神田お玉ガ池の親分若死に大川橋蔵

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

“男だったら 一つにかける  かけてもつれた 謎を解く
 誰が呼んだか 誰が呼んだか 銭形平次 花のお江戸は八百八丁
 今日もきめ手の 今日もきめ手の   銭が飛ぶ”


テレビで放映された銭形平次の主題歌は舟木一夫が歌って、主人公の平次は大川橋蔵が颯爽たる姿を見せていた。どんなに画面で悪人めらをバタバタやっつける銭形の親分も病気にだけは負けてしまうのである。昭和58年9月頃から体調を崩して入退院を繰り返しながらテレビの「銭形平次」を演じていた。実に11年の長きにわたったのである。


テレビだけでなく東京と大阪で舞台公演をしたりして、少しぐらいの事では休まないのが命取りになってしまうのだ。逸見政孝さん、渥美清さんなどそのいい例である。その点ヒマをもてあまして外国旅行したり野球ばかりしているボクは長生きできますかね。橋蔵さんの病名は結腸ガンで肝臓にも転移していた。本人に伏せていたというが「俺は自分の病気は知ってるよ」と言ってたという。そしてお医者さんに「大酒を飲む訳でなく、煙草も吸わず食事に気を遣って、いつもおなかに健康帯を巻いていた私が、何でこんな病気になるんですかねえ」と口惜しさをもらしていたそうな。


1929年(昭和4)4月9日に東京で生まれた。そして1935年(昭和10)には市川男女丸の芸名で初舞台を踏む。1941年(昭和16)に六代目菊五郎の養子となって44年に大川橋蔵を襲名した。55年に東映に入社して「笛吹若武者」で銀幕デビュー。この時の共演が美空ひばりと大友柳太郎であった。橋蔵は翌年には「若さま侍捕物帖」に早くも主演し大好評。そして59年には「新吾十番勝負」に出演しこれも当たり役となった。66年(昭和41)にテレビ時代劇の「銭形平次」が始まってここに確たる地位を築いたのだ。67年には歌舞伎座で第1回「大川橋蔵公演」が華やかに幕をあけた。


こうして映画にテレビに引っ張りダコとなりこれからが楽しみという時に逝ってしまうとはね。「銭形平次」はギネス・ブックでテレビの1時間番組世界最長出演と認められたが、フジテレビのチャンネル数が8で水曜の午後8時から放送されたので888回をもって終了する事になったんだって。


勧善懲悪の時代劇は「水戸黄門」や「大岡越前守」もそうだが、日本人全部に共通する精神である。イヤ、そうあって欲しい。なのに最近は罪のない幼な児を平気で殺す親や、ホームレスの気の毒なオジサンを撲り殺す高校生。サリン事件、通り魔、無差別殺人はどうなっているんだ!と思わず投げ銭を取り出したが、500円はもったいないので慌てて引っ込めた。


1984年(昭和59)12月7日橋蔵は55才の若さで逝ってしまった。運命の日が近づいた時「俺の命はあと3日だ」と言ったのが12月4日で、本当に7日の午前1時29分に息を引き取ったという。ちょっと恐い話だが。


葬儀の時、未亡人となった奥様(真理子さん)は「主人はたったひとつの宝はお前だと言ってくれました。日本一の主人でした」と挨拶したのである。ウチの奥さんに俺の時にもそう言ってくれと言うと、「完全チョー悪!」だと。


〔写真〕大川橋蔵さんのお墓は東京・雑司ヶ谷霊園にある