日本のレオナルド・ダヴィンチ――小堀 遠州(1579~1647)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

遠州…という人を知ってるかと、芸人仲間に聞いたら7人が遠州といやあ森の石松だろうと答えた。僅か1人が小堀遠州か?と云う。子供の夏休みの宿題を見ていたらその名があってね、だけど何する人かよく読まなかったけど…と情けないハナシ。


名古屋や静岡へ旅行した時にお城をご覧になりませんか。あの素晴らしい天守閣を見て一様に感銘を覚える筈。ハイ、あれが小堀遠州サンの作品なんであります。イヤイヤこの方、お城ばかりでなく、庭園を造らせたらこれまた素晴らしいものをつくっちゃう。例えば京都の南禅寺の庭や大徳寺の孤篷庵、名勝岡山の頼久寺など沢山の名園を造っているのです。


36才の時に遠州は、天皇を退位した後水尾上皇や東福門院(お后様)のために花壇のある庭を造った。なあーんだ花壇の庭なんざ珍しくないという方のために云っておくと、鎖国時代に西洋式の庭を考えるなんてヒトはおりゃせんじゃったのよ。遠州がこの庭を造って後に、フランスのベルサイユ宮殿がこれに似た庭を造ったってんだからいかに進歩的かつ優れた造園家であったか分かろうというもの。それに遠州サンは茶道の達人でもあって、ウチのオフクロ(明治42年生まれ)も遠州流の茶道をたしなんだというご縁!


遠州は豪族の長男として1579年(安土桃山時代)に生まれた。名を作介といい、父新介は大和国の郡山城で秀吉の弟秀長の家老をつとめていて、作介はその秀長の小姓として仕えていた。秀長が関白秀吉を招いて茶会を催した折に、千利休が来て堂々と秀吉と対座している姿に感動しオイラも将来は茶の道で名を成してやろうと心に決めたという。そして古田織部という利休亡きあと第一人者の師について学び、その才能をいかんなく発揮した。


利休も織部も共に切腹を命じられてしまうという悲しい結末であるが、この小堀遠州は69才まで周囲からも大事にされ、弟子も多く、茶道の遠州流を拓き、良き人生を送ったという。オ茶は鎌倉時代初期に栄西禅師が中国(宋の時代)より持って帰り、抹茶の栽培は九州の背振山の山麓などで始まったとか。大体オ茶はお坊さんの間で飲まれていたらしい。茶坊主ってのが居たよネ。


遠州の名は家康がその居城、駿府城の建築を小堀サンに命じた事に始まる。出来上がった城、殊にその天守を見てぶったまげた。何という美しさ、ワンダフルであるぞよと仰せられて、「諸太夫従五位下遠江守」という称号を与えられた事による。以来、略して遠州と名乗るようになった。


オフクロは今93才。耳もよく聞こえるし、足もまだ自分の足で歩ける。更に口ときたらハッキリ云いすぎるくらい。今ね、遠州について原稿書いてるんだけど何か習ったことでないか?と聞けば、エンシュウって、防火演習かい。違うよオ茶の方の、ホラ自分がやってたろ、遠州流の小堀遠州だよと云えば、「あゝ昔お前が、私の大事にしてたオ茶碗を割ってしまったっけね。あれは高い茶ワンだった」。黙れ!! この芸人の母め!


小堀遠州のお墓は東京・新宿区原町の法身寺にある。