スーパーマンのはなし家――柳家金語楼(1901~1972)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

およそ落語家でこの人ほど多方面で活躍した人はおるまい。寄席の高座から始まって、芝居(劇団も持った)、映画、テレビ、そしてある時はジャズバンドもつくったりしたし、発明家としても有名だった。売り物のハゲ頭は大正10年に朝鮮羅南第七十三連隊に入隊してから、紫斑病にかかって九死に一生を得た代償としてなったモノ。災い転じて福となすってやつで、お笑いを売るのに誠に都合のいいご面相となり、軍隊の経験を生かした「兵隊落語」は大ヒットとなった。上官に名前は? と聞かれ「山下ケツ太郎!」と泣きべそをかきながらハゲ面をクシャ!! 客席に笑いの渦が涌く。


金語楼は明治34年3月、港区の茶屋の長男として生まれた。6六才の時に芸事の好きな祖母につれられ寄席に通ううち、小噺や踊りのカッポレを覚えてしまう。


ある日、高座に穴があいた。すると祖母が「ホレ、お前がシャベリな」と高座へ押し出してしまった。6才の坊ヤは何の臆する事もなく小噺を。するとこれがウケて2ツ3ツ。もっとやれ! の掛け声に「カッポレ」を踊ってこれまた大ウケ。翌日から出番が決まって天才少年ハナシ家が誕生。しかし小学校へ入って友達にせがまれ一席やったら学校からお達しがきて退学。


大正2年小金馬を名乗り、9年に19才で柳家金三となって真打ち。この金語楼師匠が何と見掛けによらぬもので、大の野球好きだったというからうれしいネ。初めてグラブとボールを買った金サン。もちろん大正時代の話。ボールはゴムボールでなく本物の皮ボール。相手が居ないのでボールを屋根に投げて落ちてくるのを下で受けていた。何回かやってるうち、ゴムボールと違ってはずまないのでトヨの中へ落ちてしまった。物干し竿でドンドン突いたらそのトヨがこわれて落ちて親父からメチャしかられた。


では、どこかで野球をしてないかと探したら芝浦の方に貸しグラウンドがあってチームが集まってる。1人足りなければ入れてくれないかなと少々期待してると、すみません手伝ってくれますかといわれシメシメ。ところが審判をしてほしいとの事。ルールも知らないのに? まあ当たってくだけろとキャッチャーの後に立った。面も初めての事でボールが見にくい。ピッチャー第1球! 恐ろしくて目をつむってしまう。何か言わねば、とストライク!! 「えっ、今のワンバウンドですよ」「それじゃボール」。面があるから見にくいと外して構える。第2球、バッター空振り。キャッチャーのミットもかすらずまともに金サンの顔を直撃! 気絶して寝かされて気が付いたら4回が終わった所だった。


自分のチームをつくって試合をしピッチャーを。上の方から山なりの大スローボール。大屋根ボールと名付けて、これが遅すぎて打てない。バッターボックスに立つと相手の投手が顔がおかしいとまともに投げられなかったとさ。


紫綬褒章、そして喜劇人協会会長を務め、勲四等も受けた金語楼師匠の墓は、東京・五反田の本立寺にある。