俳優、演出家、そして「江戸むらさき」の三木のり平

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

三木のり平さんとご一緒したのは、もう25年以上になるがライオンジャブジャブショウという歌ありお笑いありの公演で東北地方を廻った時である。作曲家の曽根幸明氏はまだサニー曽根で歌っていたし、脱線トリオ(由利徹、八波むと志、南利明~何れも故人)やこれも今は亡き佐山俊二さん達と賑やかに旅を楽しんだ。


のり平さんは一人でシャべるコーナー(20分)を任されていたが、芝居の役者は相手があってシャべれるものなので一人ではやれない。だから相手をしてくれと頼まれてボクが話の引き出し役をつとめた。 映画と芝居の話の一段落した所でのり平さんのパントマイムに入る。寿司折りをブラ下げて帰宅の途中ヤキトリ屋が目に入る。通りすぎようとするが誘惑に負けて中へ。酒を二本、三本と重ねノレンで手をふきながら外へ。


小用をもよおし(客席に背を向け)チャックをおろすしぐさ。そこへ人が来て慌ててやめる。また改めて…。イヤまた今度はご婦人が通る。愛想笑いでごまかし、女性が行ったの確かめて今度こそ…。


所が今度は警察官が!我慢しきれないのを足をよじり腰をひねりながら敬礼をしてやり過ごす。ヤットの事でチャックを…。だが限界を超えた我慢が持たず、ズボンの中をオシッコが流れる。


その表現力のおかしさに場内は爆笑。ベタベタに濡れたズボンを指で引っ張るしぐさ。そして右足を靴から外すと靴を前後に動かす。中にたまった小便をこぼして振ってまた履き、手についたオシッコをチラッとなめて終わる。


もう袖でこのシーンを毎日ハラを抱えて笑ったのだ。どこかでこれを使いなさいよと教えられ二度程使わせて貰ったが、あの名人芸はとてもボクのような底の浅い芸人ではこなせないと思った。


のり平さんは本名を田沼則子(タダシ)といい、この名前のお陰で女性と思われ徴兵検査を逃れたという。


1924(大正13)年、東京の日本橋に生まれた。日大芸術学科在学中から演劇活動をし、卒業して三木鶏郎グループに参加。東宝映画「のり平と三等亭主」や森繁久弥の「社長シリーズ」、「駅前シリーズ」で人気者になる。


舞台で有名なのはセリフ覚えが悪く、アチコチの小道具に書き込んでおいたのをかたされて困ったなんてハナシも。数ある出演の中でも「雲の上田五郎一座」は傑作中のケッ作。玄治店の場での八波むと志とのカケ合いは史上最高の笑いであった。


1999(平成11)年1月に74才で逝ったが、お笑いで売った人は案外若死にしている。鳳啓助(71才)、中田ダイマル(68才)、フランキー堺(67才)、瀬戸わんや(66才)、佐山俊二(65才)、ハナ肇(63才)、藤山寛美(60才)、東八郎(52才)、三波伸介(52才)。


そこで声帯模写で寅さんの漫談の原一平さんに電話して渥美清さんは幾つで亡くなった?と聞いたら、68才だったというので「あんたも気をつけな、寅さんの真似してゼニもうけしていると早いよ」と言ったら「イヤ、私はコピーだから長生きしますよ」。電話を切ったら今度は向こうから掛ってきて、「うれしさんも長生きしますよ、若死はスターだけですから!」。


墓は浅草田原町の清光寺。