ブルース・リー~世界にカンフー・ブームを巻き起こし32年を疾走

ブルース・リー
左がブルース・リー。右の黒い墓は息子のブランドン・リー。湖に近い美しい墓地で墓参者が絶えない

「失敗することが罪ではなく、目標を低く掲げることが罪なのだ。大きな挑戦では、失敗さえも栄光となる」(ブルース・リー)。

2013年はブルース・リーの没後40年。海外で墓巡礼をしていると、日本人があまり訪れないような土地では、地元の子ども達から「ヘイ! ブルース・リー!」「アチョ~」と声をかけられ、からかわれることがある。アジア人=ブルース・リーとインプットされているようだ。

ハイスピードで流れるようなカンフーの動きにより、一度見れば忘れられない強烈なインパクトを持つリー。彼は1940年に、舞台俳優の父の米国巡業中にサンフランシスコで生まれた。辰年の辰の刻(午前8時)であったという。生後すぐに父と香港に戻り、子役として様々な映画に出演し、10歳から芸名を“李小龍”とした。

リーは13歳で中国武術を習い始め、18歳のときに高校ボクシング大会において、3連覇中のチャンピオンをカンフー・スタイルによりわずか1RでKOした。また、ダンスが得意だったことから 同年にチャチャコンテストでも優勝している。その後、米国籍を取得するために渡米してシアトルの大学で哲学を学び、22歳で中国武術の道場を開いた。

人生の転機は26歳。リーが国際空手選手権大会で披露した演武を見たTVプロデューサーから連絡があり、人気ヒーロー・ドラマ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢されたのだ。これでアクション俳優として注目を集め、香港の映画会社と契約する。

1971年(31歳)に初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開されると、香港の歴代興行記録を塗り替えるメガヒットとなり一躍トップスターとなった。続く『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』も前作を上回る観客動員を記録。『ドラゴンへの道』では製作・監督・脚本・主演の四役をこなす才能を発揮した。翌年にはアメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の話が舞い込み、リーの悲願であった全米スクリーン・デビューが確実となった。

何もかも順調に見えたその矢先に悲劇が訪れる。『燃えよドラゴン』の撮影から3ヵ月後の1973年7月20日、頭痛を訴えたリーは昏睡状態に陥り、そのまま意識が戻ることなく絶命した。享年32。公式な死因は鎮痛剤による過剰反応が引き起こした脳浮腫。脳が肥大化し脳幹部が圧迫されたという。葬儀は香港とシアトルで行われた。

香港では数万人のファンが葬儀で死を悼み、シアトルの葬儀では道場の直弟子であるスティーブ・マックイーンやジェームズ・コバーンが参列した。死の翌月、『燃えよドラゴン』が公開され世界的ヒット作となり、後に生前の撮影分を編集した『死亡遊戯』が上映された不幸は続き、急逝から20年後に映画俳優の息子ブランドンが、『クロウ/飛翔伝説』の撮影中に銃の事故によって28歳の若さで他界する。

悲運のリー親子は、シアトルのレイクビュー墓地に並んで埋葬されている。墓碑には“形にとらわれるな”という意味の「以無限為有限 以無法為有法」(無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す)が刻まれ、2000年に僕が訪れた時は、カナダ人の若者が拓本をとっていた。また仏人女性も墓前でたたずんでいた。2度目の巡礼時は、タトゥーを入れた英国人5人組が墓参に訪れていた。

様々な国から巡礼者が集まるリーの墓。カリスマのオーラは消えることなく、死後も国際派スターであり続けている。つくづく、早逝が惜しい。

ブルース・リー
墓には写真が入っていた。存命なら今年(2013年)で73歳。
ジャッキーのように何十本も主演作が公開されていたに違いない

※『月刊石材』2013年10月号より転載



墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん












カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。

巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。




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