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情けが仇の入道 平 清盛(1118-1181)

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

源氏と平家。どうも一般的に源氏の方に人気がある。しかしよーく調べてみると、どっちかというと源氏は荒くれ武者の田舎っぺで、平家の方が常識人で温和な人が集まっていたようだ。


保元の乱で後白河天皇に味方して勝利を収めた清盛は播磨守に任ぜられた。そりゃねえべと源義朝は平治元年(1159)にクーデターを起こした。しかし清盛側の巻き返しであえなく義朝は敗れる。大体、敵将の身内は全部処刑されてしまうのがこの時代の常識であるのに清盛はそうしなかった。義朝の遺児頼朝を伊豆の蛭ヶ小島に流し、今若、二若、牛若、この3人の母である常盤御前のあまりの美しさに、お前が俺と寝てくれるなら許そうと寺に預けて命を助けた。オッパイは成功の元ならぬ、失敗の因(もと)になろうとは。


これが反対に源氏だったら片っ端から殺してしまったに違いない。義朝は自分の父親と四人の弟を何のためらいもなく殺しちゃったし、義賢は甥の義平に殺され、その子木曽義仲は従兄弟の頼朝に殺された。この頼朝も自分のために活躍してくれた最大の功労者の義経まで殺してしまう。


話は平氏に戻るが、高倉天皇8才の時に即位するが、清盛の妻の妹滋子が産んだ後白河上皇の息子だから清盛は遂に皇室の親戚になってしまった。清盛はさらに承安元年(1171)次女の徳子を女御として入内させる。これが後の建礼門院である。天皇11才、徳子15才。この頃から年上の女房ってのが良かったのかね。しかし11才の旦那と15才の女房で一丁前にセックスして翌年子供が生まれたってんだからお見事! こうなると清盛の平氏一門は天下に怖いものなし。一門みな栄え、世に平氏に非ざれば人に非ずなんて言われたがその陰でアンチ平家の者も居た。


クーデターを計画した僧西光を斬り、僧俊寛、平康頼、藤原正親らを流刑にして一応治まった。しかしくすぶった火種はやがて大火となる。清盛が情けをかけて殺さずに居た源頼朝が挙兵し、次いで木曽義仲も立ち上がった。頼朝追討に向かった清盛の孫惟盛(これもり)は、富士川で水鳥の羽音にビックリして逃げ帰ってしまうというお粗末。養和元年となり清盛は病気で倒れた。高熱が続き遂に2月4日に逝った。


一般に清盛は派手好みで女好き、酒池肉林の宴会野郎と思われているが、決してそうではなかった。むしろ経ケ島(神戸港)の改修や、音戸の瀬戸の開通とか、厳島神社の造営等々たくさんの業績もあるのだ。海の上に浮かぶ社殿の美しさは今も観光の目玉になっている。宝物館には国宝、重要文化財がもの凄い数あって平氏一門の繁栄が半端じゃなかったことを証明している。中でも平氏一門の奉納である「平家納経」は圧巻で、いかにも文化水準が高かったと想像がつく。


白河法皇は中古だが新車並みだぞと平忠盛に愛妾祇園女御をプレゼント。その時すでに白河さんの子(これが清盛)が宿ってたってんだから考えてみりゃひどい話だ。だがそれがあって清盛がてんこ盛りになってトントン出世したんだからしゃあないか。


【写真】=墓は神戸の兵庫区にあるが、写真は京都・嵐山の祇王寺にある清盛の供養塔と言われる五輪塔(右)

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