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今晩ワ 三波春夫でございます

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

三波春夫ショーの舞台である。司会の荒木おさむさんが「素晴らしいお着物ですね、今回も何着もの衣裳を見せて下さるんですね」と言えば、「ハイ、この着物も皆さんのお蔭で買ったんです」。拍手が湧き起こる。さらに続けて「お客様は神様デス」で大歓声と大拍手。


三波春夫……本名が北詰文司。大正12年(1923)7月19日に新潟県の越路町に生まれた。13歳で上京し米屋や魚河岸で働きながら浪曲学校へ通ったという。16歳でデビューしたものの20歳で兵隊サン。終戦となり極寒のシベリアで4年の抑留生活。しかし運良く帰還し、再び浪曲の舞台に立った。


だが、仇討ちや軍記物を上演してはならぬというアメリカさんのお達しでまるで骨抜きストーリーの浪曲にげんなり。そんな折、歌手になってみないかとの話。早速テストを受けたテイチクで一発OK。ここに南条文若改め、三波春夫の誕生となる。時に昭和32年、三波春夫33歳の正月であった。


歌手にとって歌がヒットするかどうかは天と地の差であり、三波さん6月にはあの「チャンチキおけさ」が大ヒット。さらに「雪の渡り鳥」でダメ押し。12月には早くも国際劇場でのワンマンショー。そして昭和33年(1958)にNHKの紅白歌合戦に初出場し、以来18回連続出場し、通算31回勇姿を見せてくれた。


三波センセ、ドドーンとデッカク稼いだが、金銭面ではかなり渋く、殿様キングスがまだお笑いチームでやってる時に、地方公演で三波ショーの前座。1回目のショーが終わって三波センセの楽屋へ呼ばれた。冷房など無い学校の体育館だから裸同然で居たメンバーが慌てて服を着て恐る恐る伺うと、紙袋の中から飴玉を取り出して「おひとつずつどうぞ」。


また、ある年の正月公演の日劇楽屋。司会の玉置宏サンがくつろいでいると入って来た三波センセ。「玉置サン1週間お世話になります。これ私の気持ちです」と差し出された四角い封筒。受け取るとかなりブ厚い。アララ、世間で言う程センセはケチじゃない。どこかで早く中味を確かめたい。はやる心を押さえながらトイレの個室へ。封を開けてビックリ、何と三波センセのブロマイドが10枚入っていた。クソッやられた。しかし今思うにシャレがキツくて面白くいい話ではありませんか。


「大利根無情」という曲もヒットしたが、意外とその他にヒットの数が少ないのにも驚いた。だが何といっても「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」で国民歌手と呼ばれるようになり、芸術祭優秀賞や紫綬褒章、勲四等旭日小綬章などを貰えたのだから並みのセンセとは違う大センセ。


声帯模写のはたのぼるサンは今でも貴方の物真似で稼ぎ、落語家林家こん平サンもおらが田舎じゃこん平と三波春夫は出世頭と自画自賛。


いかに大ヒットがあってもガンという病気には勝てず、平成13年4月14日77歳で死去。東京・杉並区の妙法寺に本名北詰文司に戻って眠っている。


神様でなく仏様になって。

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