同じ逃げるにしてもチッとも悪びれず次の一首を書き残したのだ。

ここもたび(足袋)  又行先もたび(旅)なれば  いづくのあし(葦)か  我を待つらん

この狂歌を読んだ足袋屋の主人。なかなかやるじゃん、あのガキ案外大物になるかもなと許したってんだから……ダンナ! あんたもえらい


その点ウチの親父はダメだったね。財布からたった五万円盗っただけでカンカンに怒ったし、呑み屋のカミさん(人妻)を盗んだだけなのに出て行けと怒鳴ったんだもの。そこで天才うれしの狂歌一首。

ヒトの妻  つまんでつまみ出されたよ   つまらぬ事に   つまづいた吾

さて、西鶴16才の時女風呂で遊んだ。ソープランドの元祖である。もう天にも昇るいい気分、毎晩のように女にのぼせ、金の才覚(西鶴)に困ったという。


やがて30代…この頃は鶴永というペンネームで俳諧の道に志していたが、1673(寛永13)年、宗久が2月14日から天王子村の清水寺で松永貞徳を忍ぶ俳諧万句を催した。多くの俳人が招かれたのに鶴永はボイコット。頭に来たぞ、それじゃあこっちも考えがあると、3月に生玉神社の南坊で12日間の万句興行をやらかした。宗久をわざと外し西翁こと宗因を入れてドドーンとブチ上げ世間をアッと言わせた。更にこれを本にした(石文社があったらネ)。人々はこの本にのってる人達がいい俳人と思ってしまったわけ。鶴永すかさず大名人宗因(西翁)にヨイショして西の一字を頂戴して西鶴と改めた。


結婚し三人の子をもうけたがその後妻は死んでしまう。西鶴坊主頭になり浮世草子を手がけた。これが大当たりたちまち流行作家。「好色一代男」「好色一代女」「男色大鑑」等々。何しろ西鶴物は面白い。酒屋のご隠居は60才過ぎて吉原通い。余りの激しさに息子が1500両(一億円)やって親を勘当。ところが金も女に注ぎ込んででパア。魚売り乍らこの親父、「花紫太夫を揚げてないのが心残りだ、死ぬまでにヤルぞ。後30年生きてやるから、そうなりゃ息子が死ぬから息子の金は親の物だ 」イヤ立派。


墓は大阪の寺町、誓願時にひっそりと。

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