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柔道ニッポンの父 加納 治五郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

2000年のミレニアム。20世紀最後の年に巨人軍がセ・リーグの優勝を飾り、パ・リーグのダイエーが優勝したことで夢にまで見たO・N対決が見られた。ファンにとって待ちに待った夢が正夢になった記念すべき年となった。 


だが、しかし何といっても二十世紀掉尾を飾る一大イベントはあのシドニーオリンピックであった。そして幕開き早々ヤワラちゃんの田村亮子(48㎏級)、野村忠宏(60㎏級)、井上康生(100㎏級)らが早くも金メダルを獲って日本中が湧いた。


しかし、絶対これも金以外何ものでもない篠原信一(100㎏超級)は、ニュージーランドの主審モナハンの大誤審で敗れた。「ウッソー」という言葉はこの馬鹿モナハンのためにあった言葉だった。


世界中の人が呆れたこのモナハンの失態も最低だが、嘘の金メダルを誇らしげに持ち帰ったドウイエって奴も、ドウイエばいいかってえとクソヤローとしか言いようがない。投げられた自分が一番分かっている筈なのだから、自分から納得のいくようにもう一回ヤリ直しさせて下さいといえば、たとえ下った判定がヒックリ返らなくても惜しみない拍手を送ってやれたものを。こんなみっともない柔道をもし講道館初代館長で柔道の始祖・加納治五郎が見ておられたら何と言ったであろうか。やはり「カノウ事ならもう一回 」と…。イヤ、シャレを言うのもハラが立つ。


治五郎は1806年、兵庫県武庫郡の御影町に生まれた。11歳の時に上京し、塾生から二松学舎、外国語学校へと進み、この頃から柔術に興味をもち天神真揚流の福田八之助に学んだ。しかし福田が急逝したため起倒流の飯久保恒年についてエイ ヤツ と学問と柔術に励み、明治14年に東大を卒業したという偉い人。


更に大学に残って文学部道義学、審美学を研究しながら学習院の講師も勤めたってんだからスゴーイ。そして明治15年、下谷(現・台東区)の北稲荷町の永昌寺にわずか12畳の講道館が誕生。以来8回ほど場所が変って現在の水道橋の近くに至った。柔術を柔道とすることによってより人間形成の道を拓いたのである。


講道館四天王といわれた横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎、山下義昭らが加納を助けて講道館を隆盛させたが、あの姿三四郎はこの中の西郷四郎(墓は長崎の大光寺)がモデルであるという。


ちなみに柔道に関する歌は?と調べてみたら、村田英雄が「柔道一代」(昭和38年)、「姿三四郎」(昭和39年)、「柔道水滸伝」(昭和40年)を出しているが、何といっても大ヒットはあの美空ひばりの「柔」(やわら…昭和40年)であろう。

“勝つと思うな  思えば負けよ〟

と歌い出しにあるように、勝った と思ったのに負けた篠原クン、残念だろう。外国旅行が何より好きなこの俺だが、今回の件でニュージーランドだけは絶対行かないと心に決めているのだ。ナニ?行くゼニが無かろうって?生まれたばかりの産院へ行ってみろ。そこは乳児ランドだッ。


(加納治五郎の墓は千葉・松戸市の八柱霊園)

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