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アメリカで最初のプロ野球人だった ジャップ・ミカド

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

野茂、イチロー、佐々木、長谷川、新庄と今や大リーガーとして本場のアメリカで野球をやってる選手は十指を数える。しかし、まだまだメジャーリーグを目指す選手は増えるに違いない。


これが日本人としてアチラでプロ選手となった第一号となると、ジャップ・ミカド(三神吾郎)という人物だというからビックリ。何故ビックリかというと、今から30年ほど以前に南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツのユニフォームを着て投げていたマッシー村上(村上雅則)だとばかりツイ最近まで思っていたからである。ボクはメジャーやニグロリーグのことを詳しく書いている佐山和夫さんの著書を読んで、その人物の存在を知っていたが、先日、日本テレビで放映された「知ってるつもり」でこのミカドを紹介されアリャーと思った方もいたハズ。当の村上氏もガックリきたかも?だってサインをするとき日本人大リーガー1号と書いていたのだから。


三神吾郎は明治22(1889)年山梨県の甲府で大地主の子として生まれた。甲府中(現甲府第一高)に入り野球を始めて早大へ進みここでもボールを握る。アメリカ遠征で本場の野球の凄さにビックラこいた。よしオレもアメリカでやる 思ったらすぐ実行。ノックスカレッジへ。人種ヘンケンの最も少ないところであったのが幸して伸び伸びプレー。ショートを守らせれば鉄壁。投手もイケル。外野もOKのオールラウンドプレーヤー。この頃は大リーグに白人以外の選手は入れない。黒人はニグロリーグを作っていた。


ここに人種ヘンケンなんてクソ喰らえと多人種を寄せ集めてチームを作ったのがJ・L・ウイルキンソンという人。その名も「オールネイションズ」チーム。ウイルキンソンは三神の評判を聞いて早速ウチへ来ないかと誘った。三神は学生、そこで夏休みの間だけの参加という条件で二年間プレーをした。その華麗な守りはほとんどエラーなし。今ならもちろんゴールデングラブ賞。三神はジャップ・ミカドの選手名で超有名人だったらしい。


しかし好きな野球にのめり込むのも早いが、見切りをつけるのも早い。サッサと二年でオサラバ。大正6(1917)年イリノイ大経済学部大学院を卒業すると、三井物産ニューヨーク支店に入り、大正10年に結婚し自ら中国へ転任を希望して渡った。戦後は進駐軍に関わる仕事をしていたが本場仕込みのペラペラの英語が役に立ったのである。昭和21年、日本のプロ野球再開。しかし三神は六大学の野球をたまに見に行くぐらいで、妻や家族にも自分が野球をしていたことを一切語らず、昭和33(1958)年68歳でこの世にゲームセットした。


ボクは以前からこのジャップ・ミカドに興味を覚え、その墓はおそらくアメリカの何処かにあるのでは?と思っていたら何と青山墓地にあると知り、勇躍カメラを引っさげて飛んだ。その帰りに赤坂で友人と一杯やりながら「ミカドっていや赤坂のミカドがなくなって何年経つかな」というと「いつも指名していたリンダも亡くなったよ…」。


ウチへ帰ると、カミさんが「イチローが大活躍よ。イチローは大したもんね」。すると91歳のオフクロ「田原さんの孫はサンローしてるってね」。

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