永遠に歌い続けられる「リンゴの唄」の並木路子

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

何曲もヒット曲があってもやがては人々から忘れられてしまうものもある。しかし1曲のヒットがその歴史上に欠くべからざる一大印象を植え付けて未来永劫に歌い続けられるものもある。並木路子サンの「リンゴの唄」は日本という国が存在する限り、毎年8月の終戦記念日にはテレビやラジオから流れてくるのだ。


昭和20年(1945)9月、松竹歌劇団出身の並木さんは松竹映画「そよ風」のヒロインに抜擢され、その主題歌「リンゴの唄」を歌ったが、これが爆発的な大ヒット。戦後歌謡曲第1号として日本歌謡史上に金字塔をうち建てたのである。


並木さんがこの「リンゴ」を歌うにあたって周囲も大変気を使った。というのは戦火の中で母に手を引かれながら逃げまわり、火の手のあまりにも早く強かったため隅田川にザンブと飛び込んだのだった。水の流れも早くしかも水深もあり、ふたりはアップアップ。「助けてー」と叫んでも皆自分の身を守るのが精一杯。とその時「早く掴まりなさい」と手をさしのべてくれた1人の男性。その手に必死にしがみついて生還した並木さん。しかし無惨にも母は大勢の人とともに流されて、ついに行方がわからなくなってしまった。

そんな辛い思い出をかかえている並木さんに明るい唄を歌わせるのは酷ではないかと心配したのだが、いざ吹込みとなると並木さんは元気に笑顔で歌ってくれた。


廃墟と化した瓦礫の中で生きる希望も失っていた人々の耳に、この「リンゴの唄」が町角からラジオに乗って流れてきて勇気を与えてくれたのだった。この唄がヒットした頃はリンゴなど人々の口に入ることはなかった。ダイヤモンドのように高値で食べるなんぞは夢の夢であった。今、リンゴは安くどこでも食べられるが、実際このリンゴから戦後の第1ページが始まったんだと感謝の念で手にしてくれる人が居なくなったのは淋しいことである。


並木路子……本名南郷庸子。大正10年(1921)東京・浅草に生まれた。幼少の頃から音楽の大好きな子であったという。昭和11年、松竹少女歌劇に入り、翌年国際劇場でデビュー。とてつもなく明るく気取らぬ人で、僕も司会者として永年お付き合いしたが一度も怒った顔を見たことがなかった。渋谷の道玄坂でスナックを経営していたが、もしかしてこうして来て下さるお客さんの中に、あの時私に手をさしのべて救ってくれた方か、その身内の人が居るのではないかと思うと、どんな方にも親切に明るく接したいのだと言っていた並木さんが、浴槽で死亡していたという悲しい知らせを受けた時のショックは今も忘れられない。


「リンゴの唄」で売れた並木さんには果物の名のついた「バナナ娘」や「パイナップルと私」といったタイトルの唄もあるが、他に「森の水車」「可愛いいスイートピー」といった唄もある。昭和26年にラジオから盛んに流れて耳にしていた三木鶏郎の作詞・作曲「ボクは特急の機関手で」も並木さんが歌っていたとは知らなかった。


昭和57年から二葉あき子さん、池真理子さんらとコロムビア5人会なるものをつくって活動していたし、昭和63年に台東区のスターの広場に映画監督の山田洋次、歌舞伎俳優の尾上菊五郎とともにサイン入り手形を収めた。また同年、長野県須坂市の市民グループからリンゴの女王の章を受けたし、平成4年には社団法人「芸団協」より芸能功労賞を受賞。日本歌手協会副会長も務め、平成6年に文化庁長官賞で表彰された。秋田県増田町や仙台にもリンゴの唄の碑があって正にリンゴひと筋の人生を全うしたのである。


東京・墨田区本所にある華嚴寺の墓前に立って線香を供え手を合わせると、軽くステップを踏みながら笑顔で歌っていた並木路子サンの人なつっこい顔が見えてきて、思わず墓石に手を当てながら「今よりもっとリンゴを好きになりますから」と約束しちゃったボクでした。


【写真】=東京・墨田区の華嚴寺にある並木路子さんのお墓