生涯独身を通した エドガー・ドガ(1834~1917)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

愛知県の渥美に曹洞宗のお寺で潮音寺というお寺がある。ここの住職宮本利寛サンは駒大の後輩で、ここには芭蕉の弟子で杜国の墓があるし、田山花袋の「一兵卆」のモデルとなった人の墓もある。寺も檀家に恵まれるとウハウハで、先年亡くなられたが松野鎌吉氏という大財閥が居て、一寄進(一人だけ)で観音様を寄進、さらにデッカイ観音堂まで建ててくれた。山門は皇居の松が伊勢湾台風の折に折れた物を、特別のコネで宮内庁からお下げ渡しいただいて渥美まで運んで建てたという千代田門。この松野氏がその財力にモノをいわせて集めた刀剣、大名の道具類そして書画、洋の東西を問わず素晴らしい美術品がワンサ。そんな凄い人を紹介してくれたおかげで、我が家にも芭蕉、蕪村、崋山らの軸や、ユトリロの絵などが労せずして転がり込んだ。自然絵画に興味を持つようになって、時間を見てはブリジストン美術館やデパート等で開かれる展覧会を見に行った。


ドガの「踊り子」や「浴後」「踊りの稽古場にて」を観た後にパリに行って、モンマルトル墓地でドガの墓の前に立った。パリに30年以上住まわれて絵筆を握っている元村平先生とご一緒で、その折ドガについて教えて頂いたのは今こうして原稿を書くに当たって大助かりである。ドガの家は大変裕福だったという。父はパリの銀行家で芸術にも理解があり、ドガが一旦は大学の法学部に入ったのをやめてアングルの弟子になって美術学校に学んだが文句は言わなかった。しかしエドゥワール・マネと知り合ってからカフェ・ゲルボワに集まるモネ、シスレー、セザンヌ、ルノワール、ピサロ達と絵画の方向を論じたりしたのがドガにとって大きなプラスになった。エッ? 酒でも飲んで皆で騒いだのだろうって? ドガチャガ! 真面目な話だってんだ今回は!!


ドガは右の方の目の視力が良くなかった。気付いたのは普仏戦争に従軍した時、鉄砲を撃とうとして標的が定まらなかったのでコリャおかしいとわかったという。見えぬままに引き金を引いた。これが本当の無鉄砲!! マジメな話してんだぞ。


だがいくら真面目に素描をし様々な絵を描いても、左目までが駄目になってはダメージが大きすぎた。若い頃は街行く女がいい男ねえと振り返る程のダンディだったドガは口惜しくて仕方がない。遂に両目とも失明してしまった彼は手探りで彫刻を続けたというから精神力だけは溢盛だったらしい。ドガの残した作品にバレエの絵がかなり多い。優美なバレエの世界を流れるようなタッチで描いているのが素晴らしい、とこれは批評家うれしセンセの独り言。


マネはその夫人が美人である事を自慢にしていた。夫人がピアノを弾くのをドガ達は聴きに行った。むしろマネに会うよりその美しい奥さんに会うのを楽しみにしていたようだ。マネはドガ達が親しげに話すのを快く思わなかった。ドガが美人の奥さんとマネを描いた絵を贈ったらマネは奥さんの顔の方を切ってしまった。そんな勿体ないマネしないで欲しい。83才で死んだドガは余りマネーは無かったとか。