直木賞作家 胡桃沢耕史 直木三十五と並んで永眠

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

平成3年(1991)東京晴海港を出航した新さくら丸は天津に向かった。ゆたか倶楽部という所で企画した船の旅で、ボクと春日三球サンとで往き帰りに2回ずつ漫才を演った。


この旅に講師として作家の胡桃沢耕史さんも同行。氏とは本名の清水正二郎で盛んに官能小説を書いていた頃に何回か会っていたが、今回は畏れ多くも直木賞をとった大センセになっていた。


胡桃沢耕史さんは「大正14年4月20日に東京の向島で9人兄弟の長男として生まれたけど、親父がダメ親父だったから苦労したよ」と語る。


―事業に失敗してイモばかり食わされてさ、俺がエロ小説書いてゼニがパカパカ入ってくると「金くれ」って来るんだよ。金がいくら入ったって三流作家じゃ仕様がないよ。俺と同じにスタート台に立ったモンが皆出世してさ。司馬遼太郎なんかトップスターになっちゃって口惜しいの何の。よし、俺だって負けちゃおれん、今から頑張って直木賞とってやる。そして一流の作家はみな鎌倉に住んでる。必ず目的達成と心に誓ってさ。版権を全部売っちゃって3000万円つくったよ。それをポンと2つに割って女房に、これで子供を育てながら10年間食いつないでくれ。俺は10年間世界をまわって勉強してくるからと言ったら、うれしさん家内は何と言ったと思う。「行かないで下さい…?」。そうじゃないよ。暫くその金見てたけど、「これで10年待ってればいいんですか。で11年目からはどうします?」って言いやがんの―。


話は続く…ホンダのバイクで世界中まわったんだけどある国の道端でヒッチハイクしている若い女に会ってね。その娘を乗せて走りまわった時は楽しかったな。ドイツの娘でスタイルはいい顔はいい。胸なんざ…。ところが国境で検問にあってさ。その時バイクの泥よけの所に覚醒剤の粉が隠されているのがわかってね。イヤもちろん俺じゃない。その娘が持ってて慌てて隠したんだな。2人が別々の所に連れて行かれて厳しく取り調べられたよ。でも俺は全く知らないから正直に知らぬと言ったさ。暗い穴ぐらに放り込まれて1日かたいパン1個だ。時々バアーンと銃声が聞こえて処刑するんだ。明日は我身かと毎日そりゃ恐ろしかったね。でもある日突然釈放されてね、その娘があの人は全く関係ないと証言してくれてね。「じゃ、これから何があってもそれに比べりゃ恐ろしくないですね」「そうさ矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ!」


その船旅から戻った次の年(平成4年)に鎌倉の自宅へファンだと名乗る女性が花を持って現れ、いきなり柳葉包丁で2カ所刺された。幸い命はとりとめたが、その2年後の平成6年(1994)3月22日に多臓器不全でなくなった。68才で遅咲きの作家は散ったが、崇拝していた直木三十五の墓の隣に、生前自分の墓を建てておいたので今はそこに安らかに眠っている。


昭和30年に「壮士再び帰らず」でオール読物新人杯。同58年にシベリア抑留生活を描いた「黒パン俘虜記」で狙ってた直木賞をとり、その後も「飛んでる警視」シリーズをヒットさせた。今は天国で好きなバイクで飛んでるのか。


〔写真〕横浜市金沢区の長昌寺にある胡桃沢耕史さんのお墓