笑わせる事だけに生きた 由利徹サン

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

「チンチロリンのカックン」そして「オシャマンベ」の決め言葉で売った由利徹は1999年の5月20日にこの世を去った。喜劇人の多くがそうであるように、この人も外ヅラと内ヅラは全く別で、あの舞台や楽屋でのサービス精神は家庭では見られなく、家人とは必要最小限のオシャベリしかしなかったという。


大正10年(1921)宮城県石巻市で大工の長男として生まれた本名・佐々木清治は、子供の時にのぞいた旅回りの一座にハマッてしまい、オレは芸人になると心に決めてしまう。そして家出をするがその度に連れ戻されて怒られた。だが昭和15年、遂に脱出して上京、新宿にあったムーランルージュに入った。


しかし、憧れと現実とはまるで大違い。そこにはすでに益田喜頓、有島一郎、左卜全らが人気者としてもてはやされていた。一番のネックは何といっても丸出しの東北弁。他の人のようなスマートな言葉が出て来ない。通行人とか一言のセリフで終わってしまう役ばかり。だがある日その東北弁がウケてドッと大爆笑。以来、地のままでイケる自信ができ、やっと役者になれたと思っていたら昭和18年、22才の時に召集令状が来て、中国へ出征する事になってしまう。


運良く帰国できて再びムーランに戻ったら、早大を中退して入ってきた森繁久弥が彼の前に立ちはだかっていた。何をやってもかなわぬ気がしていたし、虫の居所も悪く、ある日新宿の飲み屋で口論となり、由利は森繁をブン殴ってしまった。そのうち森繁はNHKでラジオのレギュラーが決まってスターへの一歩を踏み出し、ムーランも昭和26年に解散になり、由利は横浜のストリップ劇場で細々と稼ぐ事になった。


ここで出会ったのが八波むと志と南利明。飲み屋で知り合った日本テレビのプロデューサー村越潤三氏に見出されて三人が組んだ「脱線トリオ」。お昼の生放送でのコントはたちまち彼らをスターにした。「脱線三銃士」などの映画も大当たり。だがこういったトリオや漫才が解散するのも当然、それぞれの個性が強すぎてケンカ別れになってしまう。


やがて八波はスター街道まっしぐら。南にも去られ由利はあせっていた。だがその絶頂時に八波は自動車事故で世を去った。早暁の神田で当時まだ走っていた都電の停留所(安全地帯という石のカベがあった)にモロに突っ込んで同乗のホステスらと散ってしまった。由利さんが「行ってみたらこの安全地帯は危険ですってハリ紙があった」と後に笑い話にしていたが、かなりショックを受けたらしい。


ショックといえば弟子のたこ八郎が神奈川県真鶴の海で溺れ死んだ時、我が子を失ったような悲しみであったという。ズッと後になって「たこが海で死ぬなんてシャレにもならんよな」って言っていた。


吉幾三の舞台に出ている時、身体の変調に気づいたが、時すでに遅く末期のガンであった。生涯ドタバタ喜劇に徹した由利さんは、もうドタバタは疲れたと世田谷区代沢の森厳寺で静かに眠っている。