明治大学の名物猪監督 島岡吉郎

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

島岡サンは応援団出身の監督である。明治大学を卒業して六年間証券会社で働いていた。戦時中は海軍の特務機関に居たという。サラリーマンから請われて明治中学(現高校)の野球部監督になったのが昭和21(1946)年の事だった。三度の甲子園の土を踏んで、その後万年優勝候補であった明治大学の監督に就任したのである。28年秋には11年ぶりに六大学リーグで優勝を果たし、以来15回の優勝に貢献した。また大学選手権も五回優勝させたのだから敬服である。


しかし、この人ぐらい愉快なエピソードの多い人はいない。人間何処で倒れてもゼニを持ってなければ恥をかく、それに何でも1位にならねばと、縁起をかついでいつも毛糸の腹巻には一萬一千百拾壱円を入れていた。それと梅干の種をお守りとして入れておいたのだ。種を割ると中に白い物があって、昔の人は天神様と言った。だから監督は自分の守り神にしていた訳。


或る日、明大のグランドで社会人のチームとオープン戦を行った。試合途中でピンチになっていつもの守り神にお祈り……と腹巻の中に手を入れたが梅干サンが無い。「オイ、梅干が無い。探せ!」。部員が地を這いながら探す。一方相手のチームは何だかわからない。ハハア御大コンタクト落としたんだなと見ている。


どうしても見つからぬので4年生が1年部員に、「合宿のオバさんから梅干貰って洗ってな、泥をまぶしてこい」。1年生が戻ってきて上級生に種を渡す。「監督ありました」。「オウ、あったか」。手で泥を払い落とし親指と人さし指にはさんで眺めた島岡サン。「ウーン、これはワシの梅干じゃない!」。つまり監督の種は永年指でこすっているからツヤが出ている。それに新しいのは先がトガッていて痛いのでバレてしまったという。


阪神に入って活躍した平田勝男選手が4年の時、法政に負けたら「切腹して死ね」と言われたそうな。駒沢大が明治のグランドでゲームをした時、今日はワシが審判をすると面をつけて立った。2死で走者が1塁。駒大の4番栗橋(後近鉄へドラフト1位)がバッターボックス。第1球真ん中へストレート。すると御大「ストライク・バッターアウト」。「エッ? 監督さん僕まだ一球ですよ?」。「4番打者があんなド真ん中を見逃しやがって下がれ!」と1球で三振という珍プレー。島岡サンならではの一幕。


大洋の秋山・土井の名バッテリーや、鹿取(巨人)、広沢(ヤクルト)、星野(中日)等プロ野球へ多くの人材を送った島岡監督の決まり文句は、マウンドへ行くと「何とかせい」。打者にも「何とかせい」。投手の調子が悪いとマウンドへダッシュ。行こうとするのを鹿取が「監督ダメです、2度目です」「はなせ!」「2度目です」。2度行けば自動的に投手交代になるのなんかカッとなるとすぐに忘れてしまうのだ。その力のある身体を押さえるのに毎試合苦労したとか。だから君は押さえのエースになったんだろと言うと、「アッそうかも」。

平成元(1988)年4月11日、77歳で逝った。墓は故郷の長野県下伊那郡高森町の実家の前に在る。