強運の我がオ父つぁん コロムビア・トップ家の墓石

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

コロムビア・トップ(下村泰)センセは我が師匠。1922年(大正11)浅草に産声を上げた。お産婆さんが驚いた。この子は今に天下をとるようになるよ、ホレ手をごらん。右手を上げて天を指してるでしょ(お釈迦様じゃあるまいし)。その時左手がお尻の所を指してたんで長じて痔になったんだって。


でも右手の方も当たってたんですね。漫才界のトップになった上に1970年(昭和45)には芸術祭奨励賞を受け、その4年後には参議院選に出馬して当選。


トップ親父は幼き頃から芸事大好き。芝居に寄席にオイチョカブ。そして素人劇団をつくっての巡業。そのうち戦雲急を告げ遊び人の下村クンも招集されて仙台へ。1年足らずで郡山からビルマの戦場に送られた。所属したのが戦時歌謡でお馴染みの「加藤隼戦闘隊」でありました。そこでデングレスという厄介な病気になった。


熱が40度以上になって目がくらみ節々が痛い。1週間以上寝込むと大抵の人は天国からお迎えがくる。しかし下村サン、入隊する時持っていった吉原の女郎のあそこの毛を守り袋に入れたヤツを握りしめていた甲斐があって無事生還(性還)。


ところがイヤな上等兵に死ぬ程撲られたのである。何が何だかその理由がわからない。後でわかったのは熱にうなされて寝ている時に、そのイヤな上等兵の名を言いながら、あの野郎ふざけやがって爆撃の時覚えていやがれ、弾は前からばかり飛んでくると思うなよ。それじゃ上等兵殿怒って当り前。


やがて敗戦、そしてお定まりの捕虜生活。その1年間毎週土曜日が演芸会。こうなりゃ下村サンの出番で。戦友の池田喜作サンとのコンビで漫才を演ったがこれがバカ受け。ナコンナヨークという所へ集結した30万の捕虜の中でたちまち大スター。


バンコクへ移る間メコン河支流の泥水を濾過して兵に飲ませる濾過車があってキレイにするまで時間が掛かる。その間に河へ洗濯に来ていた女を選択する間もなく手を付けてしまった。それがイケない。ご当地の警察署長の娘で妊娠しちゃった。イヤ、させちゃった。村の娘に…。シモムラだから。


いやシャレてる場合じゃない、おっかない署長さんと部下が不埒な助平の日本兵を捕まえに来たんですぞ。慌てた下村サン、さすが元劇団で鍛えた腕の見せどころ、包帯を顔に巻き赤チンをにじませベットに横たわって難を逃れたという。そして1946年(昭和21)8月焦土と化した日本に無事ご帰還。しかも運良くいい弟子に恵まれ、さらにうれしの紹介で目黒区八雲の東光寺に立派な墓まで建立したのである。


そして、トップさんは2004年(平成16)6月6日終演を迎え、このお墓に永住することになったのである。


“これが 終の棲み家か 笑い塚”(元句 一茶)


写真=コロムビア・トップ師匠のお墓は東京・目黒区の東光寺にあります