美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

美男スターの墓は東京と京都に 長谷川一夫

毎日のようにテレビや新聞で殺人、強盗、ヒッタクリ、暴走族などによる事件が報道されている。心配いらんよ警察があるさと言いたいが、これまたエッチ警官や酔っ払い警官が後を絶たない。この何年か度々署のおえらいさんが報道陣のカメラの前に深々と頭を下げるという哀れな姿が目立った。こんな時に銭形平次親分が颯爽と現れて、目にも止らぬ投げ銭の早業でバッタバッタやっつけてくれたらと思うよ。あの投げ銭はかつての名投手・別所や金田、稲尾のモーションを研究したというし、「半七捕物帳」の時の十手さばきは王や長嶋の打撃フォームにヒントを得たとか。そういや野球も目明かしもどっちも捕り物だよね。


長谷川一夫は明治41年(1908年)京都市伏見区の造り酒屋に生まれた。すぐ近くに芝居小屋があって、叔父が経営していたからチョクチョク行っていて芝居大好き人間になってしまう。ある日その芝居の一座の子役がアクシデントで出られない。困っていた時、そうだいつも一番前で観ているあの子なら吃度できるよと勝手に決めて叔父(小屋主)さんに交渉。本人は言われて嬉しくて出たらこれがバカウケ。評判の芝居を観に来たお母さんが目の前で芝居している我が子にビックリ仰天 最初は猛反対だったが、いつしか自分の方がノリノリ。遂に初代中村雁次郎に弟子入りして林長丸という芸名をもらった。


昭和2年(1927年)長丸にとって大きな転機を迎える。雁次郎からお前は活動写真をやってみなさいと命じられ、松竹下加茂に入社した。これが長さんのツキの始まり。だって歌舞伎の世界じゃ名門の生まれでなけりゃ所詮端役でしか使ってもらえない。それがいきなり主役でデビュー。「稚児剣法」…モチのロンこの頃は無声映画、つまり活動写真でござんすよ。この長二郎の余りの美男ぶりに世の女どもはキャーキャーワイワイ。長さんならでは夜も日も明けぬという凄さ。昭和10年(1935年)の「雪之丞変化」は雪之丞、闇太郎、母親の三役をこなし記録的な大ヒットとなった。同じ三役でもウチのカミさんみたいに、妻と母と祖母の三役ってのはもう駄目だっちゅうの。


無声映画からトーキーへ移り変わる時は阪東妻三郎にしても誰もが不安だった。長さんも関西ナマリがあって大丈夫だろうか?とリズム感を良くするために小唄、端唄を習ったり、NHKのニュースを聞いて標準語の勉強をしたらしい。しかしトーキーになっても人気は益々上昇。だが好事魔多しのたとえ通り、松竹に嫌気がさして東宝へ移ることにしたが、そのため暴漢に襲われ(昭和13年)、役者の看板である顔を切られるという事件が起った。傷はひどい物で一カ所が左眼の下から上唇にかけて12センチ。もう一カ所は左耳の下から頬にかけて10センチ。深さが2センチもあり、二枚のカミソリで切っているので絶対に元のように上手く縫い合わせぬと言われた。もう駄目だ、役者稼業は続けられないという絶望感!しかし長さんは不死鳥のごとく甦ったのだ。昭和13年の頃では今のように化膿止めの抗生物質など無い上に、整形手術の技術も進んでいない時代にかなり良い状態で回復したのである。


といってもその傷跡はハッキリ分かるのでいかに化粧でゴマ化すかということになるのだが。手術後の東宝映画の第一回の作品が菊池寛原作の「藤十郎の恋」に決まり、監督が山本嘉次郎でお梶の役は入江たか子。だがここでまたまた災難がやってきた。松竹の方から林長二郎の名を返せと言ってきた。今まで長さん長さんで売ってきた芸名を返せとは…。ちなみに青空うれしを雨空かなしにするより難しいことだあね。側にいた友人で押絵画家の岩田専太郎さんが「長さん、あんたの本名は長谷川一夫だろ。それでいいじゃないか」という一言で決まり撮影開始。サァ、長さん(林長二郎)でなく長谷川一夫で果してお客さんが来てくれるだろうか?これが封切りの日から長蛇の列。長サマに会いたいのと顔の傷はどうなのかの興味とで押すな押すな。二カ所切られてもこれだ。俺なんざ切られてない顔でもモテねえやとフツーのオジさん達は口惜しがったが仕方がない。兵隊ものの映画では軍隊の方から軍人にあんないい男はいないとイチャモンつけられたっていうから大笑い。兵隊はゴツくてセコイ顔がいいんだね。


私生活の方は最初の女房たみ子との間にできた長男の林成年と長女季子、そして二番目の妻となった繁にできた稀世がいて、これも美男スターなら当り前。ボク許しちゃう。自分ができないのでヤケクソ。さあてテレビ時代になっても一夫さんの人気は素晴らしい。「赤穂浪士」では大石内蔵助を長谷川一夫。妻りくを山田五十鈴。蜘蛛の陣十郎を宇野重吉。吉良上野介が滝沢修。そして浅野内匠頭に尾上梅幸という豪華キャスト。だいたい長谷川一夫の相手役の女優さんがいい女ばかり。田中絹代、淡島千景、原節子、高峰三枝子、高峰秀子…まだまだいるけど、またヤケクソになりそうだからやめておこう。


特筆すべきは何といっても宝塚のあの「ベルサイユのばら」の演出だ。それこそ美女軍団の中で演出するなんてスゲー。昭和四十九年(一九七四年)秋の公演から昭和51年(1976年)夏の終演まで空前の大々ヒット。東京宝塚劇場の24公演で実に観客動員が58万人を超え、興行収入は八億四千万円。あのベル・バラでは鳳蘭、安奈淳、汀夏子、榛名由梨などのトップスターがステージを飾った。それまで全く宝塚に関心がなかったボクもカミさんが連れて行ってくれないなら別れるの一言で裏から手を回して二度も客席の人となったという甘い、苦い思い出…。


どんなに美男でも、どんなにお金持ちでも、どんなに有名人でも必ず死はやってくる。長谷川一夫とて例外ではなく、昭和59年に華やかな人生のフィナーレを迎えた。国民栄誉賞に輝く長谷川一夫の墓は京都は伏見の極楽寺と東京谷中霊園に分骨されているので「おのおの方、どちらでも近い方へ行って下され」。