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早咲きの詩人ミュッセ――早く散る

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

アルフレッド・ミュッセ。これで充分なのに大体フランスのお方はフルネームで呼ぶと長いんだねこれが。ミュッセもルイ・シャネル・アルフレッド・ド・ミュッセてのが正式の名前だってんだから凄いね。


ミュッセは1810年に高級官吏のセガレとして生まれた。14才の時に詩をつくって誉められた。「坊や幾つだい」「ジュウ詩!!」。


18才の時にヴィクトル・ユゴー家で会合するロマン派のメンバーに加わるようになってたってんだから凄い少年だ。しかし美男で頭がいい彼は人様を見下すような所があって、地方出身の仲間の詩人達は彼となじめなかったようだ。


20才で処女詩集を刊行したりしてその才能は充分すぎたが、パリっ子…つまりボクはシティボーイだから田舎のプレスリーは相手にしたくないというハナもちならぬ所もあった。


だが女に対してはやさしくしかも積極的で、ロマン派の女流作家ジョルジュ・サンドと出会ってたちまち恋の炎がパッパッ。サンドの方はもうサンドどころか5度も8度も男遍歴のベテラン。都会育ちのボンボンなんざ手玉にとるよう。


ミュッセが病いの床にある時、看てくれている医者とサンドがお医者さんゴッコをしてるんではなかろうかと嫉妬心メラメラ。もうあんたとは暮らせないわ、私出て行くからネ。ミュッセは翌日には「ボクが悪かった。謝るから出て行かないで欲しい」。また仲直りして暫くすると同じ事を繰り返した。そしてイタリアのベネツィアに旅し、水のベニスでまた喧嘩。水の都で2人の仲に水が入り、ベニスの夜を最後にペニスにも用が無くなったサンドは旅に出てしまった。たった二年足らずの恋だった。


残されたミュッセはガックリ落ち込んでしまって詩作も与作もしたくない。だがいつまでもこんな事しててはとそこはミュッセ。自伝小説「世紀児の告白」を書いた。また劇作家としても知られるようになったのはさすがである。


1857年5月2日にミュッセは47才でこの世にオサラバしたが、長い事深酒に溺れて無理したのがいけなかった。墓石にある胸像を見てもその端正な美男子ぶりがわかるが端正でも短命じゃイヤだよ。墓石には、


“したしき友よ われ死なば 墓に柳を植えてよや 優しく淡きその緑 わが奥津城の土の上に ほのかな影は軽からむ…”とある。この詩に忠実に柳は植えられ、我々の行った日も墓石をそっとなでるように揺れていた。


高校時代にミュッセの詩の本を貸してくれた有希子さんに何十年ぶりかで会った。「あの時借りた本返してなかったね」。「ええ、でも本はもういいの。それより貸した1万円返して!!」

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